第15章―15
ともかくイタリア政府の態度は、そのようなモノだった。
そして、それ以外の欧州諸国の態度だが、(一部は重複説明になるが)北から順に言えば、フィンランドは冬戦争の末に、ソ連との間でカレリア地方等を割譲した上での停戦協定締結に至っていた。
英仏日等の支援は、結局は間に合わなかったことから、フィンランド政府は苦渋の決断に至ったのだ。
だが、少し裏に回れば、英仏日に加えてスウェーデンも加担し、再度の対ソ戦準備を図っていたのが、フィンランド政府の現状だった。
次にスウェーデン政府だが、表面上は中立政策を崩していなかったが、第二次世界大戦が本格化したことから、ドイツとの貿易が困難になったと主張して、ドイツに対して鉄鉱石の禁輸を宣言する等、裏では英仏日等に加担しつつあった。
それから、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィアといった東欧諸国の現状だが。
それこそ各国間の様々なしがらみが噴出し、更には独やソ連、更には英仏等の大国の思惑が様々な影響を引き起こすのは、ある程度は避けられない事態だった。
(一部は既述だが)それこそ様々な歴史的経緯から、民族の混住があるのが中東欧諸国の現実である。
更に言えば、そういった背景から、この土地、地域は、自国領土だ、とお互いに主張し合うのが、よくあることでは済まないのが現実で、そういったことから、国境等を巡る紛争が絶えないのが、第一次世界大戦直後からこの当時までの現実だったのだ。
だから、一方に味方すれば、他方が敵対すると言うのが、稀では無かったのだが。
独ソ不可侵条約締結から第二次世界大戦勃発に伴う様々な出来事は、そういった事態を、ある程度は結果的にだが収める事態を引き起こすことになった。
例えば、ルーマニアである。
ルーマニアは、第一次世界大戦直後から隣国であるハンガリー、ブルガリア、ソ連と国境紛争を抱えていたのだ。
そうしたことから、チェコスロヴァキアやユーゴスラヴィアと友好関係を締結し、更にはポーランドや英仏とも提携することで、領土の保全を図っていた。
だが、ミュンヘン会談から第二次世界大戦勃発に至る流れは、ルーマニアにしてみれば、極めて不本意としか言いようが無い流れであり、それこそ(独ソ不可侵条約で独も黙認したのだが)ソ連の圧力に屈してベッサラビア地域を割譲することになった。
そして、少なからず時期が前後するが、1940年8月末に(この世界では、イタリア政府は加わらなかったが)ドイツ政府によるウィーン裁定によって、北部トランシルヴァニア地域は、ハンガリー領ということになったのだ。
更に言えば、これ以上のハンガリー(及びソ連)の要求を阻止して、ルーマニアの領土を保全するために、ドイツ軍がルーマニアに進駐することになった。
(尚、これはルーマニア産の原油を、ドイツが安定確保するためでもあった)
(後、この世界では、イタリア政府が動かなかったこともあって、史実と異なり、南ドブロジャ地域は、ブルガリアに割譲されることは無く、ルーマニアのままということにもなった)
とはいえ、こういった流れは、ルーマニアというか、その当時のルーマニア政府にしてみれば、極めて不本意極まりない流れとしか言いようが無かった。
そうしたことから、仏が(史実と異なり)ノルマンディー、ブルターニュ橋頭堡を確保したことが相まって、ルーマニア政府はドイツ政府に対して、面従腹背の姿勢を崩さない事態が起きた。
これに対して、ドイツ政府はルーマニアへの強硬策を検討したが、史実と異なる西部戦線の状況から、ルーマニアに対して強硬策を断行できず、このことは後々になって響く事態が起きることになった。
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