エクストラ2:困惑
本校舎の外にある金属製の階段を上り始めた。
――初めてここに彼女を連れてきて、言葉を交わした場所だ。
廊下は静まり返っていて、遠くから聞こえてくる足音の反響と、いくつかの教室から漏れる小さなざわめきだけが耳に届く。
だが、残念ながら誰の姿もなかった。
落ち着いて考えてみれば、彼女の教室を探すという手もある。
問題は、どの授業を受けているのか分からないことだ。
今は誰か――彼女を知っていそうな生徒か、あるいは教師を見つけるしかない。
急ぎたいところだが、焦りすぎるのもよくない。
慎重に――そう思った、その時。
数歩進んだところで、突然、誰かとぶつかった。
「おい、バカ。前見て歩けよ」
「す、すみません。ちょっと急いでて……」
反射的に謝った、その瞬間だった。
目の前にいる相手が、見覚えのある人物だと気づいたのは。
最初は衝突も多かったが、
やがて俺の味方になってくれた――そんな相手。
「……唯さん?」
考えるより先に、声が出ていた。
目の前に立つ彼女を、じっと見つめる。
怒りをあらわにした表情。
記憶の中にある、照れたような笑顔とはまるで違う。
今、彼女の頬は赤く染まっているが、
それは恥じらいではなく、苛立ちからだった。
「ちょっと、あんた……誰に許可取って名前で呼んでんのよ!?
はぁぁ!?」
次の瞬間、俺は衝動的に彼女を抱きしめていた。
――彼女がいれば、白鳥につながる。
そう思った途端、胸の奥に溜まっていた不安が、一気に和らぐ。
「見つけられてよかった……
これで、ようやくチャンスができた気がする」
彼女は戸惑ったように言葉を詰まらせ、
俺の腕から逃れようとする。
だが、その抵抗も、次第に弱くなっていった。
「ちょっと……私はあんたの彼女でも何でもないんだけど?
それに……自分が誰か、分かってる?」
顔はますます真っ赤だ。
文句を言いながらも、どこか諦めたように身を委ねている。
しばらくして、俺はゆっくりと距離を取った。
気まずくなったからではない。
彼女が――俺の知っている“彼女”とは違うと、はっきり分かっていたからだ。
「……ごめん。知り合いに見えただけなんだ」
そう言って、さらに一歩下がる。
だが、その瞬間、彼女が俺の手を掴んだ。
疑いと、言葉にならない問いを宿した視線で、
彼女は真剣そのものの表情で俺を見つめる。
「へぇ……じゃあ、その“知り合い”ってのは、
私と同じ名前で、顔もそっくりってわけ?
冗談は通じないわよ。――あんた、何者?」
完全に、意識を向けられている。
もう、逃げ場はなかった。
それでも、今は引くわけにはいかない。
問題は――何を言うかだ。
完全に、追い詰められていた。
……仕方ない。
とりあえず、でっち上げてみるしかない。
信じるかどうかは、向こう次第だ。
「実は……君に近づくための口実を考えてたんだ。
一人だったから、つい……さっきのことを」
「…………は?
そんな話、誰が信じると思ってんの。
バカじゃないの?
名前叫んで抱きついて、あとから勘違いでした、なんて……
どう考えても最悪でしょ」
――やっぱりな。
簡単に信じるはずがない。
となると、残る選択肢は一つだけ。
本当のことを話すしかない。
問題は――
それを、彼女が信じてくれるかどうか、だ。
佐々木ミナミという少年が書いた本によれば、この世界には本来、矛盾は生じない。
もし仮に矛盾が発生した場合でも、「偶然性の法則」と呼ばれるものが働き、
現実は自動的に“正しい形”へと修正されていくらしい。
正直、それが起きてほしくない気持ちもある。
だが同時に――
それは、彼女たちと過ごしたすべての時間が、元に戻ることを意味していた。
……俺は、どうするべきなんだ?
もしこれがノベルゲームで、
「逃げる」「向き合う」なんて選択肢が表示されたなら、
迷わず逃げるを選んでいただろう。
だが、現実はそう都合よくできていない。
何より、彼女はいまだに俺のシャツを掴んだままだ。
この状況で逃げ出すのは、不可能に近い。
――別の手を考えよう。
「……悪かった。正直に言うと、
君と知り合いみたいなふりをしたのは、
君の知り合いに用があったからなんだ。
名前を知ってたのは……この学校じゃ、結構有名だから」
彼女は、ふっと俺のシャツから手を離した。
驚いたように目を見開き、その表情は疑念と困惑の間を揺れる。
数秒後、彼女は肩をすくめ、
どこか興味を失ったような態度を取った。
だが、新たな疑問が残ったのは明らかだった。
――なぜ、彼女に?
「なるほどね……そういうこと。
じゃあ聞くけど、その“知り合い”って誰?」
「川城白鳥さんだ。
話がしたいんだけど、どこにいるのか分からなくて。
君なら知ってると思った」
彼女はしばらく黙り込み、俺の言葉を吟味する。
そして、小さく息を吐いてから、ようやく口を開いた。
「……居場所を知らないなんて、逆に驚きね。
今の彼女、人気すぎて、
一日中告白を断って回ってるようなものなのに」
この世界では、そこまでなのか。
だが、理由がないはずがない。
即座に全員を断ることもできるだろうに、
あえて、そうしていない――
そこには、何か意図がある。
「そんなに……?
それで、今はどこにいるんだ?」
彼女は苛立ったように頭を押さえ、
長い沈黙のあと、失望した目を向けてきた。
「校舎裏よ。
それから、放課後は大抵屋上。
……もっとも、全部あの子自身が招いた結果だけどね。
“自分が納得した告白なら受ける”なんて宣言して。
本当に、何考えてるんだか」
――待て。
それってつまり……
彼女は、向こうの世界の記憶を持っている?
それ以外、考えられなかった。
「ありがとう、唯さん。
この借り、必ず返す」
彼女が何か言う前に、俺はその場を駆け出していた。
立ち止まっている暇はない。
今、彼女がいる場所へ行かなければ。
旧校舎の脇を抜け、体育館を横切り、
校舎裏へと急ぐ。
――いてくれ。
そう願いながら辿り着いた、その先には。
……長い列ができていた。
一人、また一人と、順番を待つ男子生徒たち。
列は意外なほど速く進むが、
同時に、後ろには次々と人が加わっていく。
理由は、すぐに分かった。
白鳥は、目の前に立った相手を一目見ただけで、
告白を聞くことすらせず、即座に断っていた。
その光景を見て、俺は確信する。
――彼女は、俺を待っている。
問題は――
彼女と話すには、この列に並ばなければならないということ。
そして、それ以上に、
俺の胸を重くする不安が、もう一つあった。
それから、光さんとも“俺たちの関係”について話さなければならなかった。
彼女を傷つけたくはない。
だが……。
――俺は、どうすればいい?
今はとにかく、光さんと向き合うしかない。
そう考えて、その場を離れることにした。
白鳥の居場所は、もう分かっている。
次にやるべきなのは、光さんを探すことだった。
この時間帯なら、きっと教室にいる。
いつもなら、チャイムが鳴るまで、友達と他愛もない話をしているはずだ。
教室に着き、扉の前で足を止めた瞬間、
中から会話が聞こえてきた。
光さんと、見覚えのない二人の女子生徒。
どうやら、三人きりのようだ。
「圭くんと付き合い始めたんだけど……
なんだか、いつもの圭くんじゃない気がして。
私の気のせいかな……今日はずっと、様子が変だったの」
彼女の言葉に、友達は頷きながら耳を傾けている。
そして結論は同じだった。
――俺は、普段通りじゃない。
できるだけ早く、話したほうがいい。
……今すぐだ。
そう決めかけた、その瞬間。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
――飯、食ってないんだけどな。
だが、それどころじゃない。
何を、どう伝えるべきか。
このまま誤魔化し続けるわけにもいかないが、
彼女を傷つける覚悟も、まだできていなかった。
完全に、袋小路だ。
数分遅れて、俺は教室に入った。
入口付近で立ち止まっていたせいか、
クラスメイトたちの視線が一斉に集まる。
当然だ。
普段なら、真っ先に席へ向かうはずなのだから。
やがて、俺は自分の席へ向かう。
光さんも、自然な流れで隣の席に腰を下ろした。
ふと、目が合う。
「圭くん……放課後、少し話せる?」
俺が口を開く前に、彼女がそう言った。
内容は、想像がつく。
「……二人で、ちゃんと話したいの」
不安の滲んだ表情。
――考えていることは、同じだ。
俺は黙って頷いた。
胸の奥に残る迷いを抱えたまま。
少なくとも、もう気づかれている。
それだけは、はっきりしていた。
授業が再開される。
光さんの話では、今日は文芸部の活動日らしい。
放課後、俺たちは一緒に部室へ向かった。
つまり――
その帰りに、例の話をすることになる。
もっとも、
その話題自体は、すでに何度も頭の中で繰り返していたのだが。
廊下を歩いていると、
突然、背中に強い衝撃が走った。
いつもより、明らかに強い。
だが、誰の仕業かは分かっている。
俺と光さんが立ち止まると、
その張本人が姿を現した。
――香織。
皮肉めいた笑み。
優しさよりも、痛みを含んだような表情で、
彼女は俺に声をかけてきた。
「お姉ちゃんのこと、ちゃんと大事にしてるんでしょうね。
もし傷つけたら……許さないから」
まるで、
俺がすでにそうしているかのような口ぶりだった。
「香織、な、何言って……」
だが、その言葉を遮るように、
光さんが慌てて香織の腕を掴む。
「ちょっと来て。……ごめんね、圭くん」
そう言い残し、
二人は香織を引きずるようにして、校舎の階段へ向かっていった。
その後ろ姿は、
特別、不自然というわけではない。
だが――
今の俺には、妙に気になる光景だった。




