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セミの幼虫が木を登っている。そして古い皮を脱ぎ去り、白く柔らかいその身を晒すのだ。
僕はそれをしゃがんで見つめている、ただその白い体を乾かしているセミを見ているわけではなかった。
セミの古い体が、抜け殻が木に掴まっていて、それを見ていた。何故見ているのかは自分ですらもわからない。
体の後ろから声が聞こえた。何故、そう聞こえた。
僕は振り返りもせずに答えて、わからない、そのただ一言だった。
僕がそう言ったのと同時に風が吹いて抜け殻がポトリと落ちた。セミは変わらず木に掴まっている、当然だ。生きているのだから。
かなしいの? そう聞こえた。
僕はそう、とも違う、とも答える事は出来なかった。
成虫にならない方が良かった? そう聞こえた。
僕はそんな訳ない、と答えた。
なら何故? もう一度そう聞かれた
僕は見たいから、とだけ答えた。
僕は合点がいってそうだったのか、と僕の後ろから……僕の後ろから?
セミの声が一際大きく聞こえた。パトカーのサイレンのように、何かを警告するように鋭く耳をつんざくものだから眉をひそめながらうるさい、とつぶやく。
成虫になったセミが鳴いているんだ。そう僕に言った。僕に、僕が?
「須藤くん、須藤道也くん」
瞼を開く、光が眼球を通り脳を激しく刺す。……僕はいつのまにか寝ていたようだった。こんな暑いのによくこんな熟睡していたものだと自分の体に驚きを覚える。疲れているという訳でもないはずなんだが。
そうだ、たかがいつもより長い時間休んでいるだけで今生の別れのように、勉強しなければピラミッドの呪いで喉が詰まって死ぬみたいに脅してくる先生の話に嫌気がさした僕はセミの声だけに集中しながら瞼を閉じたのだった。
目の間にはバカのような枚数のプリントを持った先生が立っていた。
先生がプリントを置きたそうに見ているもんだから袖で机についている汗を拭く。机がしっとりとしていて暑さを再確認させてくる。
「先生、それは?」
「宿題だ。加藤がプリントを受け取ってくれないと困っていたぞ。百歩譲って先生の話を無視するのは良いとしても周りの子を困らせるのは止めなさい」
「あぁ、そりゃ申し訳ないです。長い話は終わったんですか?」
寝ぼけ眼に正論だ。目覚めは良くない方だと自覚しているが、起きた瞬間に正論を叩きこまれたせいでもやもやもすることも出来ずにへらへらと笑うしかなかった。へらへらとした表情を見て先生は呆れたような目を僕に向けた。
前の席の加藤君が頬杖を突きながらにやついた目でこちらを見ている。いい気味だ、と顔に書いているようで。何度かは起こしてくれたのだろうが、僕はそんなに簡単に目が覚める人間じゃない。ついには先生というカードを切ったのだろう。
何度か、それも複数人にされたことがあるからその流れというのを聞かずとも予想できる。
「お前には忠告も無駄だろうし必要も無いだろうが……寝不足か? 寝苦しいようならすぐにクーラーを使わんと健康に悪いぞ」
「いえいえ、何回も聞いた話だったんでつい眠気が」
「何回も言わんとすぐ忘れるだろうて。お前なんかは何度言っても言う事は聞かんだろう」
「百回言われても聞かない自信があります、ええ」
「知ってるし信じてるよ」
そう言うと先生は大きくため息をついて肩を二回だけはたいて戻っていった。
こういった話を真面目に聞いたためしがないというのは長い付き合いの先生はわかっているのだろう。
諦められるほど言っても意味がない僕の脳には僕自身もびっくりしているのだから。
元の位置に戻った先生はその後もぐちゃぐちゃと話しているのだか台本を読んでいるのだかわからない話をつづけた。
ああは言っても僕と同じくらいにはテキトーなところのある先生だから今日の晩御飯でも考えながら話している事だろう。
「来年には受験のために勉強しなきゃいけないんだからなー。油断してると来年面倒なことになるから気を付けるように。そのとき先生に泣きつかれると先生凄い面倒だから先生の労力を軽くするために頑張ってくれ」
最後にそれだけ言って先生は話を止め、椅子に座った。なんだかんだ泣きつかれても頑張ってくれるのだから先生は好かれているのだ。ただ面倒だ面倒だと言うのだけは止められないようであるが。
どうにも興味がなかった僕はついあくびが出たため、起立という声に反応が遅れ一拍ほどずれて立ち上がった。
後ろの方にいる悪が付くタイプの仲がいい友人の涼子に見られてやしないかと冷や冷やしたがどうやらこちらを見てはいなかったようだ。
そうして僕らの夏休みは始まったのだ。
木が多ければ多いほど、セミの音というものは大きくなる。
喧しいほどのセミの声ももはや慣れた。……いややっぱうるさい。暑さは耐えれるのだが喧しさだけはどうにも。
耳を塞げば静かになった空間に逆にセミの音だけがはっきりと聞こえるようになり、うるさくはないのだがうんざりとする。そう考えるとセミというのは夏の風物詩なのではなく夏という記憶に植え付けられた暗示のようなものなのではないかとすら思う。嫌いではないのだが、好きと言ってしまいたくはない。
木陰がちらちらとある山の中を歩いている。矢のような陽を木はさえぎってくれるのだがそれでも暑いものは暑い。銃弾の雨あられを小さな盾一つ二つじゃ防げないのと一緒だ。そして急所さえ守れば被害を防げるのも。
汗を袖で拭いながら少し上を向いて歩く。前にはシルエットが見えてきた。
二人だ。男女二人。僕の親愛なる友人たちは木陰で木に寄りかかりながら僕を待っていた。
一人はスマホを見ながら、一人はぼんやりと空を見ている。
涼子は僕を見て顔をしかめる。僕の額を流れる汗を見たのだろう。鋼牙はこちらを見もしない。この男は予想できることは見もせずに済ませたがるのだ。僕がこの坂を上って汗をかく事なんて彼にとっては予想していたのだろう。
「やぁおまたせ」
「凄い汗だよ。ハンカチ持って……そうね。水分補給ちゃんとしてる?」
「あー、荷物置いてすぐ来たからしてないや」
「あっそ。今日暑いし、デパートで何か買いなさいよ。それでいいでしょ鋼牙も」
「なんなら俺はアレあるから丁度いいな。それにこんな暑い日にずっと外にいたら体力も持たん。もうすぐ夏至らしいぞ」
「こんなクソ暑い訳だな」
「そんな暑いのに水分補給もせず、する手段を用意せずに外をほっつき歩いている奴がいるらしい」
「そりゃ大変だ、剣道やってる友人のカバンから水筒を掠め取ろうとするくらいには」
「実際どう? 汗出てるから大丈夫だと思っていたが」
「冗談だよ、そこまでじゃない。けど早くデパートに行こう。暑いし喉が渇いた」
鋼牙は竹刀を入れる長いバックを持っている。叔父さんが剣道を教えているとかで呼ばれるらしい。
彼の叔父さんに一度聞いたことがあるのだが最近は剣道をやる人間も少ないのだと言っていた。
とはいえ叔父さんの所にも二人か三人はいる。だがずっと同じ人間とやっていても、というのだ。鋼牙は昔やっていたし、上手い……らしい。
そういうものに詳しくないため断言はできないのだがこうやって度々呼ばれるくらいには彼は上手いらしいのだ。
僕らは別に興味があるという事を知ろうとはしてこなかったからだ。実際鋼牙自身からも剣道への興味は失われていたのだから僕ら二人が深追いすることも無いのだ。
僕ら三人は山で遊んでいた。山といってもしっかりと登るという訳でもない。山のふもとに近いところを使っているのだ。
この山を待ち合わせ場所にしていて、三人の家から絶妙に近くそれでいてほどほどに整備されている。
車が通れるのだが、それだけだ。歩いている人も通る車もほぼないこの山ならばすぐに合流できるのだ。
それこそタイヤなどで踏み固められていない奥に這入れば迷子になることもあろうが、僕らはここを長年遊び場にしているため迷わない自信もある。それにまずそんなにおおきな山ではないのだ。
完全に迷ってしまったとしても数時間は一つの方角に歩き続ければ外に出ることが出来る。
「そういや山の爺さんFPSにはまったらしいぞ。そのせいで最近雨の日なんかずっとヘッドホンしてるらしい。さっき通った配達の人が言ってたぜ」
「玄関先でいくら呼んでも来ないからついに耳が遠くなったかと思ったってさ」
「あの爺ちゃんはどれだけ元気なんだ。この前僕マリカでぼこぼこにされたよ」
「私、お爺ちゃんがはまり始めの頃に一回話聞いたことあるけど猟師してた頃を思い出すってさ。あの様子じゃ目も耳もまだまだ衰えのかけらもないんじゃないかな」
僕はマリカでぼこぼこにされて食器洗剤が無くなったのだとか言ってパシられた。
大人げないというにはあまりにも上手すぎるのだ。同年代でやった時でもあそこまで強いのはいなかった。
それでいて渡した金のおつりは小遣いだ、なんて言ってくれるからどうにも嫌えない。
ゲームで遊んで……ボコられて? ボコられたとしても楽しかったことは間違いなく、そしてお小遣いもくれるのだから印象が良い。そして僕みたいな小賢しい子供には、仲良くしようとしているのではなくただ豪快なんだと思わせるあの人の生き方にはすごく好感を持てた。もしその言葉を爺さんに言おうもんなら、怒るでもなく笑うでもなく百年早いだなんだと言われてまぁまぁ痛い手刀が頭に落ちてくるのだ。
爺さんは猟師をしていただけあって力もあれば耳もいいし何より勘が良い。
一回だけあの爺さんから怒鳴られたことがある。昔この山で遊んでいた時にいきなり現れた爺さんに、はよう帰らんか、そう怒鳴られた。
いきなり怒鳴るような爺さんじゃないと思っていただけに三人でおっかなびっくり急いで帰ったのだが家に帰った瞬間に雷鳴が轟いた。水が叩きつけられているかのような雨音は今でも覚えているほどに衝撃であった。
その後三人同時にスマホであの爺さんに逆らわないようにしようと送り合ったのはいい思い出だ。
そして山の危険な場所に立ち寄れば爺さんが叱ってくれる。爺さんが笑って挨拶を返してくれる場所は安全という確信を持てる。
信頼、なのだろうか。先達の言葉は偉大であるというのはこういう事なのだろうか。
「鋼牙は夏休みやっぱ呼ばれてるの?」
「そうだな。夏休みだから手を貸してくれと言われたよ。新人の一人でも入れば俺がいなくとも回るのだろうが、どうにも叔父さんの所は人気じゃないようだ」
「私が思うに叔父さんは宣伝が足らないと思うんだよね。私が知る限りそんな意欲的じゃないよね。チラシ配ったり、それこそイベントみたいなのをやってみるとかさ」
「あぁ、そういうのに明るい人じゃないからな。……言ってしまえば面倒なんだろうし、まず知らないんじゃないかな。あのー広報って言うの? 俺も今ぱっと考えても案は出ないしさ」
「面倒だけどやった方が良いと思うんだけどなぁ。夏休みなんて加入者増えそうだし」
「そう? 夏なんて運動したくない季節ナンバーワンじゃないか。僕だったらやらないよ。図書館で本を読んでいたいし、お金払ってまで汗を流したいとは思えないな。体を動かすのは嫌いじゃないけど、暑さってモノが原因で大量の汗をかくのは御免かな」
「馬鹿ねえ。習い事なんてやることに意味があるんじゃないわよ。やったことに意味があるんだよ」
だとしても僕は御免だ。と心の中で断言した。
元々インドアな僕が外に出て、しかも夏で、しかも金を払って体を動かし汗をかくなんて面倒以外の何物でもない。
それで未来が少し明るくなったとしても未来なんてモノの一寸先は闇なのだからほんの忘れられた蓄光玩具のような光なんて僕は求めない。
でも最近の大人たちはそうあれと望むのだろうか。
母や父から将来の為に何かの習い事を薦められた、と想像してみた。うぅん、招来って何時の事なのさ、なんぞと戯言を言い始めるかもしれない。
だけれど確かに将来何になるとかの目標を僕は建てられていない。故にしたほうがいいのだろうなぁとも思わなくもない。
でも僕は、習い事のお金を使って本を買った方が。僕の人生が、とか僕の将来が、とかではなく僕が明るくなると思ってしまうのだ。
「二人とも馬鹿にしてんのか。こら。まぁ、俺は道也の言ってることの方が良いと思う。合ってるとは言わんが。習い事何ぞやりたい奴がやればいいのさ。じゃなきゃ楽しくない」
「たのしい? 汗にまみれることが?」
「そろそろぶん殴るぞ。お前が本を読むようにやりたいことなら苦行だろうと楽しいものだぞ」
「おっとぐう、とだけ言っておこう」
それを言われるとどうにも反論などできるはずもないだろうが。
そうやって僕らは下るはずもない話をべらべらと話しながら歩いていた。
その時鋼牙がふと周りを見渡し始めた。何か臭うぞなんてぼやきながら必死にそれを探しているものなのだから僕ら二人は同じように辺りを見渡す。
臭い、といわれれば確かに臭いかも? なんて思っていたが鋼牙はどうやらその匂いの元を見つけたようで更に何故かソレに向かってずんずんと進んでいった。
草むらも何のそので進んでいくため涼子と顔を見合わせてため息を吐いた。
鋼牙はこういう所がある。何かに夢中になった時に辺りが見えなくなるのだ。僕らがどう声をかけても反応すらしないもんだから嫌になる。
その時涼子がぎゃあと色気もクソも無いやたら大きな声を出した。
大きな蝿が彼女の辺りを飛んでいる。蜂か等と叫んでいる所を見るにあまりにも大きな羽の音に蜂と勘違いしたのだろう。
虫が特段嫌いという事も無い彼女であるが蜂が近くを飛んでいると感じれば怖がるのか。
ほんの少し意外だった。指をさしてけらけら笑っているとただのデカい蝿だと気づいた涼子に蹴飛ばされた。
勝手に勘違いして騒いでいたのだから滑稽だと思ったとしても当然の事だと思うのだが、彼女の怒りを買ったようだ。
となどと言っても女性の無様な姿を笑ったのだから、仕方のないことだとも思う僕は二発目の蹴りも甘んじて受け入れた。
「いいから追うよ。アイツ夢中になったら自分が何してるかなんてわかんないんだから。穴でもあればそのまま落ちてくかも」
「あい、マム。こんなことなら長ズボンを着てくるんだったな。虫に噛まれなきゃいいけど」
「アンタ長ズボンなんて来てたら暑いに決まってるでしょ。正解は虫除けスプレーよ」
「そらそうだ」
あぁ、なるほど。
草むらに入りながらある事に気付いた。正確にはあんな大きな蝿がいるんだなぁと思ってから、少しして気付いた。
この微かに感じる匂いは腐臭か。