5
気が付くと夜に放り出されていた。暗い部屋の中で打ち捨てられたように転がっているのが僕だった。
昼の記憶はある。ご飯も食べた。だけどそれが生活の主体じゃなくなってしまったようで。トイレや学校の帰り道のようにぼおっとしていると過ぎ去っている気にもしない時間になってしまった。
はっと目が覚めた。夜だ。暗闇は怖くはない。それどころか好ましくすら思えてくる。まっくらなソレが僕の眼から涙のように、口から吐瀉物のように、腹から臓物のように垂れているようで夜になった、と思った。己と暗闇の境界線がぼやけているようで。
あんなに怖い暗闇が今では親近感を覚えるほどに。
これを悲しいと言ってしまいたくなかった。悲しいことがあったのだと認めるようで。
僕が悲しいと一言口から発してしまったら全てが現実であったと、認めてしまうようで。
でも前が見にくくて。
これを怒りと行ってしまいたくなかった。僕が怒るようなことでもないと、もう怒るべき人がいないことから目を反らしたくて。
怒ってしまったら思い出が悲しみに染まってしまいそうで。
でも何故と思うのは止められなくて。
言葉というのは不便だ。
何にもしたくない、何にもなりたくないって思っているのに頭は言葉で認識してしまう。
言葉になりそうな字を否定したくて、字にしたくなくてぐちゃぐちゃと塗りつぶして破いてくちゃくちゃに丸めて捨ててしまうような癇癪が脳の中で起こっている。
塗りつぶされた言葉は僕の周りで闇になって、夜になった。
夜は明けても、光が射しても、闇はそこにあった。頭の中まで光は射しちゃくれなかった。
身動ぎをする、寝返りを打つ。
暖簾に腕押しというが夜を相手に腕を伸ばすのは滑稽に見えるのだろうか。
涼子が今の僕を見たら笑うのだろうか。
僕は最近いつも起きた時にようやく自分が寝ていたのだという事に気付く。
いつ寝たのだろうかとか、いつ目をつむったのだろうか、とかよくわからなかったけれど、僕が眠りという状態を感じることは無く、ただ陽の光に顔をしかめて体を動かした。
今日は森に行こうと思っていた。三人で遊んだ直近の記憶なんてものは詳しく思い出せなかった。涼子と会えなくなるなんて思いもしなかったし、最近は雨が続いて家にいることが多かった。
結果論だという事はわかっていても。
「もっと遊べばよかったなぁ」
後悔は尽きない。
泣くようにぼやいたそれをどうしても僕は止める事は出来なかった。
でも山に行こうと思ったのは僕らの遊び場といえば山だったから、集合するにしても山には必ず行ったから。
会えないというのは承知していても、なんとなく山に行けばもっと思い出せるんじゃないかって。
そう思ったから僕は山に行くことを決めた。
夏の暑さが最近ろくに健康的な生活を送れていない僕へと牙をむく。直射日光は矢のように痛かった。
上手く寝れていないだけでこんなに歩くのがつらいなんて思いもしなかったし、インドアな僕でもここまで外が辛いと感じたのは初めての事だった。
最近の天気なんて覚えていなかったから地面が少しぬかるんでいるのを見て、あぁまだ雨は続いていたんだなと感じた。そして世界は問題なくいつも通りなのだと理解して少しだけ辛くなった。こんなにも僕は日常を送れていないというのに。
人が一人死ぬ、それも世界的に見れば日常なのだ。それが僕にとっての非日常だったというだけで。
「そういえば三人で鹿を見たな、死体だったけど。夏休みが始まる日だったっけ」
それが僕のとっての直近の死になるはずだったのだと思うとなんだか懐かしく思えた。でも僕にとって死とはそれ即ち涼子の死でありそれは今も僕の心を捕まえて離さない。
ふらふらと歩きながら森を見ているとぽっけに入っているスマホから音が聞こえることに気が付いた。その音に気が付くと急に耳が聞こえるようになったかのようにセミの声が聞こえてきた。
見てみると木田鋼牙と書いてある。僕のもう一人の親友の名前だ。
「今何処にいる?」
「森、だね。思い出したくってさ」
「おばさんが心配してたぞ。すぐに行くからいつものとこで待ってろ」
あれ、母さんには山に行くと言ったのにな。そう一瞬疑問をかかえたが息子が友達の死後ふらふらと外へ出かけたら心配にもなるかと了解を得た。恐らく鋼牙と会うのなら安心とでも考えたのだろう。鋼牙に連絡が行くのは思えば確かに自然の事だ。
残念ながら僕は一人で山に来たのだからそりゃあ心配もする。帰ったら謝りの言葉の一つでも言わなければならないだろう。
母への心労に申し訳なくなる。
大きな木の下で僕は少し待った。大きなと言えどもほんの少し大きい位で山を遊び場にしている僕らか山に棲んでいる爺さんくらいじゃないとわからないくらいの、僕たちだけがわかる特別。
その木に体重をかけて木陰の恩恵を受けながら僕は待っていた。木陰に潜みながら涼しい風を受けて汗の揮発を感じる。けれどその気持ちよさは風によって葉や枝が揺れることによって霧散した。ちかちかと乱数めいて肌に刺さる陽の光は僕にじっとりとした汗をまた齎した。
そのままぼうっとしていると足音が聞こえた。足音の方には息を切らしながらこちらを見ている鋼牙がいて何だか面白くなり、くすりと笑った。
涼子が死んで初めて笑ったかもしれない。それこそここに涼子がいれば大きく笑ったことだろう、そう思い出した僕は穴なんて空いてないのに胸の穴に風が通るのを感じた。
「何、してんの」
「何……何しているのか、かぁ。影を追ってた? 例えそれが虚像だったとしても思い出は帰ってくるかなって」
「なんだよ、そりゃ」
力が抜けたのか鋼牙の肩にかかっている、いつも竹刀を入れている長いカバンの紐がずるりとずれた。
すぐに彼はカバンの位置を調整するがその時の顔はどうにも力が抜けているような気がした。
僕は恐らく彼に心配をかけていたのだろう。流石にここまで状況が揃えば気付くというものだ。
ただ一つだけ彼に疑問を抱いた。
「あれ、カバンそれだけ? いつもタオルとか色々入れてるでっかいのも背負ってるじゃん」
鋼牙の肩には竹刀を入れているカバンしかかかっていない。剣道は竹刀だけあればできるというものでもない、だからこそそれは違和感になった。竹刀という剣道の道具だけを持っている姿は逆に違和感を掻き立てるものだった。
首をかしげていると彼からどうにも呆れたような笑いが帰ってきて無性に腹が立つ。同年代だというのに子ども扱いされているような何とも居心地の悪いものだ。
「涼子の事があったからな。護身用にはちょっと力不足かもしれんが無いよりマシだろう。……つーか叔父さんが今俺を呼ぶと思うか。流石に遠慮してくれてる」
「あぁ、だから母さんは心配していたのか」
「そうだぞ馬鹿者。犯人はまだ捕まっていないらしいし」
そうだ。そうだった。涼子は殺されたのだ。殺されたのだから殺した犯人がいるのが自然で、犯人は未だどこかにいるのだ。
涼子が殺された、という情報で全てが止まってしまっていたようで、僕は普通セットである殺された者がいるならば殺した者がいるという事に思い至らなかったのだ。
そう考えるとうすら寒いように感じる。いくら涼子との思い出を探したとしても僕自身が思われる側になってしまうなど笑いごとでもない。そんなことになったら彼岸でどれだけのお説教を涼子から受けるのかわからない。そんなことになってしまっては鬼よりも涼子を恐れなければならなくなるだろう。
「しかも涼子、山で殺されたんだからな。おばさん顔が青くなってた」
「あぁ、そりゃあ悪いことを……なんて?」
「顔が青かったって。真っ青。なんならお前が死んだかと思うくらいには顔色が悪かった」
「そこじゃなくて。涼子、山で死んでたの?」
「どうやって殺されてたかとかは教えてくんなかったけど、山に近づくなって言われなかったか?」
「ううん、覚えてないなぁ」
「どうせ考え事でもしてたんだろ」
「まぁ……そう」
だと思った、と言いながら鋼牙は水を飲んだ。ぼんやりしてたせいで今更水が欲しくなってきた。
財布を持ってきたかしらとカバンに手を入れてみるとどうにも冷やっこいものがあった。カバンの中を覗き込んでみると入れた覚えのない水のペットボトルが入っていた。入れっぱなしで存在を忘れてしまっていたのかと思ったが、手から伝わってくる冷たさがその考えを否定した。入れっぱなしのペットボトルが勝手に冷えるはずもない。今の季節は夏なのだ。
家で何度か見たことがあるパッケージをしているため母さんが入れてくれたのだろうか。母さんには頭が上がらないな、それが子供という事なのだろうか。
……スマホで母さんにぼうっとしていた事、水への礼、心配かけたことへの謝罪を送った。帰ってからもう一度謝ろう。
水を口に流し入れ二度、三度四度と喉を動かせば食道から冷たさが、そして体から水を求める苦情は止んだ。
口、そして食道、胃から冷たさが広がり、鼻から息を吸えば冷たい空気に頭が冷やされた。
すぅっとした感覚に、焼け石に水が投入されたことを感じた。
「何悩んでたんだ?」
「なんて言ったらいいかわからないんだけど……どうしよっかなって」
「どうしよってこれからの話?」
「まぁー、そんな感じかな」
「どうしたんだ道也。お前、復讐でもする気か?」
「んにゃ、そんな事はしないよ。しちゃダメな気がするし。僕がすることじゃない。そんなんじゃなくて、色々感じてるこの……よくわからない感情をどうやって処理しようかなって」
「なぁ、道也」
「なに? 鋼牙」
彼の言葉が聞こえた時風を感じた。
その風はとても涼しくて僕の熱くなった体を冷やしてくれた。
なんだか風車がどこかで回っている気がした。
風車なんて本で位しか見たことないはずなのに。
くるくるくるり、軽やかな風のような進展なのか。
くるくるくるり、風車のように回されているだけか。
諸行無常とはどういう意味だったか。酷く気になった。
ぼんやりとした思考ははっきりとは晴れていないようだ。
「犯人探しでもするか」
「バカみたいなこと言うね」
「なんだ、駄目か」
「いや、やろう。とってもバカなことだから乗ってあげる。バカなことするのが青春だろう? それに、それなら涼子も怒りゃしないだろう」
「決まりだ」
そんな突飛な事を彼は言う。でも僕はそれを却下できなかった。
涼子がなぜ死ななければならなかったのか。それには興味がないとは決して言えなかった。
不可解な事がたくさんある。正義感とか怒りとかそんなんじゃないが、それを知った時ようやく僕はコレを嚥下できる気がするんだ。嚥下した先に何があるのかは考えないことにした。