3
厭というほどつんざく刺激を送ってくる鼻腔がおのれクソであったか等と思案するまでも無くソレの匂いになれていく。
慣れというのはとても怖いものなのだと、こういう事象と相まみえた時に痛感する。目の前にある半ば腐れている屍の匂いも、ぶんぶんと口うるさく飛んでいる蝿たちも少しずつ慣れてきた。
騒いでいた涼子も今は落ち着いて僕の背中に隠れながらも目の前の屍を見ている。
鋼牙は何も言わずそれの目の前に立っている。こちらからでは表情はわからないが、ただ興奮するでもなく忌避するでもなく、ただぼんやりとそれを見ているんじゃないかと僕は思った。
目の前に置かれている屍の臭いは僕たちを包んでいた。日常生活で嗅ぐことのないであろうこの臭いは僕らを非日常に招くに十分すぎるものだったと思う。
甘く、鈍いこの空気を言葉で表すとするならば異界だと感じた。他の世界に来たような、これまでの全ての常識が通用しない世界に迷い込んでしまったかのような不思議な体験だった。
涼子がぼそりとそんな彼に一言だけ問いかけた。すると彼はゆらりと揺れてこちらの世界に帰ってきたようで俺たちの存在に気付いたようだ。
「何、それ」
「死体、だろ、そりゃ。鹿の。……足を見てみろ、怪我してる」
「それはわかってるっての。何でそんなもんをぼぉっとみてるのかって聞いてんのよ。気色悪くない? いっぱい虫飛んでるしキモイし」
「おいおい涼子そんな事言うなよ。俺らの末路はこれなんだろう」
「そうだけどさぁ。好んで近寄りたくないってのもしょうがない反応でしょうに」
「死体にばっちいって扱いするのは失礼ってもんじゃねーの。道也はどう思うよ?」
そんな間も僕は死体を見ていたからそれに対する答えなんてわかりきっているだろうに鋼牙はそれを喋れというのだろう。
彼女も別に忌避しているわけではないとは思うが、だからといって好意的に見れるかというと流石にグロテスクなのは否めないだろう。
僕自身は死体だからという訳でもなく森で遊んでいるからと言って鹿なんて早々に見れるものではない。一瞬見えたなんてことはあったが今僕の目の前に居る彼は動かず、近くにある。少しばかり猟奇的なことを言っている自覚はあるが、図鑑で見たものが目の前に居るというのは少しばかり僕に高揚感を与えたのだ。
「末路がコレだというのに否定はしないけど衛生的には最悪だからね。あんまり長く見物するもんじゃないとは思うよ」
「珍しいから見てただけでそんな心配するもんじゃないって。衛生的に最悪ってのは何も言えねぇわ」
そういって鋼牙は元居た道へと進みだした。あんまり藪の中にいたら腕や足がえらいことになるのではないかという直感を得た僕もすぐに彼の元を追おうとした。
そして今度は涼子がぼんやりとしているのに気が付いた。思わず足が止まってしまうくらいには。
どうにも不気味に見えた彼女に一瞬声をかけるのを戸惑ってしまう。その内に我を取り戻した彼女が僕の視線に気づく。
洗濯機の動いている音を聞いた瞬間にポケットからティッシュを取り出す事をすっかり忘れていたというのに気が付いた程度のほんのささやかな罪悪感を感じるような、へへ等と笑みにも慣れていないへたくそな微笑みを浮かべる事しかできない僕。
我ながら子供のような反応に少しだけ恥じらうような気持ちも抱いた。
「何よ。見てたって責めやしないよ。何だかね」
「どうしたってのさ」
そう歯切れの悪い彼女を見るのは初めてのような気がした。
彼女は追及されたことに腹を立てたのか眉を吊り上げながら僕が彼女の顔をじっと見ていたことを厭味ったらしく露悪的に語った。そうなのだ。それが僕の知る斎藤涼子なのだ。
いつもの彼女が返ってきたような気がして責められているのに笑ってしまう。
責められているのに笑っている僕を見た彼女はいつもながら呆れて笑った。
例え喧嘩になるようなやり取りであっても僕らは長く遊んだ仲であり、それは殊更に変わった事ではない。
「気色悪いなぁ。あぁ……思い出した。あんたに言ったことあったっけ。昔、あんたらとも会ってない……親から離れたら怒られるくらいにチビだった頃。私ここで鹿を見たのよね」
「それは……この子?」
「馬鹿ね、鹿の顔なんて見分けられないし、もうぼんやりとしか覚えてないっての。指さすのやめな、さっき言ってたみたいに失礼よ。……あぁ、でも小さな子もいた気がするしもしかしたらそうなのかもね」
鹿を指さした指をしまいながら僕はそんな話は聞いたこともないなぁ、それに彼女と鹿を見たのもコレが初めてだったかと考え付いた。僕が一度見たことがある鹿は爺さんと一緒に見たのだ。
森に棲んでる爺さんにもう夜が遅いから帰れと町まで送ってもらったときに一回見たのだった。
爺さんにあちらを見ろと促され見てみると暗闇に白いものが浮かんでいて相当怯えたのを覚えている。それを見て大笑いした爺さんの顔も。彼が帰りしなにネタばらしをしてくれたからその日は怯えて寝ずに済んだのだが数日は根に持ったのを覚えている。
ネタばらししながら語ってくれた鹿の話に爺さんの猟師としての経験からのリアリティが酷くあって面白かったのも。
「それでさ、もうそんな時間たったんだなぁって」
「何年前の話さ。そりゃ時間は経つよ。僕らが遊びだしてどんだけ時間が経ったと思ってるのさ」
「そういう話じゃなくて。ほら、私たちってゲームみたいに進化とかないじゃん。小学生から中学生に進化した! なんてなかった訳だし、これからも多分そう。全部地続きなんだよ」
「たし、か、に。いつの間にか大きくなった、ね」
僕は思わず己の掌を広げてその大きさを見た。
一等古い記憶の僕の掌は随分と古ぼけて見えなくなっているけれどとてもこんな大きさをしてはいなかった。もっと小さく短く、それでいてぼやけるような肉に包まれていた。
一番体が大きくなる時期とはいえ、いつの間にかこの大きさは僕の当たり前になっていたのだ。
思えば遠く来たもんだ。未だ十何年と生きてはいないのだけど、彼女の言葉で昔読んだ記憶の果てにあったこの一節を思い出さざるを得なかった。
「年一回くらいしか会わない親戚がさ、ちょっと見ない間に大きくなったねっていうんだ。見てると気づけないんだろうねー。一番私たちが私たち自身を見てるから、気づけないんだろうけど」
「それで、時間の流れに気付いて……どう思った?」
「なーんにも。んや少し寂しい」
「それは、何が?」
「思い出してみてよ。思い出を。私たちのじゃないよ、もっと前の、もはや名前すら怪しい友達たちとか昔遊んだ親戚とか。内容なんて覚えてない数回だけたまたま見たテレビの番組とか」
遠い記憶、それは失ったわけじゃないというのを本で見た、そんな記憶。
その本を読んでから僕は記憶というモノが大量の引き出しがある壁というイメージになった。
ただ鍵を無くしてしまっているだけなのだ。鍵を無くしただけで壁のどこかには今思えばあまりにも遠い記憶でも引き出しの中に存在しているのだと、思っている。
「思い出した? もう私たちはそれになれないんだなって。あの頃を思い出す事は出来ても、あの頃みたいになる事は出来ても、あの頃になる事は出来ないんだなって。それがね、何だか寂しいなって」
「寂しい?」
「うん、時間て寂しいんだね」
「……」
それに答える言葉を僕は持っていなかった。彼女のその言葉についていける自信がなかったから。
彼女の見えているものがわからなくて、ただそれを言う彼女はいつもの強い彼女でもなく、黙って皮をかぶった儚そうな彼女でもなく。
僕の知る彼女ではなく、ただそのいつもとの差異こそが子供と大人との違いなのではないかと、彼女は大人の視座に指先がかかったのではないかと。僕は思っていた。
だから僕は一言彼女に聞いた。
「僕らも今の僕らみたいになれなくなると思う?」
「なれないよ。でも今の私たちがなれない、新しい私たちにはなれるかもよ」
そう言って笑う彼女はいつもの鋼牙の弁当に一味をかけて下品に笑う涼子で安心と共に未来への恐怖が消え去った。
いつもの彼女が語ったそれは強いものだと思ったけれど、自分は全くそう思うには僕は弱すぎた。
だけど僕も笑って彼女も笑った。笑いが闇への明かりとなってくれたのだろうか。おかげで明日は怖くなかった。
「ほら鋼牙が待ってるよ。虫に刺されないうちに帰らなきゃ。涼子が刺されたらおばさんに怒られちゃう」
「鋼牙への心配はないんだね」
「なんだかんだしかめっ面で待ってるからね。そもそも今回の発端はアイツなんだし。あいつの事だし筋肉があるから虫にも刺されにくいって」
「そりゃそうだ」
勿論そんな事実はない。
一回筋肉で蚊を捕まえていたのを見たことはあるが。
デパートを練り歩きながら雑談のネタが付き始めもう日も暮れてきたころ。
僕らは、さてもうそろそろ帰ろうかと帰る準備をしていた。なにせ今日からは毎日会う事はないのだ。予定なんかを話し合っておかなければ。
「私一気にやるから一週間は無理」
「計画的にやるからいつでも」
「叔父さんからの連絡次第、あと涼子と同じくしばらく無理。時間かかるやつはやっとかないと叔父さん次第でとんでもねぇことになる」
つまりは夏休みだというのにしばらくは遊べないらしい。休むというのだから遊ばない方が正しそうでもあるのだが、元気があり時間があるというならば遊びたくなるというのが人の心だろう。
といってもいつもの事だ。映画でも見て時間を潰すとしようか。
それからは帰りながら宿題の面倒そうなのを当てる賭けなんかをしながら少しずつ解散していった。
しばらくして帰り道、僕は一人になった。夜になってもまだセミは少しやかましい。
思考に鳴き声が入ってきて煩わしいなんてものじゃない。考え事といってもさっきの涼子程難しいことは考えていない。
ただ己が将来どうなるのだろうか、と。僕なんかの視野では全くの闇にしか見えない。
一寸先は闇というのはこういう事を言うのだろうか。街灯の光が道を照らしてはいるものの、僕には暗闇が滲んで見えた。滲んだ暗闇が触手を揺らめかすようで、僕は闇が怖く感じた。その怖さは一気に広がり、薄明りを薄暗いと感じるようになり、街灯の光でさえも頼りなく感じ始めた。
一人になったものだから心細さが身を撫でる風になって現れる。あんなにも日中は吹けよ風と念じたものなのだが、今になって吹いた風はどうも気持ちが悪くて、首筋を撫でられた気になった。それも人でも動物でもない何かに。
そんなうじうじとしている僕がふと頭を上げる。すると月が目に入った。月は何も変わらずに水のように光を落としていた。
何かがわかった。そう僕は感じた。何がわかったのか全く分からないのだけれども、わかった、と感じたのだ。
そして、闇が晴れた。正確には晴れてはいないのだが、闇が其処にあろうとも夜は明るくできる。
ほんの半畳ほど。どれだけ目の前が暗くとも、明日は来るのだ。
どれだけ暗くとも明日が来るならしょうがない。しょうがないんだ。
月と太陽の動きを一日というのならば、この二つを止める事なんて人間には出来ないのだから。
あぁ、生きたいと思った。生きてさえいれば明日が来るのだろう。
全くの闇に包まれていた気がしていた周囲はいつもの帰路でもう家がそこまで来ていた。
良い臭いが漂ってきている。今夜はなんだろうか。