4.錯綜する思惑
「氷玉が人族の娘に執心していると?」
闇と月光に満たされた青瑪瑙の城で、青闇男爵蒼炎は言った。綺羅月の君と呼ばれる彼は、先代伯爵蒼牙の弟であり、氷玉の叔父にあたる。
華やかな美しさを持つ男は、白蝋のごとき肌に銀灰の髪、真朱の瞳をしていた。純白の衣装に悪趣味と紙一重の豪奢な装身具をいくつもつけているが、それが不思議に似合っている。冷酷さと魔力の強さは先代と比べても遜色がないと評される男である。
「妾妃にするなら半獣でも、下位の魔族でも良かろうに。人族など」
『一族当主を名乗っていても、下賤な血の混じる者。その出自に相応しく、愚かなふるまいをするのでしょう』
彼の前にある青白い炎から声がした。巨大な炎はその中心にないだ場所があり、鏡のように澄み渡っている。
そこに女性の姿があった。
二十代半ばの姿をした美しい女性は、雪のような白い髪に白い肌、薄紅の瞳をしていた。黒珊瑚の城の城主、氷刃男爵蒼華。氷魅の姫と呼ばれる氷玉の叔母である。
漆黒の地に無数の真珠と珊瑚玉を縫い止め、金銀の飾りをつけた衣装をまとい、結い上げた髪にも黄金の飾りをきらめかせている。
どちらも五百歳を越える、闇魔族の貴族だった。彼らは今、遠く離れた城同志の空間の一部をつなぎ、話し合っていた。
『闇魔族の力は血によって伝わる。われらは血統を重んじねばならぬのです。
あれは系統も定かならぬ魔族を母に持つ身。しかも『名無し』の忌み子。
当主に相応しき者は、今となっては綺羅月の兄上だけ』
蒼炎は皮肉げな笑みを浮かべた。
「もしくはそなただけと言いたいのであろう、氷魅の。
麗しの父、蒼禍は闇魔族の貴族には珍しく、妻と子の少ない方であられた。七名いた子の内、己が名より一字を与えし者は五名。〈蒼〉の文字を許されしは、われら三名のみ。
禍月の君と呼ばれた苛烈なる兄、蒼牙は他の兄弟姉妹を討ち果たし、父上を討ち取って爵位を継いだ。つまりは〈蒼〉の文字を与えられたわれらこそが、月牙において最も血の濃い闇魔族だと証明されたのだ」
蒼炎は息をついた。
「兄上は百名以上の子を作られた。したが……よもや『氷玉』などと名付けられた者が当主となろうとは」
『名を一字も継がぬ者が成り上がるなど、本来ならばあり得ぬこと。しかもあれが用いたのは、下賤な奇策。
当主に挑戦するのであれば、己が血と力の限りを用いて倒すのが礼儀。であるのにあれは、己が稚児を用いて尊き血を持つ兄上を弱らせ、その隙をついたのです。当主を名乗るのもおこがましい』
「紫忌か。紛い物に爵位をくれてやった所を見ると、そなたの言い分が正しいのであろうよ。
したがあれは、当主として認められてしまった。われらが乱を起こしても正当とは認められぬ。当主への挑戦をしようにも……」
『われらは一度、禍月の兄上に挑み、敗れた身。ゆえに兄上を討ったあれに挑む事はできぬ。これは闇魔族の掟ゆえ、覆せぬ』
「だが……人族の娘か」
『夜毎に娘の元へ忍び行くとか。大した執心ぶりではありませぬか』
蒼華は冷笑を浮かべた。
『子が、できるやもしれませぬな?』
「あの紛い物のようにか」
蒼炎も笑みを浮かべた。
「それは大変だな。人の血の混じる者を側に置き、白い目で見られている月牙当主としては。その上さらに、己が血を引く子を人族に産ませたとあっては、闇魔族の誇りを持たぬ者と大陸中の魔族より謗られよう。おお、何という事だ。わが一族の名誉が危うい」
喉の奥で笑うと蒼炎は言った。
「一族の誇りを守る為にも、われらは立たねばならぬな? 氷魅の」
『その通りです、綺羅月の兄上』
「しかしさすがにそのような事になれば、あれもその娘を処分するのではないか?」
『その時は、われらで娘と子をかくまってやれば良いのです。その上で、人族ごときと子をなした愚かなる当主を責めれば良い。
己が不始末を消す事もできぬ惰弱な男を、当主と認める者などおりましょうか』
「子ができる前に、飽きるやもしれぬぞ」
『配下に命じて娘を孕ませれば良いだけの事。人族など、放っておいても次々と孕み、子を産む種。誰が疑いましょう』
「その通りだ。見張りが必要だな。その娘の動向を探る者がいる。日中でも動ける者、その娘が気を許すような者……擬態のできる半獣を行かせるか」
『それはどうでしょう。あの氷玉の事です。妙な手を打っていないとも限らない。ここは人族を使うのが良いでしょう』
蒼華は微笑んだ。冷たい笑みだった。
『誇りを持たず、金銭がからめば仲間も売る種族。適当な者がすぐに見つかります。下賤な女の相手には、同じ下賤な者がよろしい』
1
紫忌は少女たちの家の隣にある、空き家に寝泊まりする事になった。彼は雇い主の怒りに触れたのでしばらく隠れたいのだと、まことしやかな話をした。それにより少女の同情を得た彼は、レサンの村でしばらく生活する事となったのである。
ガイリスは彼が白男爵である事を知っていたので、落ちつかなげだった。紫忌は少女が席を外した隙に彼を呼び、声をひそめてこう言った。
「ちょっと妙な動きがあってな、上の方で。兄上に敵対しそうな貴族がいるんだが、そいつらがここに目をつけたみたいなんだ」
事実だった。イリリアとアルシナは、紫忌に命じられたその夜の内に、青闇男爵と氷刃男爵の周辺で動きがあった事、二人が薬師の少女に対して何やら企んでいるらしいという情報をつかんで持ち帰っていた。
半獣族の少年は、この話に顔色を変えた。
「念の為、しばらくここにいる。お嬢ちゃんには言うなよ? 怖がらせちゃ悪い。村からは離れないようにさせてくれ」
「わかりました。あの、それで銀月の君はこの事を……?」
「一応報告したさ。しばらく来るなと釘をさしておいた。兄上の動きがあちこちを刺激してるのは確かだろう。ごねてたけどな」
実際は、ごねるなどという可愛らしい状態ではなかったのだが、それは言わないでおく。
「守りがおれ程度で悪いが、兄上にも立場があってな」
「いえ、閣下。閣下が来られた事で、銀月の君のお心は良くわかりました。最も信頼されている弟君をよこされたのですから」
ガイリスの言葉に紫忌は一瞬、痛みをこらえるような顔になった。だがすぐにその表情を消す。
「ま、気張って嬢ちゃん守ってくれよ。おれはとりあえず、無害な人族のフリしてるし」
「はい。ご身分の事、ご主人さまには……」
「言わんでいい。おれがここにいる事、どう説明するのよ。ここにいるおれは、人族のローク君なの。雇い主から逃げてる最中の、食い詰めた傭兵。わかった? 名前も呼び捨てにするんだぞ。ロークって」
「そ、それは。おれごときが呼び捨てるなど……あの、閣下」
「人族用の名前なんざ、魔族として何の意味があるよ。それとも何か、おれを延々と『閣下』って呼ぶ気か?」
紫忌は半ば脅すようにして、ガイリスに名を呼び捨てるよう約束させた。
日々は穏やかに過ぎていった。紫忌はレサンの村で暮らし、畑仕事や雑事を手伝った。彼は気がついた事は、言われなくてもやった。壊れた柵が一つ一つ直されてゆき、井戸のつるべが動かしやすくなった事に気づいた少女は、彼に感謝した。
食事時には、三人で食卓を囲んだ。彼と顔を合わせるとガイリスは、どうしても構えてしまうのだが、それでも紫忌を人族として扱うよう努力していた。
少女は妙だとは感じていたが、日中堂々と外を歩く紫忌の姿に、闇魔族だとは思いもしなかったらしい。少年のぎこちなさは、人族の傭兵に慣れていない為だろうと解釈した。
一巡月もするころには、紫忌がいる事は当たり前だと彼女たちは思うようになっていた。気候は日ごとに暖かくなり、花々が競って咲き、木いちごが茂みに顔を見せ、鳥や獣は婚姻の支度に忙しくなる。
夏至が近づいていた。
「最近、来ないわね」
ある夜、ユーラはぽつりとそう言った。一日の仕事を終えて少女と共に食卓を囲んでいた紫忌とガイリスは、顔を見合わせた。
「伯爵閣下かい。来ないと寂しい?」
紫忌がからかうような口調で言うと、少女は特に照れる風でもなく、「そうね」と答えた。男は当てがはずれたような顔をした。
「良く顔を見せてくれた人が来なくなると、寂しく感じるわ。それに、彼には借りているものがあるの。次に来た時に返そうと思っていたのだけれど」
あの後一度、馬車が来て質の良い毛布を数枚と、新たな本を三冊置いていった。しかし伯爵はやって来ず、マントを直接手渡したいと思っていたユーラはそれを、ずっと手元に置いていた。
「ところで最近、訪ねて来る人がいないね。仕事、成り立ってるの?」
紫忌の言葉に、少女は答えた。
「わたしに用がないのは、平和な証拠よ」
「でもこうまで誰も来ないのは変じゃないか? 伯爵閣下が来ていたのは『病弱な弟君』について相談する為だったんでしょ」
紫忌は言った。初めてその話を聞いた時には、何の冗談かと思ったものだったが。
巷に流布している話では、『病弱な伯爵閣下の弟君』ははかなげな美少年で、体が弱いがゆえに表に出る事をせず、城で兄を支えているのだそうな。
「行商の人が来た時、あんまり怖がっていたから伯爵の事を話したの。その人が大げさに広めたみたい。白男爵が、嫌な気になられなければ良いのだけれど」
「大丈夫でしょう、多分。それにしても、白男爵って体が弱いの?」
「伯爵がそう言ったのよ。半分が人族だからでしょうね。お気の毒だわ」
一体、俺の事を何と言って説明したんだ、兄上。と、紫忌は思った。
「仲はおよろしいみたい。男爵の事を良く話されていたわ。信頼しているのね」
「へー……。話すって、どんな事を?」
「特に、男爵の事を話題にするわけではないのだけれど。何かの折に、口にされるの。助言をしてもらったとか、こう言われたとか。それが何となく、信頼しているんだなあっていう風に聞こえるの」
「そう」
紫忌は微笑んだ。兄が自分の事をそう話していると聞き、それが単純にうれしかった。
「ところでおれ、明日エニ村まで行って来たいんだけど。村で何かする事あるなら、ついでにやって来るよ」
「そうなの? じゃあ、品物を何かと交換してもらえるかしら。ボタンを作ったし、毛糸で靴下も編んだわ。あと薬草の束。ジムの酒場に持って行ってほしいの」
「いいよ。どんな物が欲しいの」
「できれば小麦粉を。あと、村で何か噂を聞いたら、教えてね。わたしが必要な人がいたら、出向くから」
2
翌朝、紫忌は渡された品物を袋に入れて背負い、家を出た。武器は目立たぬよう布で包んで袋の中に入れ、ごく普通の村人のような姿で彼は、エニ村に入った。
ジムの酒場は、酒樽をいくつか置いてあるだけの、酒場と言うのもおこがましいような小さな場所だった。しかしそこは村人の寄り合い場所となっており、雑貨屋も兼ねていた。紫忌が中に入ると、薄暗い中、椅子に腰かけて何か話していた主人のジムと、村の男がこちらを見た。目つきに何か気に食わないものを感じたが、それを無視して紫忌は明るい調子で言った。
「やあ、ジム。ボタンや靴下を持って来たんだが。交換できそうなものはあるかい」
「何もないね」
ジムはむっつりとした顔で言った。紫忌は愛想の良い笑みを顔に浮かべた。
「見もしない内から断らないでくれよ。薬草もあるんだよ?」
「何もない。それ持って、とっとと帰んな」
「何だよ。おれが何かしたか? ちょいと前には一緒に一杯やったじゃないか」
「あんたらには関わりたくないんだ。おれには女房も子どももいるんでね」
そう言ってからジムは、少し気がとがめたらしい。小声で言った。
「あんた。あの薬師のとこからさっさと出た方が身のためだぜ」
「なに?」
どういう事かと紫忌は尋ねようとしたが、ジムはそれ以上、何も言おうとはしなかった。手を振って向こうへ行けという仕種をする。何が何だか良くわからなかったが、歓迎されていない事だけはわかった。
「邪魔したな」
そう言うと、彼は酒場から出た。
外に出ると、村人がこちらを見ていた。だが視線の合うのを避けて、そそくさと家の中に入ってしまう。外で遊んでいた子どもを母親が呼ぶ声がし、通りにはあっと言う間に誰もいなくなってしまった。
「どういう事だよ、こりゃあ」
つぶやいた時、物陰から手招く者がいた。そちらに行くと、ジムの女房のエイミが赤ん坊を抱いて、身を縮めるようにしていた。
「やあ、奥さん」
挨拶すると、エイミは苦しげな顔になった。
「うちの人がすまないね」
「何があったんだ? みんなおれを見るのも嫌みたいなんだけど」
「噂が立ってるんだよ。ミストレスは伯爵閣下のご不興を買ったから、半獣族の兵士が攻めてくるって」
紫忌は目を丸くした。そんな噂が流れていたのか。
「みんな、関わり合いになるのが怖いんだ。まきぞえで殺されたりしたら……」
「エイミ!」
酒場からジムの呼ぶ声がした。エイミはびくりと身をすくめると、「今行くよ!」と怒鳴り返した。
「手が放せないんだ、待っとくれ!」
それから紫忌の方を向いて、早口で言う。
「ミストレスには、お世話になった。この子が無事に産まれたのは、あの人のおかげだもの。でもジムは、とにかく関わるなって」
「誰が言いだしたんだい、そんな噂」
「わからないよ。気がついたらみんな、話してた。行商人のサムも来た時、この話をしてたし。とにかく村の者は怖がってる。それに、もっとひどい噂もあって……」
「エイミ! さっさと来ないか!」
再びジムの声がし、エイミは慌ててそちらを向いた。赤ん坊がむずかりだす。
「今行くって! ごめんよ、それじゃ。ミストレスによろしく伝えとくれ。あんな噂、あたしは信じてないから。じゃあ……」
エイミは赤ん坊を抱え、走って紫忌の前から去った。紫忌はその後ろ姿を見送ってからもう一度、人けのない村の中を見やった。皮肉な笑みを浮かべてつぶやく。
「すまないと言いながら、何もする気はないんだろう、奥さん? 命を助けてもらった村人もいるだろうに、それでもあっさり切り捨てるか。これだから人族というのは……」
村の入り口に、見覚えのある姿があった。赤髪の大柄な女性。アルシナだ。物陰から出ると、閉ざされた窓や戸の隙間から、視線を感じた。村人たちがこちらを見ているらしい。紫忌はこれ見よがしに荷をかつぎ直すと、彼女の方に向かって大股に歩いて行った。
「この近隣で、妙な噂が流れています。確認しただけで三つの村に」
村の外に出た紫忌に、アルシナは言った。紫忌は口許を少し歪めた。
「薬師のミストレスがご不興を買ったんで、半獣族の兵士が攻めてくるってやつ?」
「それだけではありません。姫君が諸悪の根源であり、災いの元だと」
「ああ?」
「人族の呪い師が、そう言いふらしているのです。姫君の事を、闇魔族に関わった穢れた女だと。いずれ神の罰がくだると言って回っています。不遜も甚だしい」
アルシナは吐き捨てるように言った。エイミの言っていた『もっとひどい噂』とはそれかと紫忌は思った。
「誰か後ろにいそう?」
「イリリアが探っていますが。放っておけばあの男、口から毒を吐き散らし続けます。お許しいただければ首を取って来ますが」
「いやあ……泳がせとけ。おれの勘だと、氷魅の叔母君あたりが関わってる」
「なぜそうお思いに?」
「綺羅月の叔父君は、何にでも真っ正面から突っ込んで行く、猪のような御方だからさ。後ろからネチネチ企むのは、叔母君の方。しかし何が目的かね? 噂流して孤立させて」
「貴族の方々の考える事は、わたしにはわかりません。ただ、姫君の事が心配です」
アルシナは真面目な顔で言った。紫忌は「むう」とうなった。
「なるべく離れないようにはするよ。お前たちも無理のない程度に探ってくれ。それと」
「はい」
「小麦粉が手に入る所、この近くにある?」
ユーラは畑仕事をガイリスに任せると、森の方に歩いて行った。紫忌がいない間に、境界線の強化を行おうと思ったのだ。彼がいる間は見られたくなくて、控えていた。
(気のせいだと思うけど……わたしが何かしようとするたび、ロークが側に来るような)
彼の働きには感謝している。だがユーラは時折、監視されているような気がしていた。そんな風に感じる方がおかしいと思うのだが、彼女はそれでこの一巡月、境界線に近づかなかったのである。
(ほころびもないわ。大丈夫ね)
石の前に着くと、彼女は思った。繰り返して強化してきた境界線は、しっかりしていた。普通の土地なら、数年はもつはずだ。
だがここは、灰魔樫の森に接している。森からの瘴気は常に村を侵そうとし、境界線を壊そうとしていた。
(わたしがいなくなったら、ここはまた、元通りの土地になってしまうのかしら)
もう三年、と彼女は思った。ここへ来てから三年になる。エニ村を始めとする近隣の村々では作物が良く実るようになり、妖獣の出没が減った。人々の暮らしは楽になり、子どもたちも栄養のある物を食べられるようになった。だがこの境界線を維持する者がいなくなれば……。
(わたしも永遠ではない。いつまでも生きられるわけではない。誰か、ここを維持できる者を探さなければ)
強化の歌を紡ぎながら、少女は思った。輝きが彼女を包み、不可視の鎖を強くする。
(歌よ、輪を描いておくれ。わたしは愛する)
(人々の、小さな幸福。日々の暮らし)
(平和と、喜び。ごく当たり前の、大切な風景を)
(わたしは愛する。わたしは守る。力よ。わたしを目指して集い、ここに現れておくれ)
歌は、彼女の祈りだった。自身が家族を失っているがゆえに、彼女はエニ村や、近隣の村の人々を、心から大切に思うようになっていた。人々が自分を、家族のように考えなどしない事は知っていた。会えば礼儀正しく接してくれる。だが心の底では、自分をよそ者だと思っている。
暮らしが違うから。言葉づかいが違うから。立ち居振る舞いが違うから。存在がどこか……、根本的に違っているから。
(それは仕方のないこと)
その事実を受け止めて、彼女は思った。それは仕方のないこと。だからこそ、村人のさりげない優しさを大切にしたい。日々を大事にしたい。子どもたちの笑顔を。
(わたしは愛する。最も小さくされた者を)
(わたしは守る……)
ふと、彼女は幌馬車を思った。ずっとそれで移動していた。彼女の家族は『渡り人』だったから。
幼い頃から踊っていた彼女の所作は、農作業をしてきた人々のそれとはどうしても違ってしまう。言葉にしても、彼女は随分と砕けた言葉づかいを身につけたつもりだった。だが、違う。それでも違ってしまう。
母、サーリアが厳しく仕込んだ言葉づかいは上流の人々の発音で、彼女がかつてそこに属していた事を示していた。彼女はしかし、何も話さぬままに死んだ。ジーナおばばもまた。サットンは、ユーラが大きくなれば詳しい事を話すと言っていた。だが。
真紅の薔薇。くすぶる煙。物言わぬ彼らの……。
「……っ!」
音を外し、ユーラは喉の奥で息をひゅっと吸った。淡く輝いていた光が失せる。少女は片手で口を抑え、もう片方の手で胸を抑えてうつむいた。心臓がどきどきと跳ねていた。
「こんな時に気が散るなんて……」
境界線の方を見る。今の失敗は特に何の影響もなかったようだ。彼らの死の光景を思い出し、動揺してしまった。強化の作業中にこんな事を考えるなど、今まではなかったのに。心がとりとめもなくさまよいだし、止められなかった。
息が苦しい。いいや、違う。苦しいのは……。
苦いものがこみ上げ、少女はその場にへたり込むようにして膝をついた。あの光景を、忘れる事ができない。
(克服したと思ったのに……)
涙があふれる。胸の奥から思い出があふれて止まらない。あまりのつらさに吐き気がする。目の前に見えるものは、あの風景。赤い薔薇が咲いていた、あの……。
歌えない、と少女は思った。歌えない。このままでは。
わたしは、また、歌えなくなってしまった……。
* * *
夕暮れの街道を、紫忌は急ぎ足で歩いていた。足取りに迷いはない。松明をともさなくとも、彼には闇を見通す事ができた。
エニ村で交換に応じてもらえなかった為、彼は四つ先のティンダル村まで足を伸ばした。よそ者に対する冷やかな対応はされたものの、小麦を分けてもらう事はできた。わずかな量だったが。
例の噂はその村でも流れていた。人々はひそひそとレサンの薬師の事を話し、あんな穀潰しは、さっさとどこかへ行ってくれた方が良いと結論づけていた。薬草なんか、そこらじゅうに生えているじゃないか。あんな娘がいなくなった所で、困る事など何もない。気取った言葉づかいをして、あの娘はおれたちを見下している。闇魔族と関わるなんて。ろくなものじゃないと、最初からわかっていた。人々は口々にそう言った。
(その薬草が、土地に生えるようにしたのはあの娘なんだけどね)
三年前には、荒れた地に薬効のある植物はほとんど生えなかった。灰魔樫の森からやってくる瘴気が土地を枯らしていたから。三年たつと、人々はそれが当たり前だと言うようになった。たった三年で。
土地がよみがえったのは、彼女が来てから。あの娘が何かをしたのだ。イリリアが証言している。レサンの村と森の接する辺りに、壁があると。それが瘴気を遮っている、と。
『魔術ではありません。何かわからない。でも壁がある。それが瘴気を遮っています。土地に花が咲くのはその為です。それにしても、あれほど緑と花があふれるのは、不思議な気がしますが』
『あの娘は呪い師だったのか』
『人族の呪い師は大半が妖獣を手なずけ、その力を振るっている、それだけの者にすぎません。姫君の力はそれとは違います』
何なのかわからない、ともう一度彼女は言った。あまりにも特異で、自然すぎる力だと。
他の者を媒介としなければ、魔力を感じる事もできない自分が歯がゆいと紫忌は思った。注意して彼女を見張っていたが、それらしい力を使う場面には遭遇しなかった。それが兄を滅ぼす力なのだろうかと彼は思い、続いてそんなものが本当にあるのかと訝った。彼には少女は、ごく普通の人族の娘にしか見えなかった。穏やかに過ごす事を望み、そうした日々が続くようにと願う、ただの娘にしか。
西の方で赤く光っていた色が消えた。闇が深くなる。紫忌は舌打ちをした。もっと早く戻るつもりだったのに。
そこで彼は全身を緊張させ、立ち止まった。素早く武器を取り出す。いつでも抜ける姿勢で彼は、闇に向かって言った。
「何か用か。用事があるなら早く言え。ないのなら、おれの行く手の邪魔をするな」
闇が揺らぎ、人影が分離する。白銀の髪、白蝋の如き肌、紅玉の瞳。
「お久しぶりにございます、白男爵閣下」
礼儀正しく腰を折ると、彼は言った。
3
現れた相手は、簡素な黒絹の衣装をまとう少年だった。腰まで伸ばした白銀の髪を、無造作に一つにまとめている。身を飾る物は一つもなく、背筋を伸ばして立つ彼の態度にも甘さはない。それでいてなお、彼の美貌には華があり、男装の少女めいた印象を見る者に与える。彼には会った事があった。以前、青闇男爵の従者として蒼月闇の城に来たのだ。
その顔だちはそして、氷玉に酷似している。
「青闇の騎士の方でいらしたな」
礼を失しないように言うと、彼は微笑んだ。
「青雅にございます」
どの闇魔族も紫忌の事を紛い物と見なし、同胞とは認めていない。公式の場ではもちろん、私的な場で出会った場合、無視するか侮辱の言葉を投げてくるのが常だ。だと言うのに青雅は自ら名乗った。最大限の礼を尽くしたのである。紫忌はだが、相手の名を呼ぶ事を用心深く避けて言った。
「先代当主に縁ある者と見受けるが」
「はい。しかしわたくしの名は『牙』ではありません。『雅』を与えられし先代の娘に連なる者にございます。わずかなりと血は受け継いでございますが、それだけにて」
「先の牙子爵……、血酔の姫か」
紫忌はつぶやいた。先代伯爵の娘、彩雅は氷玉の、そして紫忌の異母姉だった。紅蓮侯爵に嫁いだが、先代が斃れた折に氷玉の爵位継承に異を唱え、逆に討たれた。
「紅蓮侯との間に娘が一人おられたが……」
「火影男爵さまですね。あの方はわたくしの大叔母君に当たります。わたくしは先の牙子爵が廃棄した娘たち、その一人から生まれた者を母と持ちますので。
ですがあちらは、わたくしの事などご存じないでしょう」
紫忌は思い出した。彩雅は嫁ぐ際、後腐れのないように娘たちを殺して行ったのだ。
「しかし、闇魔族である事には変わりない」
「はい、閣下」
青雅は微笑んだ。その笑みが妙に嬉しそうに見え、紫忌は訝しく思った。
「なぜおれを『閣下』と呼ぶ」
何かの罠か。そう思い、気を引き締めて、強い口調で問いかける。青雅は答えた。
「己より位高き方を、名では呼べませぬ。閣下は男爵であられます」
礼儀正しい態度に、紫忌は眉を上げた。
「それでおれの気分が良くなるとでも? 茶番はよしてくれ、騎士……、」
そこで彼は言葉を止めた。息をつく。
「駄目だ。どうも苦手だな、あんたの顔は。兄上に似すぎてる。兄上を女にしてちょいと年齢を下げれば……いや、あんた男だっけ」
「恐れ入ります。綺羅月の君にも良くそう言われております」
青雅は言った。どこか苦々しげなものが口調には混じっていた。引っかかりを覚え、紫忌は眉をひそめた。
「あの叔父君なら、あんたみたいなのは飾り立てると思うが……」
「わたくしは、能力で位を得たと自負しております」
硬い調子で彼は言い、紫忌は納得した。この闇魔族は、容貌で取り入ったと言われ続けて来たのだろう。身につけているものに飾りが少ないのもこれでわかる。
「気に障ったのならすまんな。おれはどうも、ずけずけ言う癖があるらしくてな」
そう言うと、青雅は慌てた様子で「いえ、」と言った。その反応がどこか幼く見えて、紫忌は苦笑した。
「叔父君も、実力のない者に位を与えるほど酔狂ではない。あんたには実力がある。それはおれにもわかるよ」
青雅は微笑み、軽く頭を下げた。嬉しそうだ。何だろう、この反応はと紫忌は思った。
「で、何の用だ。何か用があったんだろ?」
すぐに敵対してくる事はなさそうだ。そう判断して武器を下ろすと、青雅は居住まいを正した。
「はい。綺羅月の君より命を受けました」
そう言うと、真面目な顔で彼は続けた。
「わたくしは、あなたを誘惑しに参りました」
「何だとう?」
目を剥いた紫忌に、青雅は繰り返した。
「あなたを誘惑しに。綺羅月の君はそうするよう命じられたのです。必要ならば抱かれて来いとも。わたくしは銀月の君に顔が似ています。それゆえ籠絡できるだろうと」
紫忌は口をぽかんと開け、相手を見つめた。青雅は真面目な顔でそんな彼を見つめている。
ややしてから口を閉じた紫忌は言った。
「仕える相手は選んだ方がいいぞ、おまえ」
「ご忠告、いたみいります」
「綺羅月の叔父君には顔を合わせるたびに、兄上の稚児だ稚児だと言われてたが。マジにそう思われてたのか、おれ。
おまえもな。ひでえ扱いなんだぞ、これは。おまえのあるじは人の血の混じった紛い物に抱かれて来いって言いやがったんだ。大体、何の為に」
「あなたを足止めする為に」
青雅は答えた。
「かの君はこの一巡月、じりじりしておいででした。あの方は、銀月の君のお手のついた娘を手中にしたい。それには閣下は邪魔だったのです。閣下が娘の側を離れた事、すでにお二方ともご存知です」
青雅の言葉に紫忌は真顔になった。
「お二方、とは。叔母君もか」
「わたくしは元々、氷魅の御方から綺羅月の君の元へ送られた密偵にございますゆえ」
「あっさり言いやがる。で? 何か仕かけて来るのか、今夜」
青雅はそこで、衝撃的な事を口にした。
「銀月の君が己が名を人族の娘に明かされた事、知られる所となりました」
紫忌はさっと青ざめた。青雅は続けた。
「今宵、われらの時が始まってすぐにこの知らせはもたらされ、今では領内の貴族全てが聞き知っております。ご承知のように、これは銀月の君には致命的です。綺羅月の君はこれを理由に、当主に戦を挑まれると。
口上は既に伝えられたでしょう。また彼の君はこれを銀月の君の弱みと見て、娘の命を盾に取り、力の封じに使うおつもりです。当主がわずかなりと反撃すれば、ただちに娘の命を奪うと。今この時にも人族の群れが、娘の元を目指しているはず……お待ちを」
顔色を変えて走り出そうとした紫忌を、青雅は止めた。
「閣下の配下には既に、娘の元に行かせました。間に合えば救えるはずです」
そう言った青雅を紫忌は、妙な顔で見た。
「何でそんな事を。大体おまえ、どうしておれにそんな事を教える?」
「わたくしには、わたくしの思惑がございます。閣下。わたくしを貴方の配下として、受け入れていただけませんでしょうか」
紫忌は唖然とした。青雅は続けた。
「わたくしを貴方の騎士として、蒼月闇の城に迎えていただきたい。よろしければ、ここで忠誠を誓わせていただきます」
「何の冗談だ。おれは爵位こそ持つが、人族との混ざりものだぞ。闇魔族としては不完全な代物だ。おまえは生粋の闇魔族だろう」
青雅は自嘲めいた笑みを頬に浮かべた。
「さあ、それは。わたくしの曾祖母にあたる方には、妙な実験にこだわる所がおありでした。あの方の娘の何人かには、闇魔族以外の血が入っていたと言われております。
わたくしは外見こそこのようであり、資質にも恵まれました。しかしこの身にそれ以外の種族の血が流れていないとは、断言できかねます」
彼はそれから静かに続けた。
「信じられぬのであれば、こうお考え下さい。当主に逆らうは大罪。綺羅月の君も氷魅の御方もその罪を犯そうとしている。わたくしは同じ船には乗りたくない。ゆえに閣下におすがりし、当主へのとりなしを願っていると」
「それでおれに忠誠を誓うか。大陸中の魔族に嘲られるぞ。おれなんぞに膝をついたと」
紫忌は逡巡しながら言った。罠だという意識がどうしても抜けない。忠誠を誓ったとしても今回の叔父たちのように、名誉を著しく損なったとの判断が生じた場合、配下の者でもあるじを討てるのだ。
だが彼の忠誠を受け入れないとすれば、この相手は青闇男爵、あるいは氷刃男爵の子飼いの部下のままとなる。それは危険すぎる。
「青闇、氷刃、両男爵はどうする」
「当主への謀叛を企てた時点で、忠誠を尽くすに値しませぬ」
「心変わりか? 嘲られる上に裏切り者とも呼ばれるぞ。だが……他に手はないな。時も惜しい。受け入れよう」
決断した紫忌の言葉に、青雅は片膝をつこうとした。だが紫忌は、それを止めた。
「やめろ。おれは兄上の為におまえを利用する。おまえが大陸中の魔族に謗られると知っていながら。この上辱めは与えたくない」
「あるじに利用されるは、配下の者には喜びでございます」
「そういうのは嫌いなんだよ。そうするしかないのはわかってるんだけどな……」
「では、略式で」
そう言うと、青雅は誓いの言葉を述べた。
「我、夜を歩く者をその命の祖と持つ青雅はここに、忠誠を君に捧げる。わが名と命は君のもの。君はわが上に君臨する者なり」
そう言ってから頭を垂れる。紫忌は答えた。
「我、月牙当主の弟にして白男爵たる紫忌は、その誓いを受け入れる」
青雅の額に指を触れる。青雅はその指を押しいただくようにすると、指先に口づけた。
「わが君」
「やめてくんない? おまえのその顔でそう言われると、なんか背筋が寒くなるから」
どこか情けない顔で紫忌は言った。
「おれの事は閣下でいい。道を開いてくれ」
「はい、閣下。どちらに行かれますか」
あの娘の命を盾に取られるとまずい、と紫忌は思った。まずは娘を確保しよう。そう判断した彼は、「レサン村へ」と告げた。
青雅の腕が紫忌の体に回され、白銀の髪がふわりと舞い上がった。空間が歪む。
一瞬の後、街道から二人の姿は消えていた。
…慣れたと言いつつ何ですが…長いですか、私の文章。もうちょっと区切った方が良いのでしょうか。どうも、他の方の作品と比べると、一話ごとの分量が多いような。この章も三つに区切ろうかとは思ったんですが…どうなんだろう。