蓼食う人々
蟻川善男は恋をしている。
相手は32歳になる小説家で、ペンネームを興呂木一二三といった。付け加えると女性である。
「女の人が名前にコオロギって…」
「きりぎりすと迷ったんだがよ、あれは鳴かないだろう」
「左様ですか。それより先生、今日こそ原稿は頂けるんでしょうね」
「あとちょっとだよ」
会話から滲み出るようだが、二人の間にそういう脈は全くない。興呂木は彼を小うるさくて世話焼きなバイトだと思っているし、事実、蟻川は彼女の原稿を会社に届けるアルバイトをしている。
「蟻川くん蟻川くん、すまないけど今日のお昼ごはんはオムライスがいいな」
蟻川が提供するサービスといえば、細々とした掃除洗濯、それから興呂木のリクエストに応じた料理である。業務外のそれらをハイハイとこなす蟻川をどう思っているのか。興呂木が口に出して言ったことはない。
「先生は、僕をなんだとお思いですか」
蟻川が文句を装ってそれとなく尋ねてみるも、
「まあ、そう堅いことを言わずに。頼むよ」
枯れ葉のような笑みを浮かべる興呂木にこう言われてしまっては、何も言い返せないのである。彼女の真意もわからないまま、毎日のようにせっせと作家の世話を焼く。蟻川は、自分がまるで興呂木に雇われた家政婦のように思えてくるのであった。
「ん__厶!美味い…マッシュルームが入っている」
「しいたけです、先生」
正午を過ぎて少し。念願のオムライスを口に運ぶ興呂木の後ろで、蟻川は書き上がった分の原稿を読んでいる。話の良し悪しについてあれこれ言うのは編集者の領分であるので、軽い誤字脱字を探すのが蟻川の休憩時間の使い方であった。
「え、うわ……」
「蟻川くん?なにか誤りがあったかい」
「……」
「蟻川くーん?」
「そんな、フラナガン…!」
「君、しっかり読んじゃってるんだねえ」
かねてより、少年は興呂木のファンである。小学生の頃から愛想のない装丁の本を持ち歩き、教室や公園のベンチで読み耽るほど、蟻川善男は彼女の書く話に惚れている。これから書き直す可能性があるとはいえ、世に出していない物語を先に読むことが出来る時間は、彼にとって天国であった。
「ごちそうさま。懐かしのケチャップライスと、かための卵がとっても美味しかったよ」
「お粗末様です。原稿、誤字に赤で丸つけてますから」
「あれだけ熱中しておいて流石だね」
「僕は先生のファンですから」
さらりと言って、原稿の代わりに皿を持って立ち上がる。その細い背中とワイシャツの襟を見て、興呂木は鉛筆を噛んだ。何も言わなくても働く姿をぼんやり見て思う。
__すっかり、蟻川くんの存在に慣れてしまった。
人に世話を焼くのも焼かれるのも嫌いだった興呂木は、今の自分の変わり様に笑いだしてしまいそうになる。
「手が止まってますよ。話が思いつかなくても、誤字くらい直してください」
「はいはい。学生さんをあまり拘束する訳にゃいかないからね。オムライス分は頑張るとするか」
「何食べたって頑張ってくださいよ…」
呆れたように言って、蟻川少年はワイシャツの袖をまくる。日に焼かずとも浅黒い腕には、アルバイトを始めた頃から、軽い火傷や小さな傷が増えた。
「蟻川くんは割とおっちょこちょいだよね」
「藪から棒になんですか」
自分のツメの甘さを理解している蟻川は、白けたように言ってザブザブと食器を洗う。大人びた横顔に、包丁で指を切って泣きべそをかいていた頃の面影は、欠片も見あたらない。大きくなったもんだと肩を竦め、興呂木は改めて原稿に向き合った。