第13章―12
こうした事情から、ドイツ空軍は、ユダヤ人を大量に含むオランダ本国から仏本国へと脱出しようとする難民の移動を妨害するには、日本海軍の戦艦を第一目標と定めて打撃を与えた上で、その後に難民やその避難を援護している日本海兵隊等への攻撃を行なうべきである、と考えて行動したのだが。
実際には、そうは上手く行かない事態が起きた。
「取り舵一杯」
艦長である田中頼三大佐の声が響き、戦艦「金剛」の艦体は、急激に傾く事態が起きた。
ドイツ空軍の空襲が始まり、それに対処する必要が生じたのだ。
だが、田中大佐は余裕がある態度を示しており、更に「金剛」に座乗している遣欧艦隊司令部の面々、古賀峯一中将以下も同様の態度を執っている。
第二次上海事変において、上海沖で「龍驤」が航空攻撃で失われた戦訓等から、日本海軍は空襲回避の訓練を繰り返すことになった。
例えば、予め舵をやや左に切っておき、敵機が攻撃を始めれば、更なる左舵を取ることで、敵機からすれば急激な転舵が取られたように錯覚させ、結果的に敵の爆弾や魚雷を無駄に海中に沈めるという方策が採用される事態等が生じることになった。
その結果として、それこそ味方である第一航空戦隊の空襲でさえ、
「予期されている中で空襲を行うならば、1割も当てることは難しい」
と淵田美津雄少佐に評価される程に、日本の戦艦等の空襲回避の腕は向上しているのが現実だった。
更に言えば、この時の日本艦隊は、対空電探装備の英海軍の艦艇を、いわゆるピケット艦として共同行動することで、事前にドイツ空軍の空襲を予期して、対処することが可能になっていた。
(英語を操る英海軍の艦艇と、日本艦隊が上手く共同行動できるのか、懸念があったが、日本海軍の軍人の多くが、これまでの蓄積から英語が堪能であり、言語の壁が低かったのが幸いしていた)
そして、どちらかといえば、地上攻撃を大前提として訓練を繰り返してきたドイツ空軍にとって、こういった日本艦隊への攻撃が上手く当たる筈が無かったのだ。
更に言えば、こういった空襲を行うとなると、空襲時には間に合わなくとも、日本海軍の戦闘機隊が駆けつけてくるのは、それこそ何時ものこと、と言っても過言では無かった。
この当時、日本海軍航空隊の使用していた96式艦上戦闘機だが、航続距離は約600海里を誇っていた。
後継機の零式艦上戦闘機が、約1200海里という航続距離を持っていたことから、航続距離が短すぎるように96式艦上戦闘機は想われがちな現実があるが、この当時の欧州の戦闘機からすれば、破格の航続距離を誇っていた。
例えば、この当時のBf-109戦闘機は、350海里の航続距離がやっとと言える状況だった。
(尚、細かいことを言えば、それこそ増槽の使用や諸形式によって差異が出るのは、当然の事であり、上記の数字は、それぞれの最多生産形式における日本海軍の公式の数字等を挙げたものである。
だから、96式艦上戦闘機や零式艦上戦闘機の一部の形式については、上記よりも航続距離の長短が生じているし、又、搭乗員の回想録等では別の数字が挙がっている事態が起きている)
そして、日本海軍の空母は、やや後方に控えて、英本土からの英空軍の航空支援によって、ドイツ空軍の空襲から我が身を護ると共に、全戦闘機を戦艦等の支援に投入する事態が起きていた。
こうしたことが、相対的にオランダから脱出するユダヤ人等の難民の脱出を容易にすることになった。
この方面のドイツ空軍の空襲は、主に日本海軍の戦艦等に向けられて、ユダヤ人等の難民に向けられない事態が引き起こされたからである。
とはいえ、既述のように難民の逃避行は大変な事態が起きた。
本来なら、本文中で説明すべきですが、小説として読みづらくなるので、ここで少し補足説明を。
史実の第二次世界大戦末期の米海軍による空襲のような、それこそ100機近い空襲が頻繁に繰り返されては、流石に対処できませんが。
この当時の独空軍に、それだけの対艦攻撃能力があったとは、考えにくく話中の描写になりました。
(更に言えば、当時の独空軍が、史実の日米海軍航空隊のような大量の急降下爆撃や雷撃を日本艦隊に浴びせるような描写をしては、アリエナイと言われそうな気が)
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