19・リーフ視点
どういう奇跡か、レティー様に、新しく開店させる店で働いてほしいと誘っていただいて。
ずっと身体が弱かったフルールも、レティー様にいただいた万能治療薬で見違えるほど元気になって――
ここ数日で、信じられないほどに人生が好転している。
(今までずっと、獣人だからと蔑まれる日々を送ってきたのに……)
レティー様は俺が獣人だと知っても、少しも軽蔑の目で見なかった。むしろ、笑顔で向き合ってくれた。正直、今でも夢ではないのかと思うほどの幸福だ。
(この御恩に報いたい。あの人のためなら、俺はなんだってしたい――)
ひとまず、レティー様の店で働くために、今の店を辞めるところからだ。
「すみません、店長。話があるのですが――」
朝、開店前に店長に話をしようとしたら、いかにも邪魔なものを見る目で睨まれてしまった。
「ああ? 後にしろ、後に。俺は今忙しいんだよ」
店長は忙しいと言うが、どこからどう見ても、給仕のメイリーさんと業務に関係ないことを喋っているだけだ。店長は彼女のことを気に入っているので、暇さえあれば愛を囁くようなことを言っている。
「……わかりました。では、後で」
仕方なくその場を離れ厨房に向かうと、店長とメイリーさんはくすくす笑って、「空気読めないよなー」などと話していた。これも、いつも通りだ。
(退職の話は、後にするか。でも、閉店後も店長はメイリーさんと喋っていることが多いし、同じことになりそうな気もするけど)
とにかく、なんとか今日中にタイミングを見計らって、退職したい旨を伝えないとな。引継ぎなどもあるし、意思は早めに伝えておくべきだろう。
そんなふうに考え、いつも通り働いていると――
「おお。今日は珍しく客の入りがいいな」
開店後の昼下がり、いつもはガラガラの店内が賑わっていて、店長は満足げだった。
辞めようと思っている店とはいえ、たくさんのお客様に自分の菓子を食べてもらえることは俺も嬉しいし、辞めるからといって手を抜くつもりもない。
気合いを入れて、朝に仕込んでおいたのとは別の、追加の菓子を作るべく保管庫から新しい材料を出す。ボウルに卵を割り入れて――
「……あれ? あの、店長」
「ああ? なんだよ」
「この箱の卵、腐っているようなので処分しますね」
試しに、同じ箱に入っていた卵をもう2、3個と割ってみたが、どれも状態が悪い。これと同じ箱のものは、全部腐っているだろう。
「いや、そのまま使え」
「――はい?」
何を言っているのか、聞こえはしたのに頭で理解できず、目を見開いてしまう。
だが店長はまったく悪びれることなく、舌打ちをして面倒くさそうに言った。
「状態が悪い分、通常より激安で仕入れられる市場を見つけてな。経営が苦しいから、仕入れはそこを使うことにしたんだ」
「そんな……安いからといって、いくらなんでもこれはないですよ。完全に腐っています」
「どうせ菓子にしちまうんだから、多少腐ってたって、わかんねえだろ。焼いちまえば大丈夫だって」
「大丈夫なわけないでしょう! お客様が体調を崩されたらどうするんですか」
「なんだ、その態度は! 大体うちの店が繁盛しないのは、お前の腕が悪いからだろ。お前のせいで売上が悪いから、仕入れの値段も抑えなきゃならないんだ。全部お前のせいだろうが!」
「……っ」
俺の腕が悪いから。以前なら、そう言われて何も言い返せなかったかもしれない。
(だけどレティー様は、俺が作ったケーキを、おいしいと言ってくれた。レティー様は……俺の菓子職人としての腕を、必要としてくれた)
ぐっと拳を握りしめ、強い意思を持って店長に視線を返す。
「今、それは関係ありません。とにかく、明らかに悪いとわかっているものを、お客様に食べさせるわけにはいきません」
「お前、店長である俺に逆らうのか!? 俺に従う気がないなら、辞めちまえ!」
「はい、辞めます」
はっきりとそう伝えると、店長は驚いたように目を丸くしていた。
(……辞めちまえと言ったのは、そっちなのに?)
すみません以外の言葉なんて想定していなかったみたいだ。俺なら何を言っても辞めないと思っていたのだろう。俺としては、こちらから辞めますと言う手間が省けて、むしろ助かったが。
「ああ、といっても、退職は1ヶ月後にしようと思いますので。その間に新しい職人を雇ってください。レシピや道具の保存場所など、引継ぎの資料は作っておきますので」
退職はおそらく1ヶ月後になるということは、レティー様にもお伝えしてある。
酷い扱いを受けたとはいえ、ここは獣人である俺が、奇跡的に(店主は俺のことを、獣人だとまったく知らなかったとはいえ)今まで働かせてもらった店だ。引継ぎもしないまま辞めるという不義理な真似は、さすがにしないつもりだった。
「お、おい待て! 売り言葉に買い言葉でそんなことを言っているんだろうが、辞めてどうするつもりだ? どうせ行き場なんてないだろう」
「いえ、次の就職先はもう決まっています。朝、話があると言っていたでしょう? あれは、退職したいとお伝えするつもりだったのです」
「な……お、お前なんかが……っ」
店長は、圧倒的に格下だと思っていた俺が、既に転職先を決めていたことが気に食わなくて仕方がないのだろう。怒りで顔を真っ赤にし、わなわなと震えている。
「そんなにうちで働くやる気がないなら、今すぐ辞めろ! ただし、払うはずだった先月分の給料は払わないからな!」
次回以降ざまあ展開の予定です!




