第15章―18
そして、次に欧亜における最大の量的陸軍大国と言えるソ連だが。
色々な意味で国内混乱を抑えざるを得ないのが、この1940年7月末当時の現実だった。
(史実でも起きた事だが)1934年のキーロフ暗殺事件以降、ソ連国内では「大粛清」が起きた。
これは政府や軍の最上層部にまで多くの粛清者が出た代物であり、甚大な影響が出たのだ。
更に言えば、事実上は1938年に内務人民委員部を指揮していたエジョフが失脚することで、「大粛清」は終わったと言えるが。
その後もスターリン体制の下、それなりの「粛清」が続いたというのが、(この世界の)現実だった。
そして、この「大粛清」だが、ソ連赤軍に大打撃を結果的に与えることになった。
それこそ「赤軍の至宝」、「赤いナポレオン」とまで謳われていたトゥハチェフスキー元帥等が粛清されることになり、多くの赤軍士官が殺戮される「赤軍大粛清」までもが起きたのだ。
(尚、トゥハチェフスキー元帥が粛清された原因だが、1919年から1921年に掛けて行われたポーランド・ソビエト戦争において、スターリンと確執が生じた為という有力説がある。
この戦争において、ソビエト(細かいことを言えば、ソ連が成立したのは1922年であり、ソビエトは未成立だったのだが)は、トゥハチェフスキー元帥指揮の下、ワルシャワを攻め落とす間近に至った。
だが、トゥハチェフスキー元帥率いる北西方面軍に、スターリンが当時政治顧問を務めていた南西方面軍が協力しなかったことから、ワルシャワは死守されることになり、更にはポーランド軍の反攻が成功するという事態が起きた。
更には、レーニンとトロッキーから、スターリンはこのことを批判されることになり、一時的にスターリンは失脚すると言う事態に至ったのだ。
このことを根に持っていたスターリンが、トゥハチェフスキー元帥を粛清したとされる)
ともかく、ソ連赤軍が被った打撃は極めて大きいモノがあった。
赤軍大粛清の結果、元帥5人のうち3名、軍司令官級15人のうち13人、軍団長級85人のうち62人、師団長級195人中110人、旅団長級406人中220人、大佐級では4分の3が殺された、と(後世に伝わった資料では)されている。
この数字が正しければ、ということになるが、大佐以上の高級将校の65%が粛清された計算になる。
又、政治委員(共産党から赤軍監視のために派遣されている党員たち)も最低2万人以上が殺害されたとされている。
また赤軍軍人で共産党員だった者は30万人いたが、そのうち半数の15万人が1938年に命を落とした、とも伝わっている。
これ程に多数の高級将校等が一度に失われては、ソ連赤軍が外国に対して大規模な攻勢を執る等は不可能な話と言って良かった。
実際にフィンランドとの冬戦争で、ソ連軍は大苦戦を強いられており、スターリンは自らが行った「赤軍大粛清」の悪影響を、痛感せざるを得ない事態に至っている。
更には、ソ連赤軍に対して、スターリン率いる共産党の指導を及ぼすのにも、様々な困難が生じる事態が引き起こされることになった。
こういったことから、ソ連政府は当面の間、それこそ他国に対する軍事侵略を自国が行うのを見合わせざるを得ない事態に陥ることになった。
とはいえ、額面上の軍事力が極めて強大なのも、ソ連の現実ではあった。
そうしたことから、いわゆる見せ金、ブラフ(脅迫)として、ソ連軍は行使されることになり、その結果として、バルト三国の併合やルーマニアのベッサラビア地域のソ連への割譲といった事態が引き起こされることになったのだ。
だが、軍事力の内実は上記のようなものであり、ソ連は動けない状況だった。
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