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「アーズ、そんな辛気臭い顔すんなって。出国しちまったもんはしゃーねだろ?もうお前も腹くくれよ」
「殿下にはお分かりにならないでしょうね…私ひとりで貴方様の身辺を警戒しそして監視しなければならないだなんて……無理に決まっておりますのに……いつも何処かにすぐ行ってしまわれますのに…荷が重すぎでございます…」
祖国を離れ既に1時間は経っただろうか。火山の国へと向かう長距離列車の中、たたん、たたんというレールの振動に体を預けながら、殿下は目の前で項垂れる私を見て笑う。ちっとも自分にとっては笑い事ではないのに。
旅に出る、という彼の突拍子もない思い付きは宣言通り実行されてしまった。従者も衛兵も付けず、ほんとうにお忍びで遠くの国まで行くというのだ。そんな危険なこと国王や王妃は反対するだろうと思っていたのに、まさか代々1度だけ私的な離国を許す伝統があったなんて露ほども知らなかった。陛下は呼び出した私に、『いつもあの子のお守りを任せてしまって済まないね。今回も頼まれてくれるだろうか』と告げ笑いかけて下さったが、もしユーリ殿下に何かあれば、うちの一族は取り潰しにでもなるのではないだろうか。私がそういった不安に襲われているのを察してくださったのか、『心配しなくても、あの子は死んだりしないから』などと意味のわからな…いや、慰めを下さったが、武官でない私に何ができるというのか。
「ああそうだ、アズ」
「はい、なんでございましょう…」
「お前も分かっているだろうが、正直言ってお前は目立つ。お前の髪や瞳の色は国の外ではなかなか無い色だろうし、そもそも龍自体が珍しいからな。」
ターコイズブルーの瞳が私を見つめて言う。それはあなたも同じことでしょう、と言いたいのを飲み込んだ。彼は目立つ髪色でも瞳の色もないのに、妙に華があり鮮やかで簡単に人を惹きつけてやまない。小憎らしい限りだ。
ふあ、と大きなあくびをして、さも面倒くさそうに殿下が続ける。列車の揺れに眠たくなっているのかもしれない。
「…そんな目立つお前がそんな畏まった言葉を使って、こともあろうに俺を『殿下』と呼べばどうなる」
「まあ、目立ちますよね…」
「すごく目立つ、の間違いだろ。いいかアズ、この列車を降りた瞬間から……いや、今から。今から俺のことは『ユーリ』、と。それから敬語を外せとは言わんが、その謙譲語はやめてくれよ。俺の身の安全を思うなら、尚更だ。…お前は見た目以上に不器用だから、今から慣れておいて欲しい」
「…それは、」
「出来るだろ?」
そう言われてしまえば従うにほかない。殿下の言うことは最もで、まず我々の身元が割れることなど基本的にあってはならないだろう。それを思えば特殊な謙譲語や敬称は使うべきではなかった。だが、ムーリアスも貴族の端くれ。幼い頃から王の一族を敬うことを教えられ身につけていった敬語を簡単に外すことには抵抗を覚えるし、ましてや殿下のお名前を何の敬称も付けずに呼ぶなんてもってのほかだった。
「ええと、……ユーリ…様」
「……俺の話を聞いてたか?」
「…殿下は簡単におっしゃいますけどね!私が貴方様に対しそんな口の効き方を簡単に出来るとお思いですか!」
「ああ思ってるぜ。アズは丁寧だけど言ってる内容は割と不敬だし」
「ええっ」
そんなふうに思っていらしたんですか殿下。今までの私の献身をもってしてもそんな評価なんですか殿下。ちょっと納得いかないのですが殿下。
「多分今不敬なこと考えたろ」
「そそそんなこと」
「…ほんと俺、お前のそういうクソ素直なとこ好きよ。…なあアズ、お前は36年生きてきたわけだが、海を見たことがあるか」
「いえ、ございませんが」
唐突な話の転換に小首を傾げると、殿下がくすくすと笑った。彼が笑うと目尻が下がり、その冷たそうな印象をガラリと変える。
「俺もない。だから今回は海も見に行こうと思ってる。…だけど、俺が海を見るのは、きっと最初で最後だ。その後は、もう二度と見ることはないだろう。俺は王を継ぎ、国から自分の足で出ることは叶わなくなる。…なあムーリアス、忠実な俺の臣下、お前が俺を、俺という人格を少しでも愛してくれているのなら、生涯ただ今一度の友人ごっこに付き合ってくれ。幸い供はお前だけだ、誰も咎めはしねぇさ」
訥々と殿下は語った。
その瞬間私は思い出す、鮮やかで眩しくて、自由を体現したかのようなこの皇子が、本当はガラスケースの中に飾られる永遠の花のような存在でしかいられないのだということを。その声に滲んでいたのは淋しい覚悟と優しい懇願だ。俺を愛してくれているのなら、など。この人はこんな人だっただろうか?彼のこころはいつもいつもすべての重みから逃げているばかりの小さな子供だと思っていた。
「……殿下にそこまで仰らせてしまうなんて、お目付け役失格でございますね。…友達ごっこ、ですか。元々あまり友の多い方ではありませんから…うまく出来るかは分かりませんが、善処しましょう、…ねぇユーリ」
「…上出来だ」
私がそう言うと、殿下…いや、ユーリは頬を赤く染めてさも愉快そうに笑った。それが彼の照れ隠しなのだと長い付き合いでわかっていたが、敢えて何も言うまい。
目的地迄にはまだ時間があった。そわそわと柄にもない空気に耐えきれなかったのだろうユーリが鞄から地図を出して眺め始める。何が見たい、何を学びたい、何を食べたい何をしてみたい。そういったことを地図の地名ひとつひとつを示して話す彼にしばらくは相槌を打っていたが、昼の陽気と列車の振動に負けた私はうとうとと眠ってしまった。
ガタン!という一際大きな振動にはっと顔を上げると、出していた荷物を急いで鞄にしまうユーリと目が合う。そして同時に金属の擦れる大きな音がして、列車が止まった。
「随分寝てたな、アズ。もう着いたぞ?」
「へっ!?もう着いたんです?」
「ああ、ここが終点の火山国の首都。丁度起こそうかと思ってたとこだ。…早く降りる準備をしてくれよ、早く今晩の宿を探さねーと、野宿になっちまう」
眠たい目を擦りながら、膝に広げていたままの地図や筆記用具を鞄に詰めていく。他の乗客がぞろぞろと降りていくのを横目で見ていると、多くの人が魔道機械の手伝い…鳥や犬、子供のような形をとった機械に荷物を持たせたり手を引かせたりしていた。火山の国は魔道機械が特に発達する国。しかし、一般的な国民もこんな精密な魔道機械を扱うのかと改めて驚かされる。自分も学術を修めるものの1人、興味が無いわけもなく、その光景を食い入るように見てしまう。
「…やはり凄いですね。一般的な国民にもあのような精密な機械が扱えるというのは。うちの国ではまだ考えられません」
「そうだな。…だが5国間で協定が結ばれた今、ゆくゆくはうちの国だって魔道機械技術を取り入れていかねーと、置いてけぼり食らっちまう。協定なんざ学術知識や食料輸入の自由化…なんつったら聞こえはいいが、細かい制約を取り付けていかなきゃ強みを持つ国が肥えてゆくだけの仕組み。魔道機械技術の発展は俺達の代がやり進めていかねーとならないことの一つだ……ったっけ?どうだ先生、あってるか?」
「…まあ及第点といったところですかね。少し前に教えた箇所でしたが、覚えてらしたようで僥倖です。…待たせてすみません、さあ、行きましょうか」
いつもよりか幾ばくか多いだけの荷物を背負って、私とユーリは列車を降りた。車外に出ると外はもう真っ暗で、ほとんど沈み切った夕陽が水平線にすこしの残火を残すのみだ。空を見上げると、霧に覆われてすこしくすむ大気。少し高台にあるのか、町並みが眼下に広がっている。街の光は砂の国では見たことのないようなオレンジ色で、数本の薄い光が大気中の埃で乱反射を起こしていた。
「…すげー景色。これが火山の国か」
「ええ…この国は製鉄で発展した国です。加工工場も多い。きっとあの光は稼働中の工場のものでしょうね」
街あかりの方から流れてくる蒸気の帯を目で追いながら答える。目の前に立つユーリも同じように流れてゆくそれを見ていた。未知の景色に、隠しきれない好奇心と喜びがその表情に滲んでいる。ああ、こんなあどけない顔もできたのかと思った。
「ふーん、日も沈んだというのに頑張るな…いや、完全魔道機械化してんのか?でもそうなると人手が余るはずだぞ」
「ユーリ、いいことに気づきましたね。…それではもうひとつ。火山の国は現在、五大国1の格差社会を有す国です。さて、その理由は完全魔道機械化の風潮と関係があるのですが」
「…雇用主と労働者間の経済格差か?」
「その通りです。なんだか今日は冴えてますね。この国について予習でもしたのですか?」
「ふふっ、少しな。何事も準備が肝心だって、お前が俺に教えたんだ。」
街の光を見ていたユーリが、振り返って私を見る。逆光で見えづらかったけれど、彼が笑っているのがわかった。
薄暗闇の中で、私とユーリだけがたった2人並んで立っている。これからの日々、私にはユーリしかいなくて、ユーリには私しかいなくなるのだ。頼れるのはお互いだけ。そう、彼が望んだ。
その事実にぼんやりと、私は気付く。なぜかどろりとした感情が胸の底に溜まって、ほんの少し息が詰まった。
「…さて。街に降りるか、アズ。宿探し、ちゃんと手伝ってくんねーと連帯責任になるからな」
「はいはい、分かっております。私だって野宿は勘弁願いたいですからね」
その言葉をきっかけに、私たちは経済の授業を切り上げた。カバンを背負い直し、二人横並びになって歩き出す。あまりにも自然に彼が私の横に並ぶから従ってしまったが、そういえば横に並び立って歩くことなんて国ではありえなかった。彼はこんなに小さかっただろうか?目線より少し下にある彼の黒い頭をぼんやり見ながら私は思った。