ひふみ央(おう) v0.02
この世界と良く似ているが実は非なるもの――
これはそんな五十界の物語。
『ひふみ央(おう)』 はあくまで五十界が舞台の、架空とされる話である。
※本作は以前の投稿作に加筆・修正を加えたものです
ひふみ神示の世界・宇宙観は以下の様なものである。
天の大神・元津神・スの神と呼ばれる大神様(→一神)が存在し、我々の宇宙も大神様の中に存在する。
大神様は万物の生みの親で、万物には神の魂が宿る(→汎神)。
大神様の働きが諸々の神様として現れる(→多神)。
「太一二(オーヒツキ)大神としてのこの神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ。その働きの名がもろもろの神様の名ぢゃ。無限であるぞ。このほう一柱であるが無限柱ぞ。総てが神であるぞ。一神ぢゃ。多神ぢゃ。汎神(ハンシン)ぢゃ。総てが神ぢゃ。喜びぢゃ」
「生めば生む程、自分新しくなり成り、大きくなる。人間は大神のウズの御子であるから親のもつ、新しき、古きものが そのままカタとして現れゐて、弥栄えてゐる道理ぢゃ。人間の総てに迫り来るもの、総てを喜びとせよ。努力せよ。モノ喜ばせばモノは自分の喜びとなり、自分となる。心の世界は無限に拡がり、生長するのであるぞ。神にとけ入って宇宙大に拡がるのであるぞ。神と共に大きくなればなるほど、喜び大きくなるのである。一神説いて多神説かんのもかたわ、多神説いて一神説かんのもかたわ、一神則多神則汎神である事実を説いてきかせよ」
ひふみ神示では、大神様が万物の親神様として中心に座す。
故に、我々人も全員家族の様なものだ。
”他人行儀”ではないのである。
「人民は土でつくったと申せば、総てを土でこねてつくり上げたものと思ふから、神と人民とに分れて他人行儀になるのぞ。神のよろこびで土をつくり、それを肉体のカタとし、神の歓喜を魂としてそれにうつして、神の中に人民をイキさしてゐるのであるぞ。取り違ひせんように致しくれよ。親と子と申してあろう。木の股や土から生れたのではマコトの親子ではないぞ」
今の世界は、ピラミッドの上層部が下層の者を平気で切り捨てる。
それが当初からの計画であったかの様に、正に”赤の他人”だ。
おそらく、それが”裏のやり方”で「ひっくり返して表のやり方すれば、それでよい」のだそうだ。
”表のやり方”が『ひふみ神示』にことわけて書かれている。
「神示うつして下されよ。世界にうつすことよろこびぞ。地に天国うつすことぞ。六ヶ敷いことないぞ。今の裏のやり方、ひっくり返して表のやり方すれば、それでよいのぢゃ」
(続き)
それでは、ひふみ神示の”表のやり方”を記す。
以下は”天国の政治”に関するものである(ひふみ神示 第十七巻 二日んの巻(ジシンの巻) 第十九帖 (三九六)より)。
「(前略)また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る。故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである」
おそらく、これは「統治者は団体の事を最優先する」なのだろう。
「(前略)天国に於ける政治の基本は、以上の如くであるが、更に各家庭に於ては、同一の形体をもつ政治が行なわれている。一家には、一家の中心たる主人、即ち統治者がおり、前記の如き原則を体している。またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く」
家庭においても、「中心に”一家を最優先に考える”主人があり、家族も”それを十分承知している”からこそ、主人をよく助ける」のだろう。
おそらく、これが本来の”おう”と人々のあるべき姿だ。
「何も分らん枝葉の神に使はれてゐると気の毒出来るぞ」
上記の神示は、人々を”赤の他人”として平気で切り捨てる、今の世界の”裏のやり方”を示唆しているのかも知れない。
(続く)
「お久、以象だ。どうやら、作者が神示に関して大変な取り違いをしていたらしく、作品制作の方針転換があったらしい。全く迷惑な話だw」
そして相変わらず、この作者は「腹がへっては話が書けぬ」らしいw。
食事時に良くアイデアや展開が浮かび、執筆中wは特に腹がへるのだそうだ。
生活費にさえ困窮している癖に、それでは”あべこべ”だ。
俺的には全然暴れ足りないがw、致し方ない。
ただ、出番が全くないという訳ではないらしい。
だから、貴徳な御仁は作者を緊急支援してやってくれ。
以象、たってのお願いだw。
そんな貴徳な御方様への秘文がこれだ。
0036 201 2091403
以象