エクストラ3: 壊れかけの均衡
◇◆◇◆◇◆
「香織……バカ。
今、何を言おうとしたの?
圭くんに、私のことを話しちゃダメ。
私のせいで、あの人が苦しむなんて……そんなの、嫌なの。
だから……お願い。分かって?」
真剣な眼差しで懇願され、香織は不満そうに唇を尖らせながらも、ゆっくりと頷いた。
「はいはい……分かったわよ。
お姉ちゃんの彼氏には、何も言わない」
その言葉を聞いた瞬間、光は心から安堵したように微笑み、香織の両手をそっと握った。
「ありがとう、香織。
……今度、何かお礼しなきゃね」
「別にいいけどさ。
ちゃんと別れたりしないで、幸せでいてよ?」
その言葉は簡単そうでいて、今の二人にとっては少しだけ重かった。
この日の関係は――正直、順調とは言えなかったからだ。
それでも、光の決意は揺るがなかった。
小さく息を吸い、はっきりと頷く。
「うん……そろそろ戻ろう。
圭くん、待たせちゃったし……放っておいたなんて思われたくない」
◇◆◇◆◇◆
姉妹だけの会話を終え、二人は笑顔で戻ってきた。
特に光は、何か小さな“勝利”を手にしたかのような表情をしている。
「圭くん、お待たせ。
じゃあ、行こっか。もう心配することはないよ」
「あ、ああ……そうだな。帰ろう」
香織と光が、まるで示し合わせたかのように同時に頷く。
そうして、三人で帰路についた。
道中は、ごく普通――
ただ、どこか微妙な空気が漂っていた。
光は時折、話題を探すように声をかけてくれるが、
気まずくて息が詰まるような沈黙ではない。
ただ一つ、問題があるとすれば――
香織の視線が、やけに冷たいことだ。
刺すようなその目は、はっきりと語っている。
――お姉ちゃんを泣かせたら、覚悟しなさいよ。
無言の圧に喉を鳴らし、俺は慌てて空気を変えようと口を開いた。
「そ、そうだ……今日はどうだった?」
その瞬間、光の表情がぱっと明るくなる。
彼女は俺の腕にそっと抱きつき、少し考えるように視線を泳がせてから、優しく微笑んだ。
「うーん……いつもとは、ちょっと違ったかな。
でもね、友達に相談したりもできたし……
何より、これからは圭くんと一緒に過ごせる時間が増えるから。
そう思えば、悪くない一日だったよ」
そう言って、安心したように俺の肩にもたれる。
少し疲れているようにも見えたが、無理に動かす気にはなれなかった。
俺も、小さく笑みを浮かべる。
「そっか……ありがとう。
今日は、あまり一緒にいられなくてごめんな」
その言葉に、光は少し照れたように俺のシャツを摘まみ、唇を尖らせた。
「明日……明日は、もっと一緒にいよう?
今日はね、圭くんがいなくて、すごく寂しかったの。
もう、あんな気持ち、味わいたくないから」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
この世界の“俺”は、なんて素敵な恋人を見つけたんだろう。
理由は分からないが――
間違いなく、大切にされるべき存在だ。
俺は彼女の腰に腕を回し、そっと額にキスをした。
きっと、この世界の俺も、同じことをしたはずだから。
しばらく、彼女は何も言わなかった。
静かなまま歩いていると、やがて身を寄せ、小さく囁く。
「……だから、圭くんが好き」
彼女のためらいがちで、どこか不安そうな声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
――そうだ。俺が昔、彼女に惹かれた理由は、きっとこれだった。
だが、その感情はすぐに現実へと引き戻される。
今、白鳥のことは――あまりにも複雑すぎた。
……これから、どう動くべきなんだろう。
一つ判断を誤れば、すべてが壊れてしまう。
そんな結末は、望んでいない。
今はとにかく、一度家に帰って、落ち着いて考えるべきだ。
これから何をするべきかを、頭を冷やして整理する。
それが、今考えられる最善の選択だった。
正直、それ以外に明確な道は見えていない。
まずは白鳥と話す。
そして、そのあとで光さんと向き合う。
――今の俺に思いつく答えは、それだけだった。
二人と並んで歩き続け、やがて彼女たちの家の前に差しかかる。
そのとき、光さんがそっと俺の手を握り、控えめな笑顔を向けてきた。
「……迷惑?」
少し恥ずかしそうに視線を逸らしながら、顔を近づけてくる。
手を振りほどく理由なんて、なかった。
それでも、一瞬だけ迷う。
そして俺は、その温もりを受け入れた。
――これが、最後になるかもしれないと思いながら。
「いや……気にしなくていい。行こう」
彼女はまた俺の肩に身を預け、そのまま歩き続ける。
ただし今度は、香織の冷ややかな視線が、はっきりと背中に突き刺さっていた。
それでも、光さんは手を離さない。
まるで、暖を求める猫のように、俺に寄り添ってくる。
人目も気にせず、それほどまでに安心しきっている様子だった。
「……ここ、外なんだけど。
いい加減、そのベタベタやめたら?」
香織の言葉にも、光さんは離れようとしない。
まるで、今この瞬間が、二度と戻らないものだと知っているかのように。
しばらくして、光さんが真剣な表情で俺を見上げた。
空気が、一変する。
「圭くん……二人きりで、話したい」
俺は小さく頷き、もう少しだけ歩みを進める。
「もうすぐだから。
香織、先に家に入ってて。
大事な話があるの……圭くんと」
香織は驚いたようにこちらを見たが、何も言わなかった。
そのまま踵を返し、数メートル先の家へと入っていく。
彼女の姿が消えると、光さんは大きく息を吐き、再び微笑んだ。
ただし、その笑顔は、さっきよりも少しだけ弱々しい。
「……来て。
ちゃんと、話したいことがあるの」
そう言って、彼女は俺の手を離した。
――それだけで、これからの話が軽いものではないと分かる。
静かな住宅街を、目的もなく歩きながら、彼女は口を開いた。
「圭くんが、今、何を考えてるのか……教えてほしい。
最近、どこか違う気がして。
私に怒ってるのかな、とか……
それとも、私が何かしたのかなって……」
予想していなかったわけじゃない。
それでも、その言葉は胸に深く刺さった。
「……そんなふうに思わせて、ごめん。
本当に、そんなつもりはなかった。
それに……俺は、君のことを大切に思ってる」
その瞬間、彼女の表情がふっと和らぐ。
まるで、その言葉をずっと待っていたかのように。
「ありがとう、圭くん……
それを聞けて、よかった。
ずっと、待ってたの。
私と付き合ったこと、後悔してるんじゃないかって……」
そう話すうちに、彼女の瞳が少しずつ潤んでいく。
――これ以上、真実を告げるのが、ひどく残酷に思えた。
罪悪感が、胸の奥で静かに重く沈んでいく。
俺は、彼女を抱きしめた。
けれど、胸の内にあったのは、これから起こるかもしれないことへの罪悪感だけだった。
もしかしたら、折り合いをつける方法はあるのかもしれない。
――それでも、まず必要なのは、白鳥の答えだ。
今の俺にできることは、ただ彼女を抱き、そばにいることだけだった。
それが、この瞬間の光さんに対して、できる唯一のこと。
しばらくそうしていると、やがて彼女の涙は止まり、呼吸も落ち着いていった。
近所の小さな公園にあるベンチに彼女を座らせ、
俺は飲み物を買いに、その場を離れることにした。
水でいい。
それだけで十分だろう。
住宅街の通り沿いに置かれた自動販売機へ向かいながら、
頭の中では、同じ考えがぐるぐると巡っていた。
――どうすればいい。
そして、戻ってきたときだった。
そこには、本来彼女が座っているはずの場所に、
二人の男子生徒が立っていた。
なぜか、その光景に既視感を覚える。
ぼんやりとした記憶の断片。
誰だったのかは思い出せない。
ただ一つ、確かに違っていたことがあった。
光さんは、二人に囲まれ、明らかに困惑していた。
次々に投げかけられる質問に、どう答えればいいのか分からない様子だ。
――まずい。
俺は足早に駆け寄った。
「光さん、行こう。
待たせてごめん」
その瞬間、彼女の表情がぱっと明るくなる。
小走りで俺のもとへ来て、迷いなく手を取った。
困惑した様子の男子生徒たちを横目に、
俺は光さんの腰に腕を回し、その場を離れる。
――彼女は、俺のだ。
そう言わんばかりの態度だった。
光さんは、腰に回された腕に気づいて頬を赤く染める。
緊張しているのが、はっきり分かった。
嫌だったのかもしれない。
そう思い、少し距離を取ろうと腕を外す。
だが――
彼女は、逆に俺に近づいてきた。
ちらりと後ろを振り返り、まだこちらを見ている二人を確認する。
完全に距離を取ったところで、
彼女は俺の手をぎゅっと握り、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、圭くん……
来てくれなかったら、どうしたらいいか分からなかった」
そう言うと、彼女は少し背伸びをして、
俺の頬にそっと口づけた。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
思考が止まり、言葉が出てこない。
「ご褒美、だよ。助けてくれたお礼。
圭くんがいなかったら……本当に、どうなってたか分からないもん」
いたずらっぽく微笑む彼女。
俺が何か言おうとすると、
彼女は人差し指を伸ばし、そっと俺の唇に当てた。
「しー……
今は、何も言わなくていい。ね?」
それ以上、言葉は出てこなかった。
俺は小さく頷き、再び手を繋いで歩き出す。
そのまま彼女の家まで送り届けると、
彼女は満面の笑みで手を振り、
まるで明日を心待ちにしているかのようだった。
――その姿を見て、俺は決めた。
明日、必ず白鳥と話す。
何が起ころうとも。
今、動かなければ、もう二度とチャンスは来ないかもしれない。
夜。
制服のまま、ベッドに倒れ込み、
今日一日の出来事を、何度も思い返す。
少なくとも、一つだけ分かったことがある。
彼女も――記憶を持っている。
俺と同じように。
それは、今朝、彼女に声をかけられなかったとき、
俺が最も恐れていたことだった。
……明日は、きっと違う一日になる。
唯さんに聞いた場所へ、彼女を探しに行こう。
今は――
眠るだけだ。




