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リビングにおいてある机に僕に出された課題という名の腕置きが散乱している。
その腕置きの上には当たり前のように僕の腕があり、その腕は本を支え時間が来るとぴらぴらと指を使ってページをめくっている。
頭を使う時にある程度の音を聞いていたいというのが僕にありリビングの椅子に座っているのだが、腕の下にある無意味な紙切れには全く頭を使う事のないただ指を使い鉛筆を無駄にするくらいの物しか書かれていない。
数学、なんて高尚な名前はコレにはまだ早すぎる。指の筋肉が衰えないための基礎運動とでも改名してくれたのならばやることも厭わないかもしれないが。
基礎からやろうというのに疑問を呈することはないのだが、基礎をわかっている人間にとっては数字を大量に書くだけという運動をさも偉そうにつらつらと大量に出すのは問題があると思うんだけれど。
人の気を狂わせるのに穴を掘らせてそれを埋めさせ、それを繰り返すというものがあるというのを聞いたことがある。
何の意味も無い労働というものは人の正気を侵すのだろうか。そりゃコレは穴は埋めないけれど、この紙をゴミ箱に突っ込むのと何が違うのだろうか。
端的にいえば面倒くさくてやりたくないという事だ。勿論それが正しくないというのもわかっている。
駄々でもこねないと僕はコレに向き合う事は出来ない。
「もう少しで誕生日なんだから、欲しいものお父さんか私に言っておきなさいよ。昔お父さんが独断と偏見で買ってきたよくわからない本でも良いなら文句はないけど」
母さんが料理を作りながら振り向きもせず僕にそう言った。課題をやらずに本を読んでいるという事は見もせずともわかるのだろう。やる気を一回損ねてしまったらその日は手を付けないなんてことはよくある日常だからだ。
そういえば父さんが偏見で買ってきた本は凄かったな。色んな意味で、だが。小説を読んでいる息子のために植物の図鑑を買ってくるかね普通。身近な植物ならまだ良いが、日本で見る事の出来ない植物の物だった。
とはいえ読んだ。せっかく父が買ってきてくれたのだ。読まないという選択肢があろうはずがない。それにパッと見て少し興味をくすぐられていたというのも正直に言えばそうだ。
そしてなんとも反応に困ることに意外にも面白かったのだ。植物なんて一ミクロンも興味のなかった僕なのだが知らない世界というのは食わず嫌いと一緒で面白いことがある。あった。実際にあったのだから父さんの買ってくる突拍子もない本というのもやぶさかではない。例え恐ろしく面白くない物であっても笑い話になるから良いのだ。
「でもあの時もなんだかんだ面白かったからなぁ、それでもいいんだよね」
「アンタが表紙見て微妙な顔したときのお父さんの顔見た? 階段踏み外したみたいな顔してたじゃない」
「読み終わって面白いって僕が言ったときのどや顔もね。……ま、よほど胡散臭い本か難しい本でも無ければ楽しめるからね。今回も父さんのセンスに期待って事で。父さんが僕の為に選んでくれるってのも子供心的に悪くないし、ね?」
「それであの人がどれだけ悩むか知ってて言ってるから質が悪いのよねこの子。ま、今年もお父さんには数時間本屋でうろうろしてもらおうか」
そう話しながらも僕は本を読み進めていたのだが、本が一区切りついたという事とそれによってどっと肩こりを感じたことによって立ち上がって肩を回す。流れる血液が体に感覚を戻していくのを感じる。本の中身と母さんの声しかなかった世界から現実世界に引き戻された。
肩の筋肉が柔らかくなったせいか、それとも本を読んでいたせいか、外の様子に目が移り驚いた。
外から雨水が地面に叩きつけられている音、屋根に落ちて屋根を伝い雨どいに受け止められて雨どいを流れて地面に急流となりて流れていく水の音。
あんら、こんな雨が降っていたのかと驚いていると目の前が光った。さて何秒ほど時間が空くのかと思う瞬間に轟音が聞こえた。
よほど近いようだ。
「ちっかいね。停電するかと思った」
「アンタは気付いてないだろうけどこれ位の結構落ちてたよ。停電はないとは思うけど後でライト探してきて」
「はーい」
そう言われた瞬間動いた僕は頼まれたライトを机の真ん中に置き、窓から外を見る。
遠くが光るときもあれば目の前が真っ白になって轟音が聞こえる時もある。雨の線はやたらめったら子供がやけを起こして書いたようで傘なんて意味がなさそうだなぁなんて他人事が出た。
「こりゃ何日か山に入るのは止めた方がよさそうだ」
「賢明じゃないか。靴を土塊にして帰ってきたら正座のまま怒ろうかと思ったのに。遊び行きたいなら森のおじいさんに電話してからにしな」
「あの爺最近ヘッドホンしてるけど電話出れんのかな」
爺さん雷に気付いているのだろうか。あの人道具に金は厭わないタイプだから相当よさげなヘッドホンしてたんだよな。
……んにゃ、爺さん目良いから遠くの雷でも気づいてそうだ。爺さんの心配はいらないだろう。
彼は俺の知る老人の中で漫画の超人爺さんを除けば最強爺さんの名を付けている激やば爺さんなのだ。
こんな嵐程度じゃ足音が聞こえないなんて喚きながらゲームをしているかもしれない。
さて、少し課題を進め……いや、また本を読もう。そう思い窓から離れる。
どれだけ外が大嵐でも僕は家の中にいる、いわば対岸の火事のようなものだ。
窓ガラス一枚が僕と嵐とを分ける境界線だったとしても、嵐がガラスを突破できないのであれば大河がさえぎっているのと代わりはない。たとえ燃え盛る炎が家を焼いていたとしても、それが人を焼いていたり、友人の家でなければ気にすることも無いだろう。
つまりは思考するに値しない情報となったのだ。
日常という思考が発生しない浴槽に浸かるように僕は日常へと戻ろうとした。戻りたかった。
そんな時にバイブレーションの音が聞こえる。震えているのは僕のスマホだ。母は仕事が忙しくすぐに電話を取れるように音を出しているのだ。だから、この部屋にバイブレーションをするようなスマホは僕のもの以外ないのだ。
厭な予感がした。後ろのガラスが割れて僕の半身に雨が降りかかっているみたいに体が冷えている、と感じた。冷えた蠟のように体が固まってしまったかと錯覚するほどに一歩一歩がぎこちない。
僕はスマホを手に取る。相手は僕の親友の一人である斎藤涼子のお母さんだ。涼子の母と書いてある。
僕はこのままスマホをソファに投げ捨ててベッドにもぐりこみ、入眠音楽にしては激しすぎる雨音を聞きながら眠った方が良いのではないかと、そう、思った。
スマホの画面が切り替わる。通話画面だ。音声が聞こえてくる。スマホを耳に当てる。
「涼子が
激しい耳鳴りに襲われた。全ての音が同じ音階になってしまったかのように聞こえる。目の前の母の声もスマホから聞こえてくる涼子のお母さんの声も全てが同じ音に聞こえて大きな耳鳴りになってしまったようで。
いや聞こえているのだ。足元のスマホから聞こえる声も。
僕の肩を掴んで何があったのかを聞こうとしている母の声も。
全て、全て、聞こえているのだ。
僕がそれら一切の処理を。
したくないのだ。