第2章―2
少なからず背景説明話になりますが。
この辺りについては詳しく知らない読者が多い、と作者の私は考えたので説明することにしました。
そういった日本国内の激動の動きに注目する余り、自分は完全に見過ごしていて、後になって気づいたのだが、3月には欧州で大事件が起きていた。
ヒトラー総統率いるドイツ政府は、昨年、1935年3月に再軍備宣言を行い、更に同年6月には英独海軍協定を締結することで、順調に軍備拡張を進めていた。
(この辺りについて、話がズレますが、作者なりの背景説明をすれば。
この当時、ドイツの再軍備が順調に進んだ背景ですが、英仏の考えが食い違っていたのも大きいです。
仏はドイツを警戒するあまり、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ユーゴスラヴィアの三国によって締結された小協商と予てから連携していましたが、これはこれで東欧諸国間に様々な対立を引き起こしていました。
この小協商ですが、オーストリア、ハンガリーとの間に領土問題等から来る対立を抱えていたのです。
更にポーランドは伝統的に反ドイツであり、又、ロシア、その継承国といえるソ連とも、長年に亘る対立関係にあったことから、親英仏を外交の基本政策としていましたが、ドイツやソ連の現状、軍事力の拡大を鑑みて、1932年にソ連と、1934年にはドイツと不可侵条約を締結するようになりました。
こうした状況に鑑みて、仏はソ連との友好関係構築を図ることになり、1935年5月には仏ソ相互援助条約を締結しました。
ですが、このことは、反ソを掲げる英にしてみれば、容認しがたいことでした。
何しろ仏ソ相互援助条約は、表向きは経済関係に止まっていましたが、いざと言う際には軍事協力を行うことまでも取り決めており、この当時の欧州の安全保障体制の基本となっているロカルノ条約違反と言われても仕方のない条約でもあったからです。
更に当時の英にしてみれば、コミンテルン(第三インターナショナル)運動を積極的に後援し、共産主義を掲げるソ連よりもヒトラー率いるドイツの方が遥かにマシ、と考えていたという事情もあります。
それなのに、ポーランド、仏と相次いでソ連と修好、友好関係を締結する事態が起きては。
そういったことから、英の伝統的な欧州大陸諸国に対する外交政策(欧州大陸諸国の勢力均衡を図る)もあって、英はドイツに対して宥和的な政策を採ることになり、1935年6月に英独海軍協定を締結することになった次第です。
そして、このことが後述する事態を引き起こしたのです)
ヒトラー率いるドイツ政府は、仏ソ相互援助条約締結はロカルノ条約に違反しており、ドイツは自国を防衛するために、ヴェルサイユ条約及びロカルノ条約によって非武装地帯となっているラインラントに軍隊を進駐させる、と主張して、実際に1936年3月7日にドイツ軍をラインラントに進駐させたのだ。
実際のところ、ラインラントに進駐したドイツ軍の戦力は、19個歩兵大隊を基幹とするものであり、その気になれば戦時に100個師団を動員できた当時の仏軍にしてみれば、鎧袖一触の戦力としか言いようが無かった。
だが、仏政府、及び軍内部は割れていた。
当時の仏軍は、第一次世界大戦前のエラン・ヴィタール(精神の躍動)を、完全に失っていたと言っても過言では無かった。
第一次世界大戦で多大な犠牲を出した反動から、完全に防勢一辺倒に凝り固まっていた、と後知恵混じりだが、批判されて当然の惨状だった。
その為に、ドイツ軍のラインラント進駐を、ヴェルサイユ条約やロカルノ条約に違反するとして、ドイツに対する武力行使、要するに戦争を起こすのに、仏軍上層部の多くが反対する有様だった。
「我が仏軍は、純粋に祖国防衛の為に編制されており、攻勢を採ることは想定されていない」
とある将軍に至っては述べたという。
余談ながら、「エラン・ヴィタール」を最も受け継いだ仏軍の弟子が大日本帝国陸軍で、それこそ太平洋戦争終結まで続いたとか。
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