3.大きくなれってそんな無茶な
「あるじぃ…死んじゃやだあ」
壱月がお月様みたいな瞳からポロポロと涙を流している。
「大丈夫だから平気だよ」などと慰めてやりたいのだがーーーーーーー
「アブゥ…けほっ」
喉が裂けるように痛い。全身が熱い。困ったぞこれ。
「あるじぃいいい!!」
…うるさい。こっちは病人なんだからせめて静かにしてくれ。
顔全体をしわくちゃにして不機嫌アピールをしたが、壱月が余計に泣いただけだった。
さて、どうしたものか。
今の陽英に必要なのは、暖かい寝床と母乳。
普通の赤ん坊にしてみれば当たり前のものだがーーーーーーー
…壱月と一緒じゃあ村には入れないしなあ。
ひっそりと内心ため息をつく。先ほどの出来事を思い出してしまったのだ。
窮奇の亡骸を壱月が埋葬した後、二人は今後の暮らしの拠点を探すことにした。
「主の元いた村に行けばいいよ!」
壱月があまりに無邪気にいうので陽英は否定できなかった。
村社会において生贄になった陽英と窮奇である壱月の居場所などないのではないかと思ったけど、杞憂かもしれない。異世界なのだから、陽英のいた日本とは常識が違うのかも。
まだ子虎で翼もうまく使えない壱月が元気よく村の方へとかけていくのを静かに見守った。
…今思えばこの辺りで水でもなんでも先に探しておくべきだったのだろう。
陽英は赤ん坊を舐めていたのだ。ちょっと外気に晒され続け、1日ほど食事を抜かれただけで、ひどい高熱が出るなんてちっとも予想していなかった。
太陽が西に傾き出しても戻ってこない壱月。
熱くなってきた身体。
…体調不良と不安によるストレスにより、赤ん坊らしく陽英がぐずっていると、遠くでトテトテと何かが近づいてきた。
一瞬軽々した陽英だったが、現れた銀の毛玉を見て心底安堵した。
…やはりというかなんというか、壱月の表情は晴れなかったのだが。
「ーーーーーーーあるじぃ、ごめんなさい…村、入れないみたい」
戻ってくるなり壱月は耳を伏せ、顔も伏せ、心底申し訳なさそうに言った。
この時点では自分のことでいっぱいだったのか、顔を真っ赤にした陽英の異常には気づいていない様子だった。
陽英はやっぱり「しゃべる翼の生えた虎」は受け入れられなかったかと思いつつも、詳しく事情を聞こうとしたのだがーーーーーーー
「けほっ…けほけほっ」
ひどく咳き込んでしまい、念話を飛ばすこともできなかった。
そして冒頭に戻るのだ。
「嫌だよお、あるじぃ、元気になってぇ」
ぐすんぐすんと泣く壱月は可哀想でとても可愛かった。
正直、「泣いてないで水とか取ってきて」と思わないこともないのだが、まだ5歳だというのに、母親を殺された翌日に人間の村まで往復してくれた壱月に、これ以上無理をさせるのは酷だった。
暗くなっていく周囲。
気温も昼間と比べれば随分下がってきた。
赤い顔のままクシュん!とくしゃみをすれば壱月が必死に寄り添って熱をくれる。
だが、このままではいけないと陽英は強く思った。
自分たちはまだ幼いし未熟すぎる。
…早急に大人の庇護が必要だった。
【誰か、助けて】
朦朧とする意識の中で、陽英は無意識のうちに救援信号ともいえる念話を飛ばしていた。
…まさか応答があるとは思わなかったのだが。
【この妖力はオウキのもの…どこにいる?何があった?】
頭に響いた声は低く落ち着いた男性のものだった。
流れ込んだ妖力は迸るように熱く、それでいて邪気のない真っ直ぐな性質をしていた。
ーーーーーーーこの人は、信じられる。
一瞬で判断した陽英は声の主に向かって「キュウキの棲家。洞窟の入り口」と可能な限りの状況を伝える。
【窮奇の住処?なぜそんな場所に…まあいい、近いのですぐに到着する】
念話が途切れーーーーーーー一焼香ほどの時間が過ぎた。
ピ〜ヒョロヒョロヒョロ…
突如、和笛の音がした。
壱月が驚いたように身を起こしたときーーーすでに陽英の前には人影があった。
夕暮れを背負った青年は陽英だけを真っ直ぐに見下ろした。
「ーーーーーーーこのような辺鄙な場所に私を呼んだのは、貴方様で間違い無いですね?」
落ち着いた様子で問われ、陽英は必死に頷いた。
何もないところに急に現れたこととか説明を求めたいし、いささか語り口にも毒を感じるが気にしていられない。
陽英は慌てて口を開きーーーーーーー「けほけほっ」と再び咳き込んでしまう。
青年の対応は素早かった。
「失礼します」と短く言って、陽英の脇にしゃがみ込み、額にそっと手を当てた。
青年の手は冷たかった。陽英の熱が高すぎるだけかもしれないが。
…綺麗な顔したお兄さんだな。ちょっと神経質そうだけど。
そんなことを思いながらボケっと青年を見上げていたらーーーーーーー
「主に触るな!」
急に牙を剥いた壱月が青年に向かって体当たりをかまそうとした。
「風」
青年は視線すら向けることなくーーーーーーー蝿でも払うように右手を振った。
すると、見えない壁にぶつかったように壱月が跳ね返される。
オウ、そこに何があるのかな!?バイオレンス人外プレイやめて。
って、壱月つまづいた!?崖から落ちそうなんだけど!?
ちょちょちょちょ!!!そのまま倒れ込んだらっ!!!
陽英は慌てた。
そして訳もわからないまま自分の中で回転している熱を解き放った。
落ちちゃうから!ストップストップ!!
陽英から伸びた金の蔓が宙に投げ出されていた壱月を捕まえた。
「あるじぃいい!!」
壱月が興奮のあまり暴れるものだから蔓に絡まって少々苦労したがなんとか無事落下は防げたらしい。洞窟にポトリと落とされた壱月が元気に飛び跳ねていた。怪我はなさそうだ。安心安心。
…昨日も見たけどこの金色の光なんなんだろう?今のところお願いすればいい感じに答えてくれるけど。
陽英がうーんと考え込んでいるとーーーーーーー惚けるように陽英を見つめていた青年がコホンと一つ咳払いをした。
「ーーーーーーー申し遅れましたが、私は烏天狗族の炎と申します。貴方様は、ぬらりひょん様で間違い無いですね?」
陽英はじゃれついてこようとして再び見えない壁に阻まれた壱月をハラハラと見守っていたのだが(彼に学習能力はなさそうなことがわかった)、不意に名前を呼ばれて視線を戻す。
【そうですけど…なぜ私の名前を?】
陽英が念話で答えれば、少しだけ驚いたように眉を持ち上げた青年。
目の前で赤子がしゃべることにはやはり違和感があるらしい。
即座に元の笑顔に戻ったが。
【見くびらないでいただきたい。王魂を持ち、妖力を自在に操り、しかも人型を取る…阿呆でもぬらりひょん様だとわかりますよ】
…阿呆でもわかるんだ。私だったらわかんないけど。異世界の常識って謎だな。
陽英はいつも通り「なるほど」などと適当な相槌を打った。悪い癖である。
それにしても…どうしたものか。
烏天狗とか堂々と名乗ってくるくらいだし、身につけている着物風の服も上等なものに見えるし、庇護者候補としては結構いい線いってると思うんだけど…。
陽英はこの青年を信じていいのか迷っていた。
炎と名乗った彼は恭しく頭を下げてはいたのだがーーーーーーー緩く持ち上げられた口元とは対照的に、下から見上げた赤い瞳には、冷たい光が宿っていた。
うわあ、典型的な目が笑ってない人だ。と陽英は思った。
ついでに壱月への当たりが強いことも気になる。
「フウ」とか言って虫のように壱月を吹っ飛ばした場面を陽英はしっかりと見ていた。子供に冷たいやつはクソ野郎と陽英の中では相場が決まっている。念話から受けた第一印象はいい人かと思ったが見当違いだったようだ。うん、百聞は一見にしかずってね。
よし、ここはお断りして、違うひとをーーー
【寒空の下延々と語り合っていても仕方ありません。…我が一族の村へ案内します】
いや、断ろうと思って…
【何かご不満でも?ーーーーーーーああ、そこの愚図も仕方ないので連れて行きしょう】
それでいいですね?と笑ってない目で問われーーー
陽英は気付けば頷いていた。質問にはとりあえず頷く悪癖がまたもや発揮された瞬間だった。
「あうう…」
「ご快諾いただけて何よりです…駄犬、行くぞ、遅れるなよ」
炎はいっとう優しい手つきで陽英を抱き上げた。
炎の紫に染め上げられた着物からは檀香の香りがしておじいちゃんの家を思い出す。
…まずい、意識が落ちる。
抱き上げた途端寝入ってしまった赤子を無表情に炎が見下ろした。
そして、口元に浮かべていた笑みさえ消しーーー絶対零度の視線を壱月に向ける。
壱月は吠え掛かろうとした姿勢のまま固まった。
本能で目の前の鴉天狗が強者だと理解したらしい。
「ーーーーーーーなぜお前のような四凶の中でも最弱の愚図が壱の名を頂いている?…許し難い、ご命令がなければ風の刃で切り刻んでやるのに」
炎は低く呟きながら、放るようにして熊手の団扇を壱月へと投げた。
紅葉のように落ちてきた団扇を反射で加えた壱月。
熊手の団扇を壱月が受け取ったのを確認し、炎が片手で和笛を構えた。眠っている陽英を抱く手つきはどこまでも優しい。
ピ〜ヒョロヒョロヒョロ…
和笛の音が一際大きな風を呼んでくる。
旋風の渦が収まった時には、洞窟の入り口には誰一人として残されていなかった。
◯△□
目覚めた時、陽英の視界に入ってきたのは黒塗りの天井いっぱいに金箔で描かれた文様だった。お腹まで被せられている空気のように軽い赤い毛皮はびっくりするほど暖かいし、着せられた産着の手触りもとんでもなく滑らかだった。紫色に染め上げられているが、高級感のある光沢といい絹とかじゃないんだろうか。赤ん坊にこんなもの着せてどうするんだ。汚しでもしたら弁償できないよ?
…今度はお金持ちっぽい場所にいるなあ。
天井に描かれた松や鶴、牡丹に菊。博物館でしか見たことがないような精巧な装飾に圧倒され、赤ん坊らしい黒くて大きな瞳をぱちぱちとしていたら…近くにいた初老の女性が「まあ」と華やいだ声を上げた。
「お目覚めだわ!…急いで炎様を呼んでこないと」
早足で去っていく足音。
程なくして締め切られているはずの室内にふわりと風が吹く。
ーーートン。
急に現れた炎に陽英は心臓が止まるほど驚いた。
実際に「うきゃ!」という声もあげてしまった。
「お体の具合はいかがでしょうか?」
炎曰く、陽英はほぼまる3日寝ていたらしい。
授乳は受けてたみたいだけどね。おしめ交換くらいじゃ起きなかったらしいよ。
【…この身体は体力がないのでしょう。早く大きくなりたいものです】
陽英は恥ずかしさを必死に隠しながら念話を送った。
…べ、別にイケメンの口から「おしめ」とか言われて恥ずかしくなった訳じゃないし!!
【その、色々としてくださったみたいで、ありがとうございます…それで、ここはどこなんでしょうか?】
炎は「当然のことをしたまでです」と無表情で首を振り、再び取ってつけたような笑みを浮かべた。
…もうその顔するくらいなら無表情のままでいいよお。逆に怖いから!
「ーーーーーーー私の顔に、何か?」
【笑顔が…】
「…笑顔?」
…これ言っちゃっていいのかな?でもほぼ初対面の人に失礼なんじゃ…
「はっきり言っていただけますか?勿体ぶられるのは嫌いです」
ヒエ!
【笑顔だけど目が笑ってないから、その、無理して笑わないでもいいのにって思いました】
瞬間、炎の頬が凍りついた。
陽英のこめかみを汗が流れた。沈黙が痛い!
「…宗家の嫡男である私にそんなことを言ってくるものは初めてですね。…なるほど、これが興味深いという感情か」
ふむ、とすんなりとした顎に指を添えた炎。
陽英の内心はヒヤヒヤである。言われるがままぶっちゃけたが、失礼なことを言った気がしないでもない。
「あなた、面白いですね」
そう言って口元をほんの少しだけ緩ませた炎。
…今の顔は怖くないな、と陽英は思った。
「…話を戻します。ここは烏天狗一族宗家の暮らす屋敷の一室になります」
烏天狗一族宗家。
…パワーワードきたな。
【貴族的なやつですか?】
「…まあ、そうです」
ちょっと!?「そうです」って顔してないよ?違うことは違うって言ってもらわないと!
「…いえ、本当に何も知らないのだなあと」
無知ですみませんね。
「ククク。素直な方だ。ーーー烏家、九尾家、阿部家、漢字ではこのように書きます。陰陽御三家と呼ばれる一族です。貴族とは厳密に違いますが…妖力を持つものしか存在を許されない代わりに、国から支援を受けています」
机に置かれていた半紙に墨を使ってサラサラと文字を書く炎。
存在を許されない、という言い方が気になり少し尋ねたのだが…生まれた時に妖力がない時点で寺院に出されるらしい。
【そんな…母親は抵抗したりしないんですか?】
陽英が思わず突っ込んで聞けば、炎が長いまつ毛を伏せた。
「…陰陽師にとっては妖力が生きる全てですから。多くの母親は自身も陰陽師なので我が子に妖力がなければ見捨てます」
陽英が絶句していると…炎はなんでもないことのように付け加えた。
「妖力があっても、宗家では力のないものは追い出されますがね。…私のように」
ぽそりと呟かれた言葉は聞き逃してしまいそうなほどに小さくて、陽英は思わず炎を見つめてしまった。
今、追い出されるって言った…?
もっと詳しく聞こうと陽英が口を開きかけた時ーーーーーーー
ドタドタドタ!
大きな足音が近づいてくる。
な、何?
陽英が怯えたように目を瞬かせていればーーーーーーー目の前にいた炎が煙のように消えていた。
入れ替わるようにして障子が開かれる。
「これはこれは!ぬらりひょん殿!お目覚めではないか!!」
男は騒々しく部屋の中へと踏み入ってきた。
音もなく現れては消えていった炎との対比が凄まじい。
男は炎と似た濃紫の着物に身を包んでいる。青みがかった黒髪、筋肉質で大柄な体躯をしており、全身真っ黒に日焼けしていた。
…海の家とかにいそうだなあと陽英は思った。この世界に海の家あるか知らないけど。
【ーーーーーーー初めまして。お名前は…】
陽英が念話を飛ばせば、「うわあ!」と大袈裟に声をあげて後ずさった。
陽英が驚いたのがわかったのか、慌てたように腰を折る。
ーーーーーーー全ての動作が大袈裟すぎてどこか嘘くさく見えるのは陽英の思い込みだろうか?
「いやはや、これが噂の念話ですか。驚きましたよ。私は烏家次期当主の迅と申しまする」
深々と頭を下げられる。
しかし陽英は男の「次期当主」発言が気になってしょうがなかった。
先ほどの炎の言葉が思い出される。嫡男だというのに家から追い出されそうになっていることと目の前の「次期当主」の男は関係があるのだろうか。
陽英が一人考え込んでいるとーーーーーーーにこやかな顔のまま、迅がこんなことを言い出した。
「それでぬらりひょん様。こちらにきていただいたということは…烏家から名付きの配下をお選びになるということでよろしいのでしょうか?」
…?
陽英は話が読めないまま、【はあ】と気のない相槌を打つ。
…迅のこめかみが少し動いた気がしたのは見間違いではないだろう。
「勿体ぶらなくてもいいでしょうに。ーーーーーーーああ、少々話が難しすぎますか?もしぬらりひょん様がお望みであればこの迅めが烏家の中から選りすぐりを連れて参りますがーーーーーーー」
すごいしゃべるなこいつ!!
陽英は圧倒されてしまい、怒涛の勢いで言葉を並び立てる迅の前で「はあ」としか相槌を打てなかった。
わかったのは烏家だけでなく他のにも次期妖怪王(笑)の私の配下になりたい家があるという新事実だった。こんな赤ちゃんについてくなんて正気か?と私なら思う。でも九尾につきたくない妖怪たちは私の方に来るしかないらしい。なるほど、あのお姉さん(推定2000歳)ちょっと怖かったもんね。常に体真っ二つの恐怖と赤ちゃんかの二択か。なかなかにシビアな選択だね。
迅の話に割り込むことはできない陽英だったがーーーーーーー
「では私が選んできた中から名付きの配下を選ぶということでよろしいでしょうか?」
などと勝手なことを言われた際には「いえ、自分で決めますので放っておいてください」としっかり言い返すことができた。
いつもの悪癖を発揮しなくて本人も大満足である。迅の笑みが固まったのが少しおかしかった。
「…今日はこの辺でお暇しまする。ーーーーーーー先ほどの話、ぜひ前向きにご検討ください」
バタン!ドタドターーーーーーーと来た時と同じく騒々しい調子で迅が消えていった。
…なんだか嵐みたいな人だったな。
陽英がはあ、とため息をついた時…
「ーーーーーーー迅の配下から、選ぶんですか?」
突如として横から声が降ってきて、もう心臓が口から飛び出すかと思いましたとも。ええ。
迅と入れ替わりで炎が戻ってきたようだった。無音だった。かんっぺきに無音だった!
【……うるさいのも静かすぎるのも、足して二で割ってくれませんかね!?】
陽英は思わず叫んでしまったが、「足して二で割る」という言い回しはこちらではメジャーではなかったようだ。「面白い言葉ですね」と言われてしまう。違う、皮肉であって感心して欲しかったわけじゃない。
「それで、どうなんです?やはり、迅の配下から…」
どことなく落ち込み始めた炎。
陽英は慌てて「選ぶとは決めてません」と答えた。
…どちらかというと選ばないと決めかけてるよ。なんだか見下したような態度だったし。あんまりいい感じのする人じゃなかった。
陽英の返事にーーーーーーー炎があからさまにホッとした顔をした。
そして、少しだけ唇をむずつかせた後…陽英の小さな手を包み込むようにして言った。
「…まだお決めでないのなら、私も選択肢に入れていただきたい。これでも風の術は得意です」
突然の申し出にぽかんと口を開けた陽英。
そんな彼女を静かに見下ろしーーーーーーーずっと部屋の隅で控えていた乳母に言付けを残したあと、きた時と同じように煙のように消えた。
えっと…?炎も私の配下になりたいの?なんで?
この家の人意味わかんない…と頭を悩ませていたら瞼が落ちてくる。
あう…このぬくぬくの布団がいけないね。
目覚めた時、あたりは暗くなり始めていた。
陽英が起きるのを待っていたのか、乳母がよってきて授乳や入浴を手伝ってくれる。
ーーーーーーーお布団も気持ちいし、お世話もしてくれるし。もし望まれてるなら配下を選んでもいいなあ。
胃袋から全てを掌握された状態の陽英はチャプチャプとぬるま湯をかけられながらそんな風に思った。
身も心も満たされた陽英は再び目を閉じかけーーーーーーーはっと気づいた。
【ちょっと待って!?壱月どこいった!?】
…陽英の声は念話とはいえ非常に大きかったからだろう。
湯を片付けていた乳母が思わず、と言った調子で吹き出している。
そのまま乳母は立ち上がると陽英を抱き上げた。
陽英が驚いたように見上げれば、キュッと目尻を下げて笑ってくれる。
「炎様から言付けを預かっていますよ。陽英様が壱月様と会いたいと言った時には直ちにお通しするように、と」
なんだよ、壱月のこと吹っ飛ばしてたから嫌いなのかと思ったのにそうでもないのか?
乳母に揺られながら陽英は屋敷の奥へと進んでいく。
…烏家はとても広いことがよくわかった。敷地面積的には学校より広い気がする。
時折すれ違う人々にギョッとされながらも奥へ奥へと進んでいきーーーーーーー角の一際大きな部屋に連れてこられた。そのまま乳母は障子に手をかけたのだがーーーーーーー
「窮奇を部屋に入れるなど何を考えている!?今すぐつまみ出せ!」
ーーーーーーー中から聞こえてきた争い声にギョッとする。
慌てた様子で乳母が「出直しましょう」と言って引き返しかけたが、【そのまま動かないでください】と引き止めさせてもらった。
…うちの壱月を悪くいうのはどこのどいつだよ!声と声量でなんとなく予想はついてるけどさ!
帰りたそうな乳母には悪いが、手をブンブン振ってできるだけ障子に近づいてもらう。
中から聞き慣れた静かな声が漏れ聞こえてくる。
「ーーーーーーー迅殿。その辺に…あの、外に気配が…」
「何を寝ぼけたことを言っている!夜間はこの辺りは無人だろう!」
「今は客人がいるではないですか。というかこちらの窮奇も壱の名前を陽英様からいただいている客人であって…」
「なんだって!?あの赤子は生後そこそこ数日だろう!?なぜすでに配下がいるのだ?」
「ーーーーーーーあの九尾に対抗すべく生み出された存在です。我らの想像など超えた力を持つのは間違い無いでしょう。…あの、迅殿、話し合いはこれくらいにしてーーー」
「いーや、納得いかん。お前の考えた出鱈目だと言われた方がよっぽど信憑性が高い。ほんの赤子が最弱とはいえ四凶の野生の窮奇と契約した?ありえんし、先ほど会った時も気弱そうでーーーーーーー」
「うおっほん!うおっほん!ああ、喉の調子が…迅殿、話し合いはまたにしましょう。…花!何か用か?気のせいでなければ陽英様の気配がするのだが」
めちゃくちゃわざとらしく悪口を止めたね!!
盗みぎいてるのバレてたか。…音もなく現れたり消えたりできるし、気配も読めるし、どう見ても炎の方が優秀そうなのに、なんで迅が次期当主とか言って偉そうなのかな?
花と呼ばれた乳母が真っ青になりながら障子を開けた。
ーーーーーーー引き止めてごめんて。でも赤ちゃんだから一人じゃ盗み聞きできないの。許して。
現れた陽英を見て、迅が真っ赤になった後で真っ青になった。
うん、しっかり聞いてたからね。「気弱そう」って言ったの忘れないよ?
…気にしてんのに!!!赤ちゃんからも滲み出る気弱そうなオーラってなによ!!
「炎よ…お前、計ったのか?」
「言いがかりはやめていただきたい。陽英様は好きなように屋敷の中を移動できる権利をお持ちだし、私は何度もお止めしただろう。ーーーーーーー立ち去られるが良い」
迅はチッと大きく舌打ちして去っていった。
…もう取り繕うのもやめたのね。こわいこわい。
ぱあん!と音をたてて締められた障子。
部屋に気まずい沈黙が落ちる。
「ーーーーーーーねえ、炎さん、あのこわいおじさんいなくなった?」
奥の屏風の影から銀色の顔が半分だけ飛び出し…すぐに陽英に気づいたらしい。
「主!」
元気よく飛んできた壱月。
ああ可愛い!でもその勢いのまま飛びつかれたら…
「風!ーーー壱月は何度言えばわかるんだ!人間の赤子は脆くて弱いんだ!」
見えない壁に阻まれて後ろへ転がる壱月。
完全にデジャブである。「いたあ」と言いながら壱月はぶつけた頭を振っている。
…もしかしなくても、崖の上でも興奮した壱月から陽英のことを守ってくれてるつもりだった?
よくよく思い出してみれば、壱月が崖から落ちかけたのも地面の石につまづいてたからだった。
陽英の予想を裏付けるかのように「炎さんひどい」と壱月が親しげに炎に寄っていく。
炎は虫でも払うようにシッシ!と言ってはいるが実際に危害を加える様子はない。
「あーう?」
壱月?と呼ぶつもりで声を出せば、銀の尻尾がピン!と天に向けてたてられた。
そのままこちらへ駆け寄ってくる壱月。
「あるじ久しぶり!会いたかった〜!」
ゴロゴロと喉を鳴らしながらもふもふと頬を擦り付けられる。
ああ、今日も壱月が可愛い。
【来るのが遅れてごめんね。ずっと寝てたんだ。壱月はどうしてた?】
何気ない調子で聞いたのだがーーーーーーー視界の隅で炎が頭を抱えたのが見えた。
「えっとね、初め藁と薪のいっぱいあるところに閉じ込められて、棒みたいなので叩かれそうになったんだけどーーー」
あ“?おいコラうちの可愛い壱月に何してくれてんの?顔と名前がわかったら血祭りにーーー
「すぐに炎さんが気づいて助けに来てくれた!みんなが僕のこと屋敷にいれるなって言ったんだけど、炎さんがじゃあ自分の部屋に入れるって言ってここに連れてきてくれたの!」