第25話 この世界への別れ
完全に衝撃を受けていた。なんて言えばいいのか分からなかった。どうして今なんだ?やっと彼女に出会えたばかりなのに、やっと彼女のことが分かり始めたところなのに――どうして行かなきゃならないんだ?
迷っていた……でも……彼女はどう思っているのだろう?彼女は僕の表情に気づいたようで、話を続けた。
「その……今日一日中、貴宮さんが来るのを待ちながら寝ていたんだけど、その間に夢を見たの」
「女神さまはいつもそうやって私に話しかけてくるの。他の方法はないのよ」
「つまり、力が足りないってことか?」と僕は口を挟んだ。
「ううん、そうじゃなくて……彼女が、ちょっと怠け者なの」
「怠け者の女神?そんな女神いるのか?」
「まあ……彼女は昔からそうだったの。とにかく、続きを話すね」
僕は頷いた。今は問題を理解して、結論を出すことが大事だった。
「夢の中で、私は真っ白な空間に立っていて、そこには白い衣装を着た色白の黒髪の可愛い女の子がいた。それが女神マリーよ。彼女は、私に彼女の兄とその婚約者――転生した神々――を探してほしいと頼んだ女神だったの。少なくとも、私はそう信じてた」
***
『こちらマリー・フィレスウェール。聞こえる?川城白鳥?』
まるで魔法のように、空っぽの世界の中にもう一つの声が響いてきた。その空間では、自分自身の姿も見えていた。
『こちら川城白鳥、聞こえてます女神様。何かあったんですか?』
女神マリーは、私の声を聞いた後、深くため息をついた。
『もう遅いかもしれないけど、今あなたがいる時間軸は間違っていたの。本当にごめんなさい。あなたが探していた人を見つけた後なのに……』
『えっ?でも、言ってた存在はちゃんとここにいるはずじゃ――』
私が抗議しようとすると、女神マリーは静かに口を挟んだ。
『私もそう思ってたけど、パパが「本当の時間軸に送ってあげる」って言ってたの。だから、私も今こっちに来てるの。あなたにもまた時間を超えて来てほしいの。いいわよね?』
『分かりました……じゃあ、全部捨てていけばいいんですね?』
『捨ててもいいし、誰か一緒に連れてきたければ、それも自由よ』
すると突然、真っ白な部屋が現れ、そこには穏やかな表情の女神マリーがひとり立っていた。
「女神様、今言ってくださったことは、いつ実行すればいいのでしょうか?……それに、圭くんのことは、忘れなきゃいけませんか?」
「圭くん?あの探してた男の子のこと?大丈夫よ、連れてきたいならそうすればいい」
私は目を輝かせながら頷いた。
「ありがとうございます、女神様、本当に感謝してます」
「何度も言ってるけど、私は“女神”じゃないってば」と彼女はため息交じりに言った。「さて、もう行く時間ね。すぐに会えるから」
「はい、女神様」私は微笑みながら頷いた。
彼女は圭くんがどれだけ大切か知ってくれている。だから、許してくれるなら、このチャンスを無駄にするわけにはいかない。
そのあと、私は目を覚ました――なぜかソファーの上で、足が上で頭が下、ほとんど床に届きそうな変な姿勢で。
***
「つまり……僕にその別の世界へ一緒に来てほしいってことか? そうなったら、もう同じ物語は繰り返されない。今度は、僕たち二人で進む物語になるってことだろう?」
「断ってもいいんだよ。勝手に女神様に“圭くんも一緒に”って伝えたのは、私のせいだから……聞かずに決めちゃって、ごめんね」
白鳥の顔が少し寂しげに曇っていくのが分かった。理由も分かっていた。でも……どうすればいいのか分からなかった。この世界を捨てて彼女と行くべきなのか、それともここに残るべきなのか。
「白鳥……少し考えさせてくれ。今はまだ答えが出ない。あまりにも突然すぎて、頭の中がぐちゃぐちゃで……だから今日だけ、時間をもらえないかな」
僕の言葉に、彼女はうつむきながら静かに頷いた。そして僕は部屋の中へ入り、自分の部屋へと向かった。
◇◆◇◆
夕食の時間、空気は重かった。僕たちの間には一言もなかった。言葉を交わすこともなく、ただ沈黙が続いた。その沈黙をどう扱えばいいのかも分からなかった。彼女は一度も僕を見なかった。
まるで僕が存在していないかのように振る舞っていた。もしかして、あんなことを言ったのは間違いだったのだろうか? 分からない。どうしてこんなことに?
結局、食卓から立ち上がるまで、気まずい空気は続いた。皿を洗おうかと声をかけたが、彼女はそれすらも無視した。ただ、少し一人にしておいたほうがいいのかもしれない。自分でも、そう言ったのだから。
問題は、どこから考え始めればいいのか分からなかったことだ。
時間旅行とはどういう意味なのか、この世界のすべての人たちに別れを告げる必要がある。でも、それでも――白鳥なしでは、これからの人生を進めることはきっと難しいと思った。
もし行かなければ、それが彼女との最後の別れになる。でも、もし行けば、もう二度と彼女と離れられなくなるかもしれない。
それが悪いことだとは思わない。ただ、彼女がどう思うのか、それが分からないだけだ。
……それでも、もう答えは出ていた。
これ以上、白鳥を待たせるわけにはいかない。だからその夜、僕は決心した。勇気を出して、真夜中の一時間前に彼女の部屋へ向かった。母さんが父さんのもとに少し残ると言っていた今がチャンスだった。
足音を立てずに廊下を進み、慎重に彼女の部屋の前へとたどり着いた。
なぜそこまでしているのか、自分でも分からなかった。でも、ただ「これが正しい」と直感で思った。
ドアの前に立ち、二度ノックをした。永遠にも思える沈黙の後、ドアの向こうから声が返ってきた。
「どうぞ、圭くん。入っていいよ」
それは白鳥の落ち着いた声だった。
僕はゆっくりとドアノブを回し、心を決めて部屋の中へと入った。
彼女は見たことのない部屋着を身に着けていた。パジャマの上からグレーのカーディガンを羽織っていて、髪も整えられていた。まるで僕が来るのを待っていたようだった。
不思議ではないけど、少し悪いタイミングだったのかと思ってしまう。
彼女の顔には笑顔がなかった。その代わりに、落ち着いた、動じない表情があった。
「それで……もう決めたの? 私と一緒に行く? それとも、ここに残るつもり?」
部屋の空気が張りつめる。でも、僕の中には、もう言うべき言葉があった。
「白鳥……君は色んな時代や世界を旅してきた。何度も、愛する人が死ぬのを見てきたんだろ? それって……本当に辛かったと思う。君のこと、すごく大切に思ってるし……僕も、君が好きだ。だから、君と一緒にその世界へ行くよ」
僕がそう言葉を重ねるうちに、白鳥は静かに僕に近づいてきた。
そして、目の前でぴたりと立ち止まり、僕をじっと見つめた。
「ありがとう、圭くん。私のためにここまでしてくれて。せっかく出会えたのに、また離れたくない。あなたは、私にとって本当に大切な存在なの」
その声は少しかすれていて、壊れてしまいそうなほど繊細だった。だからこそ、笑顔で受け止めることが、今の僕にできる唯一の答えだった。
僕は微笑みながら頷き、そして優しく彼女を抱きしめて、そっと耳元でささやいた。
「ありがとう。僕も、本当に感謝してる」
感動的なその瞬間の後、僕はそっと彼女から体を離した。
「それで……どうすれば始められるんだ?」
白鳥は満足そうに微笑み、少しだけいたずらっぽく僕を見つめた。そして、突然僕にキスをした。
「圭くん、大好き。さあ、ベッドの上で少し横になって」
僕の頭は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。でも、彼女にとっては自然な流れのようで、あまり動揺せずにすんだ。僕は軽く笑って、彼女の言う通りベッドへ向かった。
腰を下ろして少しリラックスしていると、彼女が僕の後ろに座り、そっと僕の手を握ってきた。そして、彼女の指が僕の指に絡まって、なんだか心地よく、でも少しだけ不思議な感じがした。
「圭くん、目を閉じて。そしてみんなに、さよならを言って。私たちがいなくなった後、この時間軸はまるで私が最初から存在しなかったかのように変わっていく。でも、今とすごくよく似た世界にはなると思う」
その言葉を聞いた僕は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「みんな……母さん、父さん……今までこの世界で僕を生かせてくれてありがとう。でも今、僕は“永遠”を共に過ごしたい人と出会えたんだ。だから――さようなら」
白鳥は優しく微笑み、そっと僕の目を手で覆った。
「じゃあね、みんな。きっと、またどこかの物語で会おうね」
――それが、二人がまばゆい白い光に包まれて、この世界から姿を消す前の、最後の言葉だった。




