32・隣国のフェリクス王子視点
私はルーヴェンシアの第一王子。生まれた時から、「フェリクス」ではなく「ルーヴェンシアの王子」として生きることが決まっていた。
幼い頃から、誰もが私に跪いた。私が「次期国王」だから。私を「フェリクス」という一人の人間として接してくれたのは、王妃である母上だけだ。母上はとても優しく勤勉で、息子としての贔屓目を除いても、人間として、非常に心の美しい人であった。
――だがそんな母上は、王宮内で虐げられていた。
母上は元公爵令嬢だ。王の正妃となるのに、血統や魔力を鑑みても、他に相応しい女性はいなかった。だからこそ――父である国王陛下は、母上と「結婚せざるをえなかった」のだ。
だが父上には、母上と結婚する前から、愛していた女性がいた。
それが、側妃であるリリアンヌ様だ。彼女は元々王宮の使用人であったが、その美しさによって父上の心を射止めた。
母上の方が正当な妃であるにも関わらず、父上はリリアンヌ様ばかりを愛し、母上のことはただただ形だけの王妃として扱った。リリアンヌ様の方も、本当なら自分だけが国王の寵愛を受けるはずだったのに、とばかりに母上を邪魔者として虐げた。
慎ましい母上と違い、リリアンヌ様は華美で、他者を自分の言いなりにすることが上手かった。元々王宮の使用人であった彼女は、使用人達の内部事情にも詳しい。それぞれの性格に刺さるような甘い言葉を囁き、使用人達を味方につけ、陰で母上を追い込んでいった。
母上は正妃であるにも関わらず小さな離宮へ追いやられ、私もそこで共に暮らした。食事は、とても王族とは思えぬような質素なものばかり。母上はリリアンヌ様やその息子達から常に嫌がらせを受けていた。
リリアンヌ様と、彼女の息子である王子達の理不尽な行為について、何度となく父上に訴えた。しかし、一度も聞き入れてもらえなかった。それどころか、リリアンヌ様が「あの子が私を陥れようとしているの」と父上に泣いて訴えるせいで、私と母上の方が加害者であるかのような扱いを受けた。幼い自分は無力で、結局どうすることもできなかった。
そもそも私が産まれて以降、もう用はすんだとばかりに父上は母上を愛することはなくなり、リリアンヌ様のところへばかり通っていた。おかげでリリアンヌ様の方が子どもが多く、母上の子が私一人なのに対し、リリアンヌ様には四人もの王子がいる。数はあちらの方が多く、私と母はその全員から敵意を向けられることになった。
リリアンヌ様に殺されるのではないかと、怯えたことも何度もある。
父上はリリアンヌ様とその子ども達の方を愛していて、私や母上に愛はない。父上もリリアンヌ様も、本当は王位を私ではない王子に譲りたいのではないか。そのために私の存在が邪魔なのではないか。――自分の存在意義について、何度も考えた。
だけど私は、誰からも愛されていないわけでも、誰からも必要とされていなかったわけでもない。……どんな状況でも、母上はいつも、私に優しい笑顔を向けてくれた。
――「あなたを愛しているわ、フェリクス。私はね、あなたが生まれてきてくれて、本当に嬉しいの。あなたのことは、私が守るわ……」
自分だって辛い環境に置かれているというのに、母上は私にできるかぎりのことをしてくれた。
使用人がリリアンヌ様の命令でろくなものを作ってくれないから、母上は王妃であるにも関わらず、自分の手で料理を作って私に食べさせてくれることもあった。いつも優しく微笑んで、勉強を教えてくれたり、物語を聞かせてくれたりする時もあった。
(母上の優しさに報いたい。私が王となって、このような理不尽から、母上を解放するのだ)
それに、私だけではない。国には、理不尽な思いに苛まれながら生きている民達が大勢いる。生まれや身分、日々の暮らし、それぞれ皆抱える悩みは違えども、誰もが苦しみもがきながら毎日を生きているのだ。
(一人でも多くの民が、笑顔で暮らせる国にしたい。平和で幸福な国に……)
父上から愛されていなかろうが、血筋としては、私が正当な次期国王なのだ。リリアンヌ様の息子達を王になどしてたまるか、という反骨心もあり、私は必死に国王になるための勉学に励んだ。剣術や魔法の修行も積み、次第に、誰にも文句を言わせない次期国王への道を歩んでいった。
それでも――ふと心の中に、暗い闇のようなものが生じることがある。
私には、確かにあの父親の血が流れているのだ。正妃である母と息子を放置し、側妃にばかり愛を注いだ不平等な王。母上が酷い扱いを受けているという真実を見ようともせず、自分に都合のいいことばかり信じて、物事の本質を確かめようともしない、理不尽そのもののような人。
私が次期国王であると証明するこの血は、私にあの男の血が流れているという証明でもある。
私は、良き王になれるのだろうか。どこかで道を踏み間違えて、父上のようになってしまわないだろうか。いや、そもそも今、私は正しく在れているのか? 父上やリリアンヌ様への怒りに囚われて、自分を見失ってはいないだろうか。
自分自身がわからなくなり、不安にかられる時、ふと立ち止まって思い出すのは、まだ幼い頃に母上が言っていた言葉だ。
――「ねえ。フェリクス。生きていれば、辛い時も苦しい時もあるわ。だけどね、そんな時は外へ出てごらんなさい。どんな苦しい時だって、世界に美しいものはあるから。……私はね、綺麗なものを見ると、あなたのことを思い出すの。こんなに綺麗なものを、あなたに、見せてあげたいと思うのよ。……そう思えることが、幸せなの」
――「……私も、綺麗なものを見ると、母上のことを思い出します」
――「ありがとう。まっすぐそんなふうに言ってくれるあなたは、とても心優しい子だわ」
母上はそう言って、柔らかな笑みを浮かべながら、そっと幼い私の頭を撫でてくれた。
――「ねえ、忘れないで。世界は美しいの。世界に在るものを美しいと思うことのできるあなたは、優しいのよ――」
◇ ◇ ◇
「フェリクス殿下、此度は我が国へのご来訪、心より歓迎いたします。貴殿に我が国での時間を楽しんでいただけるよう、私も全力を尽くしましょう」
隣国であるワルブレイヴァへ赴くと、アルヴァス国王が、4年前に王になったばかりとは思えぬ堂々とした笑顔で迎えてくれた。凛々しい顔立ちに、春風のように爽やかな笑みが浮かぶと、思わずこちらも顔が綻ぶ。
アルヴァス国王は、魔界の門から現れた魔王を倒した元勇者だ。
平民でありながら己を鍛え、人々を脅かす悪を討つという偉業を成し遂げ、更にはまだ齢25にして王として民の上に立ち人々を導いている御方。勇敢にして豪快、自由闊達な人だ。
そんな人と相まみえることを光栄に思いつつ、この先隣国の王として長い付き合いになると思うと、緊張も覚える。自分はこの人とこの先、うまく友好を築いてゆくことができるだろうか。
「本日は、フェリクス殿下にご紹介したい店があるのです。この大陸で他にない、非常に珍しい飲み物と菓子を出す店でして。その飲み物は、私が王になってから毎年開催している品評会でも優勝したのです。店構えや内装も非常に珍しく……ぜひ、フェリクス殿下に体験していただきたいと思ったのです」
そうして、警備兵に囲まれながら、アルヴァス国王が案内してくれた場所へ行くと――
柔らかな風が、ざあっとひと筋抜けていった。
その風に乗って無数の花びらが舞い、青い空が薄紅に染まってゆく。
――それは、見たこともない花だった。
大樹に薄紅の花が満開に咲き、風に吹かれるたび、はらはらと花びらを散らす。美しい花びらはゆっくりと宙を舞い踊る。誰の上にも、平等に降り注いでくれるように。
薄紅の吹雪にも似た光景は――自分を歓迎し、次期ルーヴェンシアの国王として祝福してくれているようにも、見えた。
(ああ……美しい)
次期国王になるのだという不安や緊張が、柔らかな薄紅色で洗い流されてゆくかのようだ。
世界は、美しい。美しいものを心から美しいと思えることが、嬉しい。
「ようこそいらっしゃいました、フェリクス殿下、国王陛下」
薄紅色の花に見惚れていると、不思議な衣装に身を包んだ女性が迎えてくれ、はっと我に返る。




