個別の十一人
パトリック・シルベストル著『国家と革命への省察 初期革命評論集』より
はじめに
革命は国民の生活史の中で二度と回帰することのない瞬間である。特に最初の兆候を見逃した者は瞬く間に色彩がすっかりと変わってしまったことに戸惑いを覚える。それこそあらゆる色彩が刷新され、一度でも歴史の輪転機が回転を始めたなら、もうくすんだ色には戻れない。革命は、それがどんな色であれ、常にはっきりとした色彩を要求するからだ。
私がこれまでに扱ってきたのは、結局のところ全て近現代を駆け抜けたドン・キホーテなのかもしれなかった。それにしても、この狂気の主人公について回る従者サンチョパンサが〈賢明なる嘲笑い〉に拠って立ち、風車に立ち向かうドン・キホーテを嘲笑するような気持ちには、どうにもなれないのである。英雄の行為の数々をただ愚かとしか看做さないその姿勢は、生存を無規定に至上のものとして、生きるということの本質を理解することができなくなるだろうことは疑いない。
『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』――著者ミゲル・セルヴァンテスは、主人公の立ち向かう相手が風車に過ぎないことを知りぬいていた。〈太陽の沈まぬ国〉を誇ったスペインの無敵艦隊は壊滅し、商業資本主義の波は否応なく、ナショナリストセルヴァンテスの拠って立つべき〈騎士道〉を崩壊させ、昨日までの現実を侵食していたからである。それにも関わらず何故、なおも時代錯誤の反動・反革命の主人公であるドン・キホーテの登場が要請されたのかと言えば、それが近代合理主義、商業資本主義に包括されえぬ、人間の精神救出の問題だったからである。
だから私は最後まで〈セルヴァンテスの目〉を己が矜持として、あるいはあらゆる現象から疎外された者として持ち続けよう。禍根と後悔を残した、括弧つきの〈戦勝国〉の出自として。
革命‐五月十五日
日本においておこったその事件について、初めに簡単にではあるが説明しておこう。親愛なる読者の傾向――これはマルクスの著書から言葉を借りれば、「いつでもせっかちに結論に到達しようとし、一般的な原則と自分が熱中している直接的問題との関連を知りたがるフランスの読者が、さきにどんどん進めないからといって読みつづけるのがいやになりはしないか(『資本論』フランス語版への序言と後書き)」という危惧は拭い難いが、また「心がまえをしていただく(前掲書)」よりほかに方法がないのである。
一団が首相官邸に侵入したのは、一九三二年五月十五日夕刻五時ごろのことだった。一団は海軍の青年将校、陸軍士官学校の生徒たち、また民間右翼(それはロシアのトルストイ運動に似ている)橘孝三郎を首魁とした農民決死隊という一群よって構成されていた。彼らはそれぞれ首相官邸、内務大臣邸、変電所攻撃等々の任務を帯び、クーデターの技法によってその行動を起こすと、ついに首相官邸に突入した部隊においては首相犬養毅を暗殺した。このとき犬養が「話せばわかる」といったのに対して、青年将校たちが「問答無用!」と返して時の首相を射殺した逸話は、日本人の間ではあまりにも有名であるようだ。
彼らは「昭和維新・国家改造」を叫んだ
〈昭和維新‐国家改造〉という聞きなれない言葉で表現される彼らは、一九二〇年代後期から三〇年代中ごろにかけて、日本に登場した民族主義者である。彼らは、アプローチはさまざまだが、中国における民族運動の激発、世界恐慌による経済の混乱、社会主義運動、そして退廃的な世相に対し危機意識を持つようになった軍人、民間の右翼思想者、であった。
日本はそれ以前に二百年余りにわたり島国を支配していた、徳川一族による武家政権をブルジョワ革命的に打倒したうえで、アジアのどの諸国よりも先んじて西欧型の近代化を推し進めた。急激な近代化を経て落ち着きを取り戻したもつかの間、明治ブルジョワ革命によって歴史の暗闇から這い出た藩閥による政府は〈アジアの盟主〉を称し、はじめは清国に続いて帝政ロシアとの戦争に勝利した。
ところが一九二三年には関東大震災が起こり、一九二九年には世界恐慌の影響を受け企業倒産が相次ぎ社会不安が増大した。輸出後退は前年比34%減。失業者は増加の一途をたどり、中小の商工業者は瞬く間に没落。この年の自殺者は1万3942人。生糸の暴落は実に明治二十九年以来の安値を記録。
当時、日本の全農民の八割が小作農(田畑を持った地主がその田畑を農民に貸し出して耕作させ、その農作物の一部を小作料と言われる地代として徴収する制度)であって自分の土地を所有しておらず、農村部の困窮が特に深刻なものとなったようである。
「キャベツ五十に敷島一個」と言う言葉も生まれた。「敷島」とは最も庶民に身近なタバコで、これが十四銭である。つまり敷島一個とキャベツ五十玉分の卸値が同じであることを示している。他にも日本の東北部では、餓死した人間の胃から藁が出てくる。子女を売りに出す、戦地で死んだ兵士の遺骨を親戚同士で奪い合う、といった目を覆いたくなるような事態が起きたのである。また下級兵士たちのなかには、多くこの東北部の農村の子弟たちがあった。
一九三〇年四月。日米英三国間においてロンドン海軍軍縮会議が成立する。第一次世界大戦の戦勝国である列強海軍の補助艦保有数の制限を目的とした国際会議で、日本は他の列強との協調を維持しつつ、軍縮による軍費削減に積極性を示した。結果として日本の補助艦保有率は対米比率6.975として妥結、条約を批准した。
しかし、このとき惹起されたのが「統帥(軍隊を指揮する最高の権限のこと)権の干犯問題」である。大日本帝国憲法第十一条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という一文がある。これが天皇の統帥権、である。「それを政府が勝手に軍縮してよいわけがない。天皇の統帥権を犯してはならない」と言う主張で、軍縮に応じた内閣を攻撃したのだった。
また一九三一年中国においては、関東軍と呼ばれる日本の陸軍の一部が独断で軍事行動を起こしたことにより満州事変が勃発し、政府はこの事態を収拾できず、関東軍の暴走に引きずられる形となっていた。
祖国がこうした危機と混乱に次々と陥った要因を、彼らは政党政治の腐敗に代表される支配者層の支配のあり方に問題があるとして、おもには明治維新の精神的復興と天皇親政を掲げ登場したのであった。しかも社会主義・共産主義に対する非合法化と弾圧の中で、まさに対極的でありながらそれに類似する役目を担ったのが、軍の革新層、民間の右翼思想者とその政治的団体であったという点は注目すべきである。中には社会主義・共産主義を掲げる個人を吸収して、そのアジール(逃避地)となった団体もあった。彼らには反特権階級、反体制、農村と農民を至上とする反近代的な農本主義、一時的な軍事の強権行使による社会民主主義の実現や、はては日蓮宗という過激な宗教思想も入り混じっていた。
産業革命による工業化と農村共同体の解体を経て、近代においてその工業化社会には「個人」が発生し、これまでの「共同体」を否定した。しかし、しだいに深増さる「個人」の孤絶感は、一度否定した共同体を再び理想化する。彼らは明治天皇を〈英雄〉と位置づけ、この英雄の権威に依拠し、それに向けて個人を同一化し、来るべき国家の変革を阻害しているとされる、政治的メカニズムの破壊を企図する。その理想の「共同体」の再生と奪取にむけた闘争の一つが、今回取り上げたこの五・一五事件である。
事件そのものの結末は首相犬養を暗殺したほかには、これといって劇的なものはない。内務大臣の邸宅を襲撃した一団は、邸宅に手榴弾を投擲、行動の真意を記した文書を散布して憲兵隊に自首。変電所を襲撃した一団も「東京を暗黒化」するという計画通りの効果をあげることができなかった。つまりクーデターの技法をもってして、だがトロツキーの言うように蜂起の専門家による少数の秘密攻撃部隊でなかったばかりに、一時的なテロルに終わったといえる。読者にとって、あまりのあっけなさに歯がゆさすらおぼえることであろう。
個別の十一人
さて、彼らはことごとく自首・逮捕され、裁判にかけられた。
その後事件の判決を伝える新聞には、
「行為は罪重大だが憂国の情を認む」といった言葉を確認できる。
この事件に与えられた判決は、次のとおりである
海軍青年将校らは禁固十三年から十五年。
陸軍士官学校本科生十一名は一律禁固四年。
こうしてみると一国の宰相を暗殺したにしては、その刑が軽いといわざるをえない。
陸軍士官学校の生徒の場合は特に、である。その陸軍士官候補生らは「信念に従って行動した」との理由から、弁護を拒否、死刑を覚悟して涙ながらに陳述を始めた。どちらかと言うとそれは真情の吐露と言うのに近い。「自分たちは歴史の大改革の前衛で」あり、軟弱な政党政治を罵倒し、農村の悲惨さに言及し、そして「制度により動かされる人を恨むのです。犬養閣下は立派な人でした。清廉潔白な民衆政治家であつたと承知してをります。支配階級の犠牲として生命を落とされました」と、日本独特の風土が形作った〈涙のテロル〉を語った。
この見方によれば奇妙とも言える公判中に、それに輪をかけるよう奇妙な事態が起こった。被告たちが涙を流すのを目の当たりにした裁判官、弁護士、傍聴席の新聞記者ら、はては検察側までも、この涙の陳述に同じように涙したというのである。なかには傍聴席を突然立ち上がった老婦人が涙ながらに「裁判長さま、どうぞこの若い青年たちに温かい判決をお願いいたします」と言ったというのである。
事件は彼らの私心なき純粋行動の帰結であった――ということになった。事件当時二十歳前後だった陸軍士官学校生徒たちの信念に従った行動に、周囲は感激したのだ。しかも事件は直接的にも間接的にも、腐敗した政党政治や米英の大国に気兼ねすることに対する、国民の反感を代弁した行為であったことが大衆を突き動かした。この裁判の背後に、国民による減刑歎願の運動は日増しに加速したのである。陸軍側では論告、求刑をさかいに、運動は一挙に大きなうねりとなった。嘆願を訴える女学生の路面電車への飛び込み自殺も起こり、その同情や共感は国民運動と呼べる熱狂となり、また被告となった陸軍士官学校生十一名と自己とを同一化するような、一種の英雄症候群の様相を呈した。ついには三十五万通あまりの減刑歎願書と共に、「ついては我等の微意を表する意味を以て小指を切つて閣下に捧呈する」との手紙つきの十一本の小指が陸軍の法廷に提出されるという象徴的な事件まで生み出したのである。
さて「テロルはやってはならないが、そのような行動に出た気持ちは理解できる」という通奏低音が武器を持たずに切り落とした十一本の子指は、この事件に共感したすべてのものが大なり小なりそのような思想を無意識に抱えていた、その発露を求めていた――ということを暴露しているのであり、状況が許せば誰もが、ここでは称して〈個別の十一人〉に成り得たことを、この一件は示唆しているのである。
事件それ自体の結末は、収拾のつかぬ混乱にすぎない。彼らは個人として存在しつつも、その個人としての孤絶感が、一度否定した共同体を、己が生の理想形として希求して、危機の時代に行動を起こしたのであった。事件後司法省により発表された「五・一五事件の全貌」では「近時我が国の情勢は、政治外交経済教育思想及び軍事等あらゆる方面に行詰りを生じ、国民精神亦頽廃を来たしたるを以て、現状を打破するに非ざれば帝国を導くのおそれあり。(……)然れども彼らの建設せんとする真の日本なるものは各自の抱懐する思想の相違によりて多岐に亘れるものの如し」として、五・一五事件に至る過程に、それぞれ共通性がないことを認めている。
彼らは農村恐慌に、海軍の軍縮に、政党の党利党略に、富をむさぼる財閥に、都会の風俗の紊乱に、横暴な資本主義に――それぞれがそれぞれの問題に怒りをおぼえ、抵抗や攻撃の意思を示している――という、それ自体はあまりにも個別主義的な「個人」としての完成を見ていたのである。その完成された「個人」がある目的に向かって、即ち一度否定した理想の共同体の再生に向かって、一気に五・一五事件という既存の政治システムの破壊に(巻末資料2参照のこと)収斂されたのであった。破壊の先にあるものは、一度にすべてを解消できるような、強力な理想や意志の力を持った「共同体」である。
だが実際にはユートピアなどどこにもない。過去にも現在にも、そして未来にもありえない。そんな「どこにもない場所」を熱烈に求め、明治天皇という英雄と自己との同一化を求めた〈昭和維新‐国家改造〉の面々は、近代に現れたドン・キホーテ以外の何者でもありえなかった。彼らは全く「無秩序」で「不連続」で「瞬間的」かつ「非力」である。
ここで読者から疑問があがるに違いない。「いったい、『無秩序』であり『不連続』で『瞬間的』なのはいいとして『非力』とはなにか。彼らは武器を持っていたではないか?」――読者は、そう私に投げかける。しばらくの沈黙のうちに、再び口を開くのだ。「これは暗殺だ。それはとても卑怯な行為ではないのだろうか?」
暗殺というテロリズム自体は卑怯であり、悪なのかもしれない。しかし、卑怯であるとか、あるいは悪であるとか言ったものは、政治に対する姿勢如何、つまりは下部構造の上にどんな形の建物を建てるのかによって変わってしまうほど、いい加減なものでしかないのではないか。見栄えの問題にしかすぎないのではないか。つまりは経済という下部構造(土台)の上に共産主義の上物を被せられているのか、あるいはファシズムの上物を被せられているのか、といったことをくだくだしく述べているに過ぎないのではないだろうか。暴力という行為の主体がいったい何者であるのか? その正義の分量は? 現行権力か来法権力なのか、といつまでも自分の行為に問答していられるほど現行権力は私たちに時間を与えてはくれない。
また仮に私がドゴールをひどく嫌っていたとしよう。そして今まさに五月革命が彼によって流産の危機に瀕しているような状況下に、単身彼と一騎打ちを求めてもかなわないのと同じで、こちらは目的遂行のためには暗殺という手段によるほかはないのである。とうの相手は権力という巨大な機甲に守られており、対してテロルは、武器を持っていても、それは剥き身の、己の体一つの行為として現象する。彼らは極限の、想像を絶するような緊張状態にさらされながら、しかし理想の実現のためには自分の肉体一つ、それは彼の死によって彼の内で人類全体が死滅するような〈高貴な死〉をも受け入れる。そんな彼らの結末に対して、我々が嘲笑う資格があるのだろうか。もしかしたら、彼らこそ現実であり、本当の人間なのかもしれないのである。
能について
東洋の古典に接したとき、私は能という日本の古典芸能の世界に行き着き、件の事件と古典芸能との類似性に着目した。
しかし、わたしたちは本題に入る前にひとまず能の成立と歴史に焦点を当ててみよう。
七世紀、日本には二つの舞楽が伝わる。一つは中国からの左舞で、一方は朝鮮半島や中央アジアに起源を持つ右舞と呼ばれる。その舞楽と共に散楽と呼ばれる芸能も日本に紹介された。この時期ははっきりしないが散楽(猿楽)には舞や軽業ばかりでなく、筋書きのある会話劇も含まれていたようである。その散楽(猿楽)の一連の芸から、やがて能や狂言は生まれた。
能の舞台に描かれる背景の松は、神と人間の世界の橋渡しとされている。能の初期においてはそれぞれの農村共同体が祭りを盛り上げ、選ばれた演者は神の媒介を司ることとなる。当時はその演者の能力や表現力は問われなかったが、そのうち一人の役目ではなくなり、踊りを舞ったり歌ったりするものは、共同体の人々の中で最も能力のあるものが選ばれるようになる。
そのうち能という古典芸能は武士から愛されるようになった。その武士も、ことの起こりは武という芸事をその生活手段として用いたもの、と見ることもできるから、その親近感からくるものなのかもしれない。
さて、能は中世においては足利義満将軍によって、観阿弥・世阿弥という親子が能の芸能者として厚く遇された。能は時の支配権力である、武家社会という観客を手にしたのである。またしばしの時を経て、豊臣秀吉の治世においては、秀吉自身が自らの勲功に曲をつけ太閤能を生み出した。
それは、以後二百年余りにわたって島国を支配した徳川一族による武家政権にも引き継がれるようになる。十六世紀末には文化的爛熟が、能とは別に文楽と歌舞伎という庶民の娯楽を提供するようになり、能はさらに現在も見られる特徴であるその進行の極度の鈍化にも似た月日をかけて――武家社会に秘されるようになったのである。一般大衆に向けて公開されるものではなくなったのだ。
舞楽が宮廷の寵愛を受けたのに対して、能は武家社会‐徳川一族の寵愛を受けてさらに国の繁栄を祈る儀式の様相を帯びることになる。通常しゃべる程度の速さであったセリフは慎重に長引かせ発音されるようになり、舞もまたそれに応じて引き延ばされた。それは存続のための方策でもあったが、また武家社会‐徳川一族の政策による制約を受けたのも事実で、現存する狂言の多くは室町時代を題材としたものである。またこの時代に書かれた能は二千に及ぶといわれているが、歴史への耐久性という観点から見ればほとんど再演の価値を持たないものであった。とはいえ、能は武家社会の後援によって長く受け継がれ続けたのである。
しかし、徳川幕府が天皇と皇室を尊崇する勢力によって打倒・廃止されると、明治という急激な近代化、西洋化の中では、その存続が危ぶまれたのであった。能はそれまでの武家社会‐徳川一族に対する忠誠か、新しい英雄である明治天皇と皇室への忠誠かの選択を迫られていた。そうした伝統の拒絶という時代にあってなおも能が存続したのは、新たな後援者、すなわち新しい〈英雄‐絶対者〉、天皇と皇室に巡り合ったからであった。西洋文明に後れを取るまいとする新政府は、能を公的行事の場にふさわしい娯楽であると見做した。新政府の高官岩倉具視らは西洋外遊の経験から能を明治天皇と皇室に捧げたのであった。武家社会の恩寵を受けたという、その時代においては不名誉な境遇から一転して、今度は生まれながらにしての〈英雄‐絶対者〉の後援と言う後ろ盾を得たのである。また「伝統文化は苦も無く破壊される」という西洋の意見を取り入れた岩倉は、能楽社を設立して常設の舞台を作ることによって、再び一般大衆に能は拓かれたのであった。
無数に作られた能ではあるが、現在では二百三十曲程度が残っているにすぎない。しかもその多くは、まったく一回の公演のためだけに書かれたものである。
今現存する能は確かにその時代の反映を色濃く残すものもあるけれど、それには歴史への耐久性を兼ね備えた、つまりそれは当時の政治状況や思想に左右されない、時代を超えた普遍的テーマを内包していることが要請される。
一つ比較の例として歌舞伎の『忠臣蔵』をあげるならば、『忠臣蔵』はそのまま現代に持ち込むことはできないことが、容易に見いだされるのである。武家社会の洗礼――儒教思想により政策を推進し、主従関係と忠義の思想性に満たされている『忠臣蔵』のような作品は、ある時代にはひどく滑稽なものとして映るだろう(しかし、庶民の娯楽として成長した文楽や歌舞伎のほうが、むしろ主従や仇討ちといったテーマを、根強く後世に伝えているというのは、それで興味深いことではあるが)。確かに能には歌舞伎や文楽といった娯楽と同じく神や幽霊が出てくることはあるが、それで時代の持つ諸条件に左右されることは少ない。能とは歴史であって時代ではないのだ。幽霊を信じていなくとも「卒塔婆小町」のある男を長い年月待ちに待つ女の心情や、「綾鼓」における綾の鼓(綾の鼓は音が出ないが)を幽霊になっても打ち続ける男の、いじましいまでの熱情を、時や場所を隔てても、幾分かの教養と我慢強ささへあれば、発見することができるのである。その彼や彼女の仮面の中に、今まさに生きたものを、私たちは容易に見いだせることだろう。
革命行動と能楽
多く芸能の本質とは、決定された事物の繰り返しによる虚像である。幾度となく辛抱強く繰り返すことによって、それは洗練され、完成に向かって導かれる。
しかしここで注目するのは、能の持つ一回性であってそれは訓練による洗練ではない。驚くべきことに、能は戯曲のような入念なリハーサルが行われることはないそうである。事前に演者が勢ぞろいするという「申し合わせ」も原則一回きりであり、このときも能面や装束を使用しない。囃子方、シテ方、ワキ方、はそれぞれにその芸を極め、本番の一点に、それぞれの精華が注力される。そして成功しようと失敗しようと、本番の一度きりと限定されている。つまり、能は現実がかくのごとくそうであるように、ほとんど即興によって演じられるというのだ。長く武家社会によって数多くの芸能が蔑まれる中で能楽が保護されてきたのも、能楽のそのような一回性が、武士の死生観と一致していたからである。
一度きりという部分に、回帰の不可能という特質に、能も革命も極度の緊張状態が引き起こす最高潮に至ったボルテージによって、その力を出力する。
徳川一族時代の能も、一回きりの公演という緊張感もさることながら、いくら武家社会の寵愛を受けているといっても、そこには演者と観客という確かな第四の壁が存在している、忘れてはならない事実があったことは疑いない。国家繁栄の儀式的側面を与えられた能は、その途中でもし誤りでもおかしたならば、国家に惨事をおよぼすという信仰に直結した。間違いには速やかな処罰、追放や、最悪の場合は切腹という厳罰が与えられた。
革命行動においても、どれほど入念な計画を用意しようと、現実の行動の前には刻一刻と裏切られてしまう。革命の成功か失敗か、あるいは革命の成否によらず、である。その革命自体の裏切りに私たちの悲喜交々があるけれど、革命自体は常に私たちを裏切ろうとする。革命自体の裏切りにあう以前に、不測の事態や時代の状況がそれを許さずに堕胎することもある。しかも革命の失敗は、あのチェ・ゲバラ司令官が、ボリビアの地において処刑されたように、すなわち己の死を意味することにもなる。
つまり、日本における革命行動は「能」の世界観であり、精神の極限の緊張なのではないか。だからこそ、熾烈な武家社会の中で武道の作法にその負うところの大きい能の所作は、見るものにはあまりにも緩慢でありながら、極度の緊張がそのようにさせる、「瞬間の永遠」とも呼べる引き伸ばしの体現を目の当たりにしているのである。
たとえば能には、その動作の手本となる「型」というものがある。だが、能を演じる彼自身は昨日の彼でもましてや未来の彼でもない。演じる彼は「型」という偽装によって同一性と連続性を擬制しているが、今現在の彼は無限に引き伸ばされた「瞬間の永遠」、その一回限りの行為を生きている。瞬間でありながら常に永遠であり、そして何かを演じている彼は限りなくその現在で在る。つまり、彼の「型」に込められる精神は限りなく彼の現実の行動に近しいものとなる。
冒頭にも記したように、革命は国民の生活史の中で二度と回帰することのない瞬間であるのだから、まさに一回性の生死をかけた、己の個人史を歴史の秤にかける行為に両者は他ならない。
終わりに
牧歌的な英雄像の崩壊は、フランス革命と産業革命により成立した市民社会が後押しした。王政は断頭台の露と消え、ナポレオンはセントヘレナに流刑の身となり、産業革命による大工業制手工業が大量の労働者階級を生み出し、その労働者を、生産手段を持つ資本に従属させて「人間疎外」を生み出した。これは確かに不安定な時代ではあったが、市民社会ははっきりとした目標や目的によって、市民にとっての安定した生活に向かおうとしていた。もはや無鉄砲とも言うべき、己の全存在をかけた英雄の登場は必要とはされなかった。なぜなら市民生活の理想は、直線的な進歩の先にあったからであるし、近代は個性を喪失した大衆の時代のはじまりであった。みなの顔が同じであることに、満足と安心をおぼえる時代である。
しかし二十世紀にも入ると、実際はその二十世紀的現象とも呼ぶべき塹壕戦によって、人々は前進も後退もままならず、直線的な進歩という時間は塹壕の中で静止し、終点のない円環世界――メビウスの輪に兵士たちを幽閉した。「英雄」はそうした永劫回帰的世界で、元のような牧歌的英雄像としては顕現されなかった。新しい時代の英雄は、その新しい時代に疎外されたものの代弁者であり、目的に対する確かな行動力に裏打ちされ、そして世界の表象が誤謬であり、偽装であることを自覚しつつも、世の無常を積極的に肯定し、周囲に充満する「事実」を果断なく超える存在――として出現を要請された。
この「英雄」たち――彼らはつい先程まで一市民に過ぎなかった。彼らは、彼らをそうたらしめていた市民社会の規範の軛を、近代的な戦車と携行して突撃することで突破する。この凄惨極まる戦場の中で、彼らは誰と取り換えても何ら変わることの無い市民の相貌から戦士の相貌へと彫塑され、生まれ変わるであろう。
ふつう人間――いや生活に基づく大衆は、流動的で生存の前提となる価値を、無批判に承認し続けることしかできない悲劇的存在である。しかし、世界のそうした流動的で絶えず動揺するような価値観を周囲に認識するとき、それに対して彼は今ここにある生を肯定する。ニーチェ的「超人」そしてここでは「英雄」が、怨嗟に侵されそれでもなお凡庸な生を承認することしかできない末人に対する、生の理想形として人格的に形象化される。
だが、人格的に形象化されるということは、受肉の瞬間、彼は死を宿命つけられた時間的存在になることを意味する。一日=二十四時間の存在に――である。そして革命に身を投じるものは何度も言うようだが決して元の世界に戻ることはできない。それは体当たりの、時としては観念との心中を意味することになり、セルヴァンテスの創造したドン・キホーテも、とうのセルヴァンテスさえも、革命を前にして傍観は許されないのである。ゆえに「英雄」は己の全存在を賭した革命事業に、その時間を奉仕した末、まさに死によって完成し、革命指導者としての、そのただ一回の生は至高のものになるだろう。「英雄」は自らを時間的存在と化生する死によって、逆説的にその死のために生を得て、永遠となるのである。