エクストラ4: 覚悟の決断
◇◆◇◆◇
翌日、俺はベッドから起き上がった。
なぜか分からないが、驚くほどぐっすり眠れていた。
目覚めた時間も、いつもより少し早い。
今日は無駄にできる時間なんてない。そう思い、すぐに身支度を整えて登校の準備を始めた。
準備を終えてキッチンへ向かうと、母さんが朝食と弁当を用意しながら、楽しそうに鼻歌を歌っていた。
やけに機嫌がいい。……いや、良すぎないか?
気になって、そっと声をかける。
「おはよう、母さん……えっと、何かいいことでもあったの?」
挨拶を返す前に、母さんは意味ありげな笑みを浮かべた。
まるで、俺の何か恥ずかしい秘密を知っているみたいな顔だ。
「おはよう、圭。ずいぶん大人になったじゃない、ふふふ」
……知っている。
そんな雰囲気だった。誰かから、俺のことを聞いたに違いない。
俺が言葉を返す前に、母さんは続ける。
「彼女さんが教えてくれたのよ。母さん、誇らしいわ」
……教えた?
何を、どこまで?
昨日のことを話したんじゃ――
いや、待て。どうやって連絡を取ったんだ? 連絡先を知ってるとか……?
まあ、今さら考えても仕方ない。
少なくとも、舞さんは楽しかったらしい。
母さんの話を適当に聞き流し、俺は冷蔵庫から水を取り出して喉を潤した。
朝食を済ませ、家を出る。
そして予想通り――彼女は、今日もそこにいた。
舞さんは、通りがかった誰もが振り返りそうなほど眩しい笑顔を浮かべていた。
それに、昨日とは違う髪型だ。
……心臓に悪い。
まるで、昔俺が「ポニーテールも似合いそうだ」と言ったことを覚えていたかのようだった。
そして今日は、その願いを叶えにきた――そんな気さえする。
この世界の俺も、同じ好みだったんだろう。
俺の視線に気づいた舞さんは、すぐに頬を赤く染め、可愛らしく視線を逸らす。
完全に、何か言われるのを待っている。
「圭くん、おはよう〜」
空気に溶けるような、柔らかい声。
正直、言葉がすぐには出てこなかった。
それくらい、今日の舞さんは綺麗だった。
「お、今日は……すごく可愛いよ、舞さん……」
彼女は恥ずかしそうに俯き、小さな声で答える。
「ありがとう、圭くん……喜んでくれるかなって思って……」
やっぱりだ。
見た瞬間に浮かんだ予感は、間違っていなかった。
「うん……すごく嬉しい。俺のためにしてくれたんだって分かるから」
………………
「はっ、早く学校行かないと! 遅れちゃう!」
「え、あ……そ、そうだね。急ごう」
◇◆◇◆◇
歩き出そうとした、その直前。
背中に、覚えのある冷たい視線を感じた。
「……おはよう」
振り返ると、そこにいたのは香織だった。
昨日以上に、機嫌が悪そうに見える。
「おはよ――」
最後まで言い切る前に、舞さんの声が割り込んだ。
明らかに、不快そうな響きだった。
「香織、どうしてそんな言い方するの? 圭くんに」
その一言は、思った以上に重かった。
香織は一瞬言葉に詰まり、視線を落とす。
「……分かったわよ。ごめんなさい。それでいい?」
舞さんはまだ納得しきれていない様子だったが、これ以上は言わなかった。
これ以上足止めされるわけにはいかない。
「……急ごう。普通に歩けば、間に合うと思うし」
俺は頷いた。
学校まではそう遠くない。
校門が閉まるまで、まだ三十分も残っている。
◇◆◇◆◇
学校へ向かって歩き出す。
今度は並んで、自然な距離感のまま。気まずさは、どこにもなかった。
「そういえばさ……母さんに、俺たちのこと何て話したの?」
「ほら、いろいろあったから……正直、何を聞いたのか分からなくて」
少し考えるように視線を彷徨わせてから、舞さんは微笑んだ。
「昨日のことだよ。あのとき、圭くんが助けてくれた話」
頬を赤くしながら、続ける。
「男の子たちの前でさ……ああいうふうに守ってくれるの、すごく格好よかった」
……なるほど。
あの行動が、彼女の中ではそう映っていたのか。
思い出すのは、彼女を引き寄せ、腰に手を回したあの瞬間。
「俺の彼女だ」と示すような、あの態度。
確かに、それしか思い当たらない。
それでも、あんな居心地の悪い場面で、少しでも安心してもらえたなら――
それだけで、十分だった。
舞さんは満足そうに、そっと俺の腕にしがみつく。
「ありがとう、圭くん。昨日、圭くんが来てくれなかったら……どうなってたか分からない」
「圭くんが彼氏で、よかった……えへへ」
その言葉に、俺も思わず顔が熱くなる。
彼女と同じで、きっと同じことを考えていた。
「舞さんは……俺にとって大事な人だから」
「だから、心配しなくていい。絶対に、守るよ」
嘘じゃない。
誰にも、彼女を傷つけさせるつもりはなかった。
元の世界で、舞さんは唯一の存在だった。
周りに新しい友達が増えても、変わらず声をかけてくれて、隣にいてくれた人。
その笑顔も、話し方も――
全部が、俺を惹きつけた理由だった。
……少なくとも、白鳥が現れるまでは。
今は、二人への気持ちをどう扱えばいいのか分からない。
ただ、このまま曖昧な状態を続けるわけにはいかない。
何か、答えを出さなければ。
* * *
学校に着き、いつも通り教室へ向かう。
授業が始まる直前、舞さんが俺の席へ身を乗り出してきた。
「ねえ、圭くん。今日のお昼、一緒に食べない?」
きらきらと輝く瞳と、眩しい笑顔。
断れるはずがなかった。
俺は小さく頷き、笑みを返す。
満足そうに自分の席へ戻る舞さん。
一方で、俺はふと視線を窓の外へ向けた。
……誰かが、こちらを見ている。
白鳥だった。
どこか懐かしそうな微笑みを浮かべながら、俺のいる教室を見つめている。
胸が、強く脈打つ。
それだけで分かった。
彼女も――ここに来る前のことを、覚えている。
無事でいてくれたことに、ほっとする。
それでも、それだけじゃ足りない。
話さなければならない。
ちゃんと、向き合わなければ。
短い視線のやり取りのあと、白鳥は校舎の中へと消えていった。
次に会えるのがいつになるのかは分からない。
それでも――
また必ず、会う。
そんな確信だけが、胸に残った。
そうして授業が始まり、時間は何事もなく流れていく。
……昼休みが来るまでは。
チャイムが鳴る前から、舞さんはもうこちらを向いていた。
耳にかけた髪を整えながら、自然な仕草で声をかけてくる。
「ほら、圭くん。約束したでしょ。一緒にお昼」
俺は頷き、弁当を取り出す。
舞さんは前の席の椅子を引き、当然のように俺の隣に座った。
教室には、まだチャイム前のざわめきが残っている。
ノートを片付ける音、控えめな笑い声、廊下から聞こえる足音。
弁当の蓋を開けた瞬間、舞さんの視線が釘付けになった。
「わあ……おいしそう」
「次はね、私が作ってあげたいな。どう?」
「……全然いいよ。むしろ、ありがたい」
その答えに満足したように、舞さんは誇らしげに自分の弁当を開いた。
俺のと同じく栄養のバランスが取れていて、
それでいて、ひとつひとつが丁寧に詰められた、綺麗な弁当だった。
中身を一つ一つ説明することもできたけれど、そんな必要はなかった。
肉も野菜も、驚くほど丁寧に詰められていて、それだけでどれほど手間をかけたのかが伝わってくる。
気づけば、じっと見入ってしまっていた。
それに気づいた舞さんは、どこか誇らしげに微笑み、箸で小さな肉をつまんでこちらへ差し出す。
「……ちょっと、食べてみたいでしょ? はい、あーん」
まるで新婚の奥さんみたいな仕草に、思わず頬が熱くなる。
周囲の席から向けられる好奇の視線も気になったが、断る理由もなかった。
俺は素直に口を開ける。
「……うん、おいしい。これ、舞さんが作ったの?」
その瞬間、彼女の表情がぱっと明るくなり、頬が赤く染まった。
「えへへ~、うん。私が作ったの。気に入ってくれてよかった」
「ねえ……今度は、私が圭くんのも食べていい?」
「もちろん」
今度は俺が箸で小さな一口を取り、慎重に彼女の口元へ運ぶ。
「あーん……もぐ」
ゆっくり味わったあと、驚いたように目を見開いた。
「わぁ……すごくおいしい」
「圭くんのお母さんに、料理教えてもらおうかな……いつか、その……私たちが……えへ、えへへ」
完全に妄想の世界に入り込んでいる様子だった。
何を想像しているのかは、だいたい察しがついたが、あえて触れないことにする。
「舞さん? 大丈夫? おーい」
数秒して、ふっと我に返ったように瞬きをする。
「あ、うん、ごめん。ちょっと考え事してただけ」
「そっか。何かあったのかと思ったよ」
それからは、他愛もない話をしながら食事を続けた。
大事な話なんて何一つしていない。
それでも、不思議と心が落ち着く時間だった。
気づけば、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
短い時間だったけれど、舞さんは満足そうだった。
……こうして隣にいてくれるのが、素直に嬉しい。
ふと、思う。
この世界の“俺”と舞さんは、どうやって付き合い始めたんだろう。
聞いてみたい気持ちはある。
けれど、そんなことを聞けば、今の俺が“違う”と気づかれてしまうかもしれない。
いや……もし本当に違っていたら、もう気づかれていてもおかしくない。
それでも、何も言われないということは――
彼女にとって、俺は今も変わらない圭なんだ。
そこで、ひとつ思い出す。
今日は、彼女と一緒に帰れない。
俺はそっと身を乗り出し、周囲に聞こえないよう小声で伝えた。
「舞さん……今日は、一緒に帰れないかも。少し用事があって」
「今日だけだから。ごめん」
予想に反して、舞さんは優しく微笑んで頷いた。
「大丈夫だよ。ちゃんと教えてくれて嬉しい」
「でもね……あとで、ちゃんと埋め合わせしてもらうから。いい?」
その自然な受け入れ方に、思わず苦笑する。
……埋め合わせなら、悪くない。
俺は少しだけ勢いよく頷いた。
「それとね」
さらに距離を詰め、小さな声で囁く。
「埋め合わせは、私が決めるから。内容は……あとで教えるね?」
じわじわと頬を染めながら、意味ありげに微笑む舞さん。
もう、何を考えているのかは分かりきっていた。
それでも――
彼女が決めるなら、それでいい。
「……うん。分かった」
こうして、言葉にしない約束が、静かに成立した。
その“代償”を、彼女がどう受け取るつもりなのか――
もう、決まっているかのようだった。




