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2.おぎゃあ

待て待て待て待て。妖怪王ってなに?ぬらりひょんって何?人の名前を微妙に縮めて新種の生物みたいに呼ばないで欲しいんだけど!!


陽英(ひよん)が妖怪に関する知識を一切有していないことを白の美男は知らなかった。ぬらりひょんくらい当然知っていると思ってたのだ。思い込みとは怖いものである。


「ーーーオギャア!オギャア!…んむぅ?」


陽英(ひよん)の叫び声は声にならなかった。

代わりに喉から出たのはただの泣き声。


目を開けた時、視界は記憶にあるものよりずっとぼやけていた。

手も足も自由に動かないし、何だったら頭だって重たすぎて動かせない。

陽英(ひよん)が寝かされているのは藁の上のようで、白くて肌触りの良い木綿の布が巻き付けられていた。


「ーーーこの赤子を生贄として捧げまする」


弥生の晩にしては冷たい風が吹いていた。

村人たちの感情を殺した声が滔々と響いている。


「荒ぶる魂よ、沈まりたまえーーー」


陽英は自分の置かれた状況に混乱をきたしていた。無理もない、目覚めたら赤ん坊だったのだ。


これ赤ちゃんになってるよね?

そっか、転生って言われたもんね。

お母さんはどこーーーなどと呑気に考えていられたのはここまでだったが。


シュッ。

陽英のほど近くに置かれていた焚き火の炎が消え入りそうなほどに小さくなった。

北風が一層強く吹き、木々の枝が折れそうなほど大きくたわんだ。


ーーーバウゥゥゥゥゥ!


遠吠えが聞こえ、ずしんと重い音がして地面が微かに震えた。

次には獣の唸り声は耳元まで近づいて来ていた。

陽英は背筋を凍らせた。

周りの大人たちも一斉に口をつぐんでいた。


「…逃げろ!今すぐ退避だ!四凶が現れた!!」


陽英は唖然としていた。

周囲の大人たちが我先にと遠くへ駆け出したのが分かったからだ。

まさか置いていかれるなんて思ってなかった。陽英の常識では赤子を置き去りにして大人は逃げなかったからだ。

嘘だと思いたかったが、数瞬の間に広場からは人の気配が消えていた。

今すぐ陽英も彼らの後を追いかけたかったのだが、首も座らないような陽英にはできることなどあるはずもない。

陽英(ひよん)はぱっちりとした二重の瞳をきょときょとと動かしていたが…突然目の前に大きな影ができ、ぽかんとその小さな口を開けた。


ーーーぐるるるるる。


赤子らしいまろい頬に鋭く尖った牙が突きつけられた。

目の前に虎がいた。翼の生えた凄まじく大きな虎。

陽英は間近に並んだ牙を呆然と眺めていた。

まさかあいつの言っていた「はじめに出会う生き物」ってこれのことだろうか。

仲良くなれる気が全くしないのは気のせいではないだろう。というか今にもパクッと食べられそうだ。なんてこった。


陽英を今にも喰らわんとしていたのは「四凶」と呼ばれる異形の化物の一つ、窮奇(きゅうき)であった。

窮奇が現れると地震が起きた。

現れた窮奇を放置して怒らせれば津波が襲った。

人々は窮奇をはじめとした四凶が現れたときには必ず「生贄」を捧げた。


…もうお分かりであろう。村に窮奇が現れたその日に母親の胎から生まれた陽英は生贄に選ばれていた。


村人たちの事情など知るはずもない陽英だったが、自分の命が風前の灯であることだけは本能的に理解していた。

同時に先ほどまで会話していた白の美男への憎悪を募らせる。

確かに困難が多いとは言っていたが、せめて準備期間を設けるくらいの慈悲はないのか。

生後1日で化け物に食べられるとかジョークがすぎる。


陽英は心の中で恨み節を貫いていたがーーー生ぬるい息をかけられながら、目の前で大きな鼻を鳴らされてゲンナリした。

獲物はいい匂いだったのだろうか。目の前の虎がぺろりと舌なめずりをしたのがわかる。美味しくないからね、楽しみそうにしないでもらっていいかな?

…ここで恐怖ではなく呆れがくる異常さに陽英自身が気づいていない。


「あーあぅ…あーあ?」


…食べても美味しくないよと言いたかったのだが、全然ダメだなこれ。

ペチャりと生ぬるくて滑ったものが額にかかる。

不快で今すぐにぬぐいたいが、いかんせん手足が短すぎる。

陽英はすでに諦めかけていた。

説得もできない。赤ちゃんだから。

戦うこともできない。赤ちゃんだから。

逃げることもできない。赤ちゃんだから。


こんちくしょう!!!赤ちゃんやめたい!今すぐに!!!


翼の生えた虎がくわっと大きな口を開けた。

ああ食われる…と目を閉じた陽英だったが、持ち上げられたのは一瞬で、次には右腕に抱かれていた。


…虎の右腕に、抱かれていたのだ。


「???????????????」


はてなマークを浮かべた陽英を加えたまま、窮奇は器用にも3本の足で地面を蹴って飛び立った。

意外ともふもふとした毛にしっかりと抱きしめられた陽英は「食べるんなら早くしてくれないかな」とやさぐれた気持ちでいた。

飛行時間はさして長くなかった。山の岩場にある洞窟に連れてこられ、入り口の月明かりの届く場所にころんと転がされる。


べしゃ、と地面に伸びた陽英を窮奇はふんふんと嗅いでいた。

うつ伏せになった時に息ができないかも…と思っていたら湿った鼻で向きを変えてくれるサービス付き。

陽英が泥だらけになりながらも、なんとか死なない感じで横たえられたのを確認すると、窮奇は洞窟の奥へと消えていってしまった。


…あれ?食べないの?


てっきり人生終了のお知らせだと思ったのだが、窮奇に抱かれてしばらく飛行した陽英からは死の恐怖が消えていた。傷つけないよう優しく扱われているのが分かったからだ。


もしかしてちょっと育ててから食べようと思ってる?肉が増えてから的な…


自分の考えにゾッとしていると、のしのしという足音ともに窮奇が帰って来たのがわかった。

反射で身をすくめた陽英だったがーーー

ほど近くにで「ぺしゃ」という何か軽いものが落ちた気配がした。

そのものは陽英の方へと近づいてきてーーー


ぷにり。


…ぽっぺの上に、お手してきたんですが??????


陽英は突然現れたそれに目を奪われていた。

ほっぺを痛いくらいの力で押されても全然気にならなかった。

だって、だって、だって…


かっわいいな???え?子虎??


陽英のほっぺにお手をしてきたのは銀の毛並みに小さな翼の生えた虎だった。

色合いからも親子なのだろう。大きい方の窮奇は陽英たちの近くに寝そべってふたつのちっちゃいものたちのじゃれあいを眺めていた。


「あーう?」


陽英が頑張って腕を上げると、急な動きに驚いたのか子虎がピャッと後ろへ飛び退った。

陽英が構わずに腕を振り回していれば、恐る恐ると言った調子で抜き足差し足、近寄ってくるのだが。


わあ、めちゃくちゃ可愛い…ペットにしたい…


自分の置かれた危機的状況も忘れ、子虎が近寄ってくるのを眺めていた陽英だったがーーー


「キニ、いった?マモル?」


…急に言葉が聞こえて心臓が止まりそうなほど驚いた。

陽英が固まっているせいで聞こえてないかと思われたらしい。今度は頭の中に直接声が響いた。


【気に入った?守る?できる?】


陽英は必死に瞳を動かした。

ここに人がいるの?岩と虎しか見えないけど、どこかに隠れてる?


【聞こえない?ワタシ、キュウキ。650サイ。ハジメマシテ】


…首が動いたらすごい勢いで振り向いていただろう。

動かないのだが。赤ん坊なので。


650歳って言ったよね!?化け物なの!?あ、翼の生えた虎とか間違いなく化け物じゃーん。ハハハハハ。

窮奇の存在をもって異世界に転生してしまったことを再確認した陽英である。

願いのために神の頼みを承諾したが…早々に心が折れそうになっていた。


だって、命を助けるとか普通人間だと思うでしょ?

まさか、初っ端からこんな化け物…翼の生えた虎とかまで含むなんて思わないよ!!

助ける前に自分が食べられそうなんですが。私のことも誰か助けてもらってもいいですかね??

ねえ!神様!聞こえてますか!!情報伝達不足じゃないですか!?


【スキナモノハ、ニンゲンノニク。嫌いなモノハ、キツネ。…これは、ペンです】


…めちゃくちゃ物騒な自己紹介が聞こえてきたのだが、陽英は聞かなかったことにした。

そして「アレは、本です。ソレはりんごです」と事実無根の紹介を続ける窮奇にようやく話しかける気になった。


【聞こえてます…キュウキさん?言葉喋れるの?】


陽英は無意識のうちに「念話」の技能を習得していた。

ぬらりひょんの持つ潜在能力の高さから人から教わることもなく、使い方がわかっていたのだ。

生後一日の赤ん坊が念話を使いこなしている異常事態にもかかわらず、窮奇はホッとしたように尻尾をパタパタと揺らしていた。窮奇は四凶の中でもオツムが弱かった。650年生きても言葉が拙いのはそのせいである。


【オマエ、王魂(おうき)。すぐワカッタ。コドモ、キニイッタ?マモル?デキル?】


…だめだ。何を言っているのかさっぱりわからない。

陽英は「おうきってなんですか?」と聞いてみたのだが、「ピカピカ、金色、おうき」という要領を得ない返しをされただけだった。

ピカピカな金色の球を頭に浮かべながら陽英はなるほどね、と頷いた。

何もわかっていないのにとりあえず頷くのは陽英の悪癖だった。

あと「おうきだから食べられなかったんなら、これから食べられそうになったら『おうきだぞ!』って言ってみようかな。と見当違いなことを考えていた。

止めてくれるものは残念ながらこの場にいない。


【キュウキは子供を守って欲しいの?】


【うん。オマエ強い。おうきだから】


…また「おうき」である。なんのことなのか切実に説明が欲しい。キュウキと話していても、金ピカの球ってことしかわからない。


【オウキでも子供は守れないと思うよ?(金ピカの球持っててもねえ。しかも持ってないし。勘違いだし)】


【守れる。王魂強い。大丈夫。自信もて】


…意図せず励まされてしまった陽英は「あうう」と赤ん坊らしい返事を持って礼を返した。

お分かりだろうが先程から一切話が進展していない。通訳とツッコミ役が切望されている状況である。


ーーーキエエエエエエエエエエ!!


つんざく様な金切声が山の向こうで上がった。

続いて何千羽もの鳥が羽ばたくような音。


音を立てずに窮奇が立ち上がった。

小さな二つの生き物を庇うように立派な体躯で月の光を遮る。


【きつねキターーー時間がない、オマエ、契約しろ。子供、マモレ】


素早く命じられるが陽英にはさっぱりだった。

しかし悪癖を発動し「わかった」と頷く。当然、何もわかっていない。


契約って何!?子供を守る契約をして欲しいの??


陽英は混乱しながらほっぺを突いてくる子虎を見上げた。


「ーーーあうーう」


…この子を守る。私が守る。


ーーー陽英の身体が金色に発光し始める。

光は陽英の体を離れ、寄り添っていた子虎を包み込む。


あれっ!?なんかファンタジーな世界らしくファンタジーな出来事が起こり始めたよ??


【さすがだ】


陽英が混乱しているうちに、満足そうに窮奇が頷いた。

陽英は後戻りできなくなったことを察した。今更「なんのことだかわかんないです、調子乗りました」とか正直に言ったらパクッと食べられるだろう。


まずいまずいまずい。

こっからどうしよう。


陽英は内心だらだらと汗を流していた。

子虎は金色の光が気に入ったのか蝶でも追いかけるようにぴょこぴょこと跳ねている。

…お願いだからこっちに転んでこないでね!?赤ちゃんだから首ごとボキッとかありえるからね??


【時間かける、大事、ありがとーーーでも、今はイソゲ。ハヤク、名前つけて】


名前?え。私がつけるの??


【キュウキの子供なんですよね?私が名前つけていいんですか?】


【…アルジだけ。ナマエ特別。私にはない。ーーーハヤク、もうくる!】


名前!?急に言われても…

とはいえ、名前をつけるくらいなら陽英にもできる。そこまで熱望されるのならつけるくらいしてあげたくなるのが人情というものだ。


陽英は目の前の銀色の毛並みを夜空に輝く月を見比べた。

…この子は私がこの世界で一番初めに守ると決めた子。

白の神様も「一番初めに出会った生き物を大切にすることが将来私を救う」みたいなこと言ってたし、確実にこの虎の親子は私にとっても大事な存在。


「ーーー壱月(いつき)。私は壱月のことを必ず守るよ」


陽英が紡いだ言の葉は宙をたゆりながら金色に輝き、子虎の中へ近づいていった。

壱月と名付けられた子虎は少し匂いを嗅ぐような仕草をした後ーーー陽英を見つめたまま、ペタンと顎を地面につけた。

完全服従の姿勢だった。

陽英は何もわかっていなかったが、圧倒的に陽英に優位な形で従属の契約が結ばれようとしていた。


金光が溶けるように消え、陽英と壱月の間には目に見えないが繋がりができた。

窮奇である壱月は子供とはいえ膨大な妖力を宿していた。

突然流れ込んできた力の本流に陽英は戸惑いまくった。

…あくまで、戸惑っただけなあたり、陽英は疑う余地なく王魂だったのだが。


「くしゅん!」


あ、なんかムズムズしたの治った!

よかった、風邪かと思ったよなどと呑気に手のひらをにぎにぎしていた陽英。

…くしゃみ一つで四凶の妖力制御をこなして見せたのだが、この場にその異常性を理解するものはいない。

子虎はどんな主人をしばらく眺め、むずがるように背中をしならせた後でーーー「僕も、アルジを守るよ」と言った。


はい、こちらアルジ。

主…。主?

…今しゃべった!?


呆然としている陽英を守るかのように壱月が一歩移動した。

窮奇の親子が見つめる先ーーー数千羽のカラスの雲に乗った、金色の毛並みを持った狐がいた。


悠然と宙に浮かぶ狐は九本の尾を持っていた。

人は彼女を「九尾」と呼ぶ。

ーーー現世界最強と名高い九尾は、部下の不手際の始末で近くを訪れていたのだ。


出会いは偶然か、必然か。


陽英を視界に入れた九尾は自らの宿敵がついに現れたことを悟った。

…まさか、阿呆なことで有名な窮奇に先を越されるとは思ってなかったようで、いつも通りに見える悠然とした笑みは少しばかり引き攣っていたが。


「…窮奇は挨拶もなしかい?ーーー流石は人間どもの狗。礼儀が正しいようねえ」


ーーーめちゃくちゃ煽ってくるぞあのお姉さん!!

陽英は内心慄いていた。妖艶な美人の嫌味とか怖すぎる…


「こんばんは!九尾様!」


いやここで挨拶するんかい!

陽英はハラハラと九尾の出方を伺った。こんなのおちょくられてると思って逆上しても不思議ではない。

…陽英の予想とは裏腹に、九尾は呆れたように首を振っただけだったが。

窮奇の行動がどこか抜けているのはいつものことなのだろう。


「嫌味に決まってるだろう。このボンクラが」


九尾に舌打ちされた窮奇は不思議そうに「挨拶しろっていうからしたのに」と首を傾げていた。「もしかして窮奇って大物なのでは?」と陽英が尊敬の意味も込めて黒くて大きな瞳をぱちぱちと瞬かせていたらーーー(ぬめ)るような視線を感じた。

やめておけばいいのに、引きずられるように視線を移動しーーー滴るような殺意を纏わせた九尾の双眸に射抜かれた。


雷に撃たれたような衝撃が陽英に走った。


こふっと咳き込む陽英。

陽英は本能的に理解した。

あいつは敵であると。排除しなければいけない存在だと。


…王魂は一つしかいらないのだ。


陽英が仇敵であることなど九尾からすれば常識だったのだろう。

咳き込む陽英とは対照的に、泰然とした姿勢を崩さぬまま、垂れ目をすうっと細めーーー紅い唇を小さく動かした。


「平安の世から1000年以上待ったーーー逢いたかったわあ。ぬらりひょん」


猫撫で声と裏腹に向けられたのはまごうことなき殺意。

陽英は息を止めた。

死を間近に感じるしかなかった。

本人の言った通り、1000年以上を生きる九尾は赤子である陽英には荷が勝ちすぎていた。


「ーーー殺させない!」


…二者の視線に割って入ったのは壱月だった。

小さな体を精一杯大きくし、陽英を九尾の視界から守るように立った。


壱月ちゃん!!なんていい子!でもやめときな!あいつ多分べらぼうに強いよ!!

陽英が手を精一杯に伸ばして、壱月の尻尾を鷲掴みにしようとした時ーーー


「ふふふふふ」と鈴を鳴らすような笑い声が聞こえた。

同時に空気がスッと軽くなっていた。

陽英は知らずのうちに止めていた息をはあっと吐き出した。


「そんな威嚇しなくても、まだ殺せないのよお。…7つまでは神の子だからねえ」


ーーー神の子?どういうこと?


「あと7年…待ちましょう。なあに、1000年以上待ったんだもの。なんてことないわあ」


九尾はそれだけ言ってーーー帰ってくれれば、よかったのに。


「でも、坊やは別に殺せるわねえ」


「年長者を敬わないとダメよお」と言いながら九尾は紫色の鞭を発現させた。

壱月は震えていた。

九尾の殺気にあてられたのだ。指一本動かせずに、立ちすくむしかなかった。


「おい、九尾!ヤメロ!」


窮奇が子供を庇うように前に出た。

…ザシュっという風切り音と共に、血を吐いて倒れる結果になったのだが。


「あらら。もう死んだの?四凶とは思えない弱さねえ」


真っ二つに切られた窮奇を陽英は呆然と見ていた。

先ほどまで語り合っていたはずのものが一瞬で物言わぬ骸にされた。


「かあ、さん…?」


壱月の声に応えるものはいなかった。

地面に赤いものが侵食していた。

鉄の匂いが鼻をつく。

陽英は全身の震えが止まらなかった。


死んだように静まり返った場に、九尾の高笑いが響く。


「母親を殺されて絶望した顔!最高だわあ。うっとりしちゃう」


九尾は嗤っていた。

自分の手で生き物を殺めたことが快感でたまらないとばかりに全身を揺らして。


気持ちが悪い、と陽英は思った。

恐怖という言葉では生ぬるい。

得体の知れない存在への拒絶が全身を駆け巡る。


こいつと戦わなきゃいけないの?

無理じゃない?窮奇はすごく強そうだったのに、一瞬でやられた。

七歳になってから殺すとか言われたけど、それまでずっと怯えながら暮らさなきゃいけないとか…。


言葉を奪われたかのように九尾を眺める陽英の小さな右手に、不意に触れたものがあった。

銀色の丸い玉は陽英の耳元までゆっくりと上がってきて、ぱちんと弾けた。


ーーー守って。オネガイ。


今にも消えそうな拙い言葉。

すぐに誰のものかわかった。

同時に目が覚めた気がした。恐怖で麻痺していた五感が急激に息を吹き返す。


馬鹿野郎わたし。

こんな序盤から諦めてどうする。

忘れるな、わたしが諦めたら二度とお父さんにも、お母さんにも、妹にも会えないんだ。


…ここで見ているだけじゃあ、何も変わらないじゃない!


窮奇の死は無駄ではなかった。

陽英の心は「親」の死によって完全に切り替わった。


ーーー守る。目の前の命を、一つでも多く!


【壱月、命令。下がれ】


硬直していた壱月の体が糸で引かれるようにして陽英の後ろへ下がっていく。

視界が晴れてーーー陽英は紫の鞭をしならせる九尾と正面から対峙した。


…地面に寝っ転がったままなのでいまいち格好はつかないんだけどね!!


早く赤ちゃん卒業してえ〜と内心ごちりつつ、陽英は真っ直ぐに九尾を見つめた。


【壱月を殺すんなら先に私を殺せ。…私のものに勝手に手を出すな】


陽英の念話が飛んだ瞬間、九尾がこの日初めて笑みを消した。


「…今日生まれ落ちたのではなかったのか?赤ん坊とは思えぬ流暢な語り口ーーー自分を思い出す。やはりお前は紛うことない王魂ということか」


九尾は深い憎悪を持って陽英を見下ろしーーー奇妙な感覚に陥った。


「…なんだこれは?戦意が削がれるーーーまさか」


九尾の表情が激しく歪んだ。

しかし長くは持たずに穏やかな顔に変わる。


ーーーそんなことを幾度か繰り返し、九尾は大きな舌打ちをした。


「興が削がれた」


斬りつけるような殺気が消え、九尾が豊かな尻尾を大きく振った。

その合図で一斉にカラスたちが動き出し、九尾はあっという間にカラスに囲まれて見えなくなった。

緊張から解放された陽英は赤ん坊にできる精一杯の範囲でため息をついた。

ふは!くらいの短いものだったが。この体、肺活量が少なすぎる。


なんで逃げたの?私のことは殺せないって言ってたけどーーー最後の方、何か言ってたし。


陽英が九尾の消えた空を眺めていると…背後で「くうん」と小さく泣く声がした。

必死に頭を動かして声のした方を向く。


ーーー壱月が窮奇の亡骸に寄り添っていた。


物言わぬ母親の背中の毛に顔を埋める壱月の姿は陽英の心に深く刺さった。

他人事とは思えなかった。

泣きじゃくる妹の横で冷たくなった両親の手を意味もなく握り続けた晩の記憶は、陽英の中でいまだに生ぬるい血をふいている。


陽英は何も言葉を発しなかった。

ただ、黙って一対の獣を眺めていた。

謝罪も慰めも大した意味を成さないことを陽英はすでに知っていた。


赤子の体に引きずられ、うつらうつらとするうちに太陽が登った。

眩しさに陽英が目を開くとーーー寄り添うように壱月が寝ていた。


「うんにゃ」


陽英の口からは意味をなさない言葉が漏れ出る。

同時に手のひらに触れている壱月の毛をにぎにぎとした。

ほんのりと体温が伝わってくる。

朝起きて、横たわる彼の体が冷たくないことに陽英はひどく安堵した。

昨晩はなんとか守れた命。…前世も含めて、陽英が初めて守った命。


「むぅうう」


ーーー窮奇、聞こえてる?約束、とりあえずは守ったよ。


赤ん坊って不便だなあと陽英はまた思った。早く大きくなりたい。



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