第2章―1 1936年に起きた様々な出来事
第2章の始まりで、基本的に1936年に起きたことを、主人公が回想していく章になります。
1936年の年末のある日、完全に海軍の代名詞となっている「月月火水木金金」の猛訓練で疲れた体をいたわりつつ、米内洋六大尉は改めて、今年、1936年に起きたことを振り返っていた。
本当に色々な出来事が、日本の国内外であったものだ。
余りにも色々あり過ぎて、何が一番の出来事なのか、人に因って、色々と違う意見が出そうだが、自分にとって、一番に思い起こすのは、やはり2・26事件だな。
2月26日に起きた2・26事件。
日本中が大きな衝撃を受けたと言えるが、特に海軍内部に与えた衝撃は極めて大きかった。
陸軍皇道派の青年将校が率いるクーデター部隊が、政府の要人等を襲撃したのだが、その襲撃された人物の中には、海軍の重鎮と言える面々が何人もいたのだ。
まずは岡田啓介首相、海兵15期卒業生であり、予備役海軍大将でもあった。
斎藤實元首相にして内大臣は、海兵6期卒業生であり、同様に退役海軍大将だった。
又、鈴木貫太郎侍従長も、海兵14期卒業生であり、同様に予備役海軍大将だった。
そういった方々が、陸軍皇道派が率いるクーデター部隊によって襲撃されて、斎藤元首相に至っては命を奪われたのだ。
海軍上層部の殆どといってよい面々が激怒し、陸軍皇道派許すまじ、という態度になるのは当然としか、言いようが無い事態だった。
そうしたことから、速やかに海軍はクーデター武力鎮圧の態度を執ることになり、第一艦隊を東京湾に集結させて、クーデター部隊が抑えている地域に対する艦砲射撃も辞さない、という態度を執った。
又、横須賀鎮守府の海軍軍人を集めて、海軍特別陸戦隊4個大隊を急きょ編制して東京に派遣し、陸軍が躊躇うならば、海軍だけでクーデター部隊を断固、武力鎮圧するという態度も示したのだ。
(尚、全くの余談に近いことだが。
米内大尉が、遠縁の米内光政中将から、極秘扱いの手紙で教えられたところに因れば。
そんな事件が起きること等は露知らず、東京の芸者の待合茶屋で酒に酔って朝まで寝た末に、始発電車で横須賀鎮守府に帰ったら、事件が起きていることを井上成美参謀長に教えられて、慌てて動く羽目になった、と米内中将からの手紙には書かれていた。
(この当時、米内中将は横須賀鎮守府司令長官だった)
更に言えば、自分が留守の間に、井上参謀長が全部手配りをやってくれた後だったから、この事件への対処について、自分はほぼ何もしなくて済んだ、とまでも書かれていたが。
米内大尉は、嘘だな、と直感していた。
自らが幼い頃からよく知る米内中将のことだ。
井上参謀長が、様々な情報収集をして、陸軍皇道派のクーデターの動きを察知した上で勝手働きするのを全部知っていながら、米内中将は全てを黙認していたに違いない。
尚、更なる余談をすれば、米内大尉の想像はそこそこ当たっており、陸軍皇道派の暴発、クーデター発生に備え、横須賀鎮守府では米内長官や井上参謀長の下、海軍特別陸戦隊1個大隊を速やかに東京に派遣できるように準備する等していたのだ)
ともかく、海軍の断固たる態度に加えて、今上(昭和天皇)陛下が、朕の股肱の部下である岡田首相らを襲撃し、一部を殺害した陸軍皇道派のクーデター部隊を絶対に許さない、と言う態度を示したこと等が、2・26事件の失敗を引き起こした。
最終的にはクーデターは武力鎮圧される方向で進むことになり、それを知ったクーデター部隊の下士官兵は相次いで投降し、それを計画、実施した青年将校達は、ほぼ逮捕された。
そして、一審制の軍法会議により、青年将校の多くが処刑されたのだ。
更に、この2・26事件についての様々な背後関係が探られているらしい(と、米内大尉は聞かされてもいる)。
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