第1章-1 必要なのは対応力
新しく用意された自宅を出、百回以上脳内で練習し、十回以上模擬練習をした電車の乗り換えをし、俺は人生の再スタートとなる場所に辿り着く。
「……相変わらずでけえな……」
俺は例の建物を見上げて呟く。
広さと言う概念では広大など田舎で暮らしていた俺にとっては全く持ってでかくはない。けど、高さで言えば大樹以外に大きな物を見ていない俺にとっては問題にならないほどでかい。
全学年8クラス。
生徒数約960人
六階建ての校舎を有するここ、矢代高校は都内でもそれなりに有名な公立高校である。
――。
そう、それなりなのだ。
頑張ったのならかなり有名どころに行かないのか? と思われるに違いない。
それについて言わせてほしい。これにはどうしようもない理由があった。
まずわかってほしいのが、俺たちの地域と都内では勉強の進行速度が全くもって違っていたということだ。俺たちが中学二年で習うことを、ここら辺の人達は小学校を卒業する時点で学び終えていた。
そして、言うまでもないがこの高校で行われた入試試験は都内の学力に応じた問題が取り扱われる。
つまり、俺はスタートが遅れたばかりか、かなり後ろのスタートラインから走らされたことになる。ここで更にゴールを延長させてしまえば、俺は途中で朽ち果てていたに違いない。
それにだここだって簡単だったわけではない。受験前に知った倍率に立ち眩みしかけたのは記憶に新しい。
倍率1.8倍
ここら辺ではそこまで高くないのかもしれないが、万年倍率割れで名前さえ書けば受かるような俺たちの地域からすれば、約二人に一人が落ちるこの倍率には戦々恐々、畑で猪に遭遇した時と同じくらいの驚きがあった。
そんな簡単な試験しかない地域だからこそ、これだけの倍率でも騒がれ、回覧板に俺のことが載せられるほどの出来事となった。
親父は入学に頑固反対したが、町長が自宅にまで激励しに来た矢先、白紙にするわけにもいかず、「東京で二十ヘクタールの畑取ってこい!」と投げ槍で俺を送り出した。ねえよ、コンクリートジャングルにそんな土地。
まあ。何はともあれ、俺は無事に田舎から逃げることが出来た。
このあとどうするか、と言う悩みはあるが取り敢えずまだ三年ある。まずは留年しないことを考えるべきだ。それが一番の難点だ。
その時の俺はそう思っていた。
実際には違っていた。
やべぇ……周りのレベルがやべぇ……。
学力的な物ではない。寧ろ初日から教材に目を通しているのは少数だ。
そうじゃない。あれだ。あれなんだ。
入学するにあたり買ってもらったスマホよりも明らかにでかい機材。
耳に栓のような物を付けて体を小刻みに揺らす人。
何かの略語か、ここの共有語は英語かと疑い兼ねない会話。
全く理解できない。
全くついていけない。
これが、都会。
周りをキョロキョロ見渡しながらも、不審がられずに立ち回るのは至難の技だ。
俺、いやここにいる大半が色んな中学(ほぼ都内)から集まってきた見ず知らずな人たち。そこで、最初に行われるのがコミュニケーション。目と目が合わさった瞬間始まる魔の情報交換。
田舎出身の俺が持ち合わせている手札などたかが知れている。都会は怖いところだと聞いている。少しでも違いがあれば村八分に遭うかもしれねぇ。
かといってここでなにもしないわけにはいかない。遠くの親戚より近くの他人。一番遠い親戚でも県内を離れていない俺にとって親戚に頼るということは必然的に親父に頼ることになる。
そんな弱みを見せるわけにはいかない。そもそもネットが繋がらなくなったとか、いい喫茶店教えてとか言っても分かるわけが無いんだけど。
……そうだ喫茶店!
都会の人は放課後にお茶をする人が多いという。スティバや米俵コーヒーで高いコーヒーを買って小一時間位話すという。強者だと閉店間際まで居座り出禁にされる人間すらいるのだから恐ろしい。金持ちな都会人のやることはよく分からない。これだけ交通の便がいいなら友達の家で麦茶でも飲めば安く済むのに。
とは言え、郷に入っては郷に従え。これは必要経費だ。寧ろそれを有意義に使える話題を――。
「こ、こんにちは」
…………!?!?!?!?
来た!
遂に来てしまった!
新入の洗礼だ。小学校から中学校に入った際もあったが、その時は吉雄や三平が小学校から一緒だったし、陸や健二とも似たような境遇ですぐに仲良くなれた。
今回はそうもいかない。相手がどんな人かもわからない。だからこそ話し合わなくちゃいけないんだ。
「ど、どうも……」
できる限りの笑顔で受け答える。俺は軽く挨拶をして相手を見る。
俺よりも髪の毛が短く、どこか健二に似ている。髪の色や形がモンスターじゃなくてよかった。
「えっと……いい天気ですね」
「え、あ、そう、ですね」
俺の思わね質問に相手は豆鉄砲食らったような顔をする。
一瞬言いかけた質問を呑んだ結果、こんな訳のわからない質問を出してしまった。
『どこ出身ですか?』
は出せない。これは絶対に返される。そうすれば俺の出身地がばれる。
何とか返せた。後は相手の質問を返して。
「米俵コーヒーってよく行きますか?」
いきなりそれを出すか!
都会人の嗜みがこんなに早くくるとは!
「え、えっと……そこそこ」
ここは妥当な返答をする。勿論行ったことはないし、そもそもどこにあるかもわからない。
いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。次だ。次にくる質問の答えを準備しないと。
……そうだ。
「好きな飲み物は何ですか?」
これだ。この質問だ。
これで何か答えてくれれば自ずと自分の答えも生まれる。僕も同じのです。といえば言い。
「え、えっとですね」
悩んでいる。かなりの熟練者なのか、色んな物を飲んでいるのだろうか。何が出るか、エスプレッソか、ウィンナーか?
「えぇぇっと……」
そんなに悩むか⁉ えっ⁉ 米俵コーヒー何種類のコーヒーあんの⁉
「そうですね……。俺は――」
あらかた答えが出たようだ。
なら、俺の答えは一つだ!
「加糖式コーヒーです!」
「俺も同じです!」
…………えっ?
「えっ? あっいいですよね。加糖式コーヒー」
マジか。あれ米俵コーヒー産だったのか。
「ですよね。あの上は苦くて、底が甘すぎる感じ」
そうそう。三日位経つとそこに砂糖が沈殿していることがあるんだよね。
……。
いや、違う。
沈殿することは違ってない。そこじゃない。
加糖式コーヒーって確か――コンデと言う聞いたことが無い会社が作っていたはず。
「爆裂バナナソーダって後々癖になりますよね?」
そんな物は恐らく米俵コーヒーには存在しない。これは、一種の確認だ。
「え? えぇ。いいですよね。バナナミルクみたいにねっとりしている上に、炭酸が強いから飲み辛いのにどんどん飲めるようになれますよね」
そうそう。始めの時は何だこいつって思うけど、最後の方になるとあの粘り気が病みつきになるんだよな。
「溶けすぎたプリンの正直な感想は?」
今度は逆に返された。あれか。
「カラメルどこ行ったって言いたいです。あれって何だっけ? ミルクうんたらみたいな」
「セーキ?」
「そうそう! ミルクセーキ! ほぼあれだよね」
プリンもセーキも卵と砂糖と牛乳が材料だからね。カラメルが無くなったらそりゃセーキだ。
…………。
「じゃあ。あれはどうですか? 大豆の力きなこMAX」
俺は最後の問いだと言わんばかりにこの質問を繰り出す。
これに答えられること。それはこれを知りえる人間のみ。
「「並んで三日で消えた」」
……。
だから俺も答えてやった。
そして、答えは合致した。
「コンデの自販機をここら辺で見ましたか?」
「見てないですね。いくら探してもコークコーラとセントリーしか見かけない」
「ということはあなたは」
「ということは、君は」
…………。
言葉など必要なかった。
硬く握手を交わし、その後は男同士の暑苦しい、いや、田舎臭い抱擁を交わした。
まさか、こんなコンクリートの密集体の中で、同類に出会うとは思ってもいなかった。