3.夜の客人 2
2
数日して、伯爵はユーラの家を訪れた。少女はショールを羽織り、髪をきちんととかした姿で出迎えた。
ただ顔色はすぐれなかった。目の下にくまができており、元気がない。伯爵はその様子に眉を寄せた。
「いらっしゃい、氷玉」
「スパイス挽きは届いたか? 人族の商人に命じておいたのだが」
「受け取ったわ。ありがとう。でもあなた、随分怖がらせたみたいよ。可哀相なぐらいびくびくしていたもの。もう代金はもらったと言って、品物を見せてくれたけれど……」
「高価な品は駄目だと言ったであろう? 小さなものと言われても、良くわからなくてな。人族の商人ならわかるだろうと思ったのだ」
伯爵はそう言ってから、「壊した詫びだ」と付け加えた。
「このショールをもらったわ。ありがとう。布と針も。糸も一巻き。それで十分と言ったのに、あの人、他にも色々置いていったの」
伯爵は、少女の羽織っているショールに目をやった。太い毛糸で編まれたそれは野暮ったく、さほど美しくもなかった。だが少女はそれを、大切そうに扱っていた。
「もらいすぎの気がして、軟膏を渡したの。ここまで来てくれたお礼に。他の予定を全部取りやめにして来てくれたのですもの」
「そなたの欲しかった物は、そのショールや、布や針なのか?」
「ええ、このショールは暖かいわ。布は二巻きももらってしまって。新しい服が仕立てられるわ。櫛もいただいたわ。指ぬきも」
「櫛と指ぬき……」
伯爵は、それが何か不思議な呪文であるかのようにつぶやきつつ、家に入った。
「これをそなたに」
家に入った伯爵は、二冊の本をテーブルの上に置いた。
「貸していただけるの?」
少女は本の側に近寄ると、表紙を眺めた。伯爵は少女の目に輝きが宿ったのを見て、自身の中に小さな熱が生まれたのを感じた。不思議な事ばかりだと彼は思った。彼女と共にいると、熱を感じる。泡が弾けるようなくすぐったさが、胸の内に生まれる。
「うむ。現代語で書かれているゆえ、そなたにも読めるのではとアロンが言っていた。民話のたぐいと植物についての解説だ。そなたの役に立ちそうか?」
「読んでみるわ」
少女のまなざしは本から離れない。読みたくてたまらないようだ。伯爵は彼女に見つめられる書物に、軽い嫉妬を覚えた。
「ありがとう、氷玉。アロンにも感謝していますと伝えてね。うれしいわ。ここに置いていては汚れてしまうわね。向こうに……」
ユーラはいとおしげに表紙を撫で、本を抱えようとした。しかし伯爵は背後に控えていたガイリスに目をやると言った。
「そこの。何をしている。これを運べ。姫の手を煩わせるでない」
「これぐらい平気よ」
本には重みがあったが、持てないほどではない。そう思ったユーラだったが、伯爵は首を振った。
「あれはその為にいる。それにそなた、この所眠っておらぬだろう」
「眠っているわ。どうしてそんな事を?」
「そなたの生気に曇りがある。その輝きが陰っている。何かあったのではないか」
少女は目を丸くした。
「闇魔族は、人を生気で見るの?」
「わたしは何かを見る時、そのものを見る。形ではなく。そなたには今、影がある」
伯爵の言葉に少女はため息をついた。
「魔族には、隠し事ができないのね。でも大した事ではないわ」
「失礼ながら、ご主人さま。そのお言葉はご自身の状態を、正確に把握しているとは言いかねます。ご主人さまはこの所、食事をほとんど召し上がらないではありませんか」
本を受け取っていたガイリスが、思わずという風に言った。少女は「食べているわ」と言ったが、伯爵は少年に目をやって尋ねた。
「姫は食事をしておらぬのか」
少年は、一礼してから答えた。
「量が半分に減っています。夜も閣下のおっしゃった通り、あまり眠っておられません」
「眠っているわよ」
「夜通し寝返りを打っておいででした。眠ったのは朝がたに、ほんの少し」
「どうして知っているのよ……」
「半獣の民は耳が良い。気配にも敏感だ。あるじの様子に注意を払わぬしもべはおらぬ。わからぬ方がどうかしている」
「本当に、大した事はないのよ。少し、思い出した事があって……何だか眠れなかったの。食欲も、その内に元に戻るわ」
そう言いつつも、少女の顔色はどこか冴えなかった。
半獣族の少年は湯を沸かし、さわやかな香りの茶を淹れた。少女はどうしても本が気になるらしく、ガイリスが本を置いた場所に行ってぱらぱらとページをめくっていた。やがて少年に呼ばれ、少女は伯爵の方に戻ってきた。
「ありがとう。とても良い香り」
ガイリスから渡された茶碗を、少女は礼を言って受け取った。伯爵も受け取る。
「氷玉。本の表紙の裏に、何かの書き付けがあるのだけれど。あれは何?」
ユーラの言葉に、伯爵は眉を上げた。
「わたしは知らぬが。そのような物があったのか」
「ガイリス、植物の本はわかる? 持ってきてもらえるかしら」
少年はすぐに本を持ってきた。
「ありがとう。ええと……これ。とても綺麗な書体だけれど、わたしには読めないわ」
少女は本の表紙の裏に隠すようにして入れてあった紙片を取り出し、伯爵に手渡した。月牙伯爵は内容に目を通すと言った。
「貴族の文字だな。古代語だ。古い時代の詩人の作を写したものだ。祖父の書いたものやもしれぬ。こうしたものを好んでいたゆえ」
「お祖父さま……どんな方だったの?」
「蒼禍と言った。雪月の字を持ち、〈深遠たる美の君〉と称されていた。強い魔力を持つ美しい男であったらしい。
ただ話を聞く限り、変わり者であった。闇魔族らしからぬ振る舞いに耽っていたと……わが一族にはそういう者が多く出るようだ」
苦笑めいたものを伯爵は頬に登らせた。
「きっと、あなたに似ていたのね」
少女が言い、伯爵は彼女を見やった。
「人族にもそういう事はあるわ。親に似ていなくても、祖父や祖母に似ているの。闇魔族はあまり知らないけれど、あなたの事は嫌いじゃないわ。魔族としては変わっている所が、わたしには何だか安心できるの。雪月の君にも一度、会ってみたかったわね」
伯爵は目を伏せると、頭を軽く下げる仕種をした。感謝すると言いたげに。
「この詩はどうする。良ければ訳すが」
「聞いてみたいわ」
少女の言葉に伯爵はうなずくと、書かれた詩を現代の言葉に訳しながら読み始めた。なめらかで良く響く低音の声は心地良く、少女は耳を傾けた。その目が次第に丸くなる。
恋の詩だったのだ。
言葉を尽くして恋人をほめたたえる詩は、伯爵の声で聞かされるとかなり気恥ずかしかった。まるで自分がそう言われているように聞こえる。
「氷玉……それ本当に、あなたのお祖父さまの書かれたものなの?」
朗読が終わったのでそう尋ねると、「そのようだ」との返事が返ってきた。
「こういうものを愛好したのは祖父だけだ。何度も取り出して眺めた跡もある。気に入っていたのだろう」
それは確かに、戦を好む闇魔族としては変わっている。
「どなたか、そういう方がいらしたのかしら」
「どうであろう。単に言葉の響きが気に入っていたのやもしれぬ……最後にまだ続きがある。別の詩人の言葉のようだ」
伯爵はその部分を読み上げた。
「闇の中で耳をすます いくたびも
優しき死神に恋焦がれ
うるわしき彼の名を、いくたりもの言葉で飾って呼んだ
そして願う 静寂の内にわが息を止めよ
夢か幻か
歌声は消えはてた
こは眠りの中か それともわれは目覚めているのか」
読み終わると伯爵は、口許をわずかに歪めた。
「随分と感傷的だ。美しい死神に息の根を止められる夢とは」
「何かのたとえだと思うけれど……死を歌ったものではないと思うわ」
「そなたにはそうであろう。だがわれらには、この言葉の意味は一つだ」
伯爵は紙片を折りたたむと、ユーラにそれを差し出した。少女はどうしようという風に眺めてから、それを元通りに本にはさんだ。
「姫。われらには、眠りはあるが夢はない。夢というものをわたしは、見た事がないのだ。祖父はこの詩人の言葉に、手に入らぬものを重ねたのであろうよ」
まだ見ぬ己を滅ぼす者を。伯爵は胸の内でそうつぶやいた。
「夢が、ない……?」
少女は驚いた顔になった。伯爵はうなずいた。
「われらにあるのは現実の世界のみ。幻を操る事はあるが、夢は見る事ができぬ。そのようにできている」
「魔族はみな、そうなの……?」
「闇魔族はそうだ。他の魔の民はどうかわからぬ。気にした事はなかったゆえ」
「つらいわね」
伯爵は驚いて少女を見た。少女は言った。
「夢は、心を傷つける事もあるけれど。傷ついた痛みを忘れさせてくれるものでもあるわ。前に進む力を与えてくれるものでもある」
「そうか」
「厳しい事もあるけれど、安らがせてもくれる。人族にとっては友のようなものよ。失ったら多分、生きてはゆけないわ」
「ではそなたに夢が訪れる事を、わたしは喜ばしく思おう。そなたはどのような夢を見るのだ?」
「色々よ。大抵はたわいのない事。昔あった出来事や、もう会えなくなった人を見る事もあるわ。そんな夢を見た後は、少しつらい」
少女は答えた。伯爵はそんな彼女を見つめていたが、静かに問うた。
「そなたが夜、眠れないのはそうした夢が訪れるからか?」
この言葉に、少女は体を強張らせた。だがすぐに力を抜き、目を伏せる。
「そうよ。この所、思い出すの。昔の思い出を。目覚めると、つらくて……これ以上は尋ねないで。話したくないの」
少女の言葉に、伯爵はうなずいた。しばらく沈黙が流れる。
「あなたの城は、……どこにあるの?」
やがてユーラが言った。話題を変えようと思ったのだろう。伯爵は答えた。
「月牙の森、氷霧の湖のほとりだ。黒竜の峰を越えた向こうになる」
この言葉に、少女は目を丸くした。
「黒竜山脈の事? すごく遠いわよ。あれを越えてって……あなた今まで、そこからここまで来ていたの? ずっと?」
遠方にある山々を思い浮かべ、少女は驚きを隠せない顔で言った。伯爵は微笑んだ。
「遠くはない。この村より少し離れた場所に、道を通してある」
「道を……通す?」
「空間をつなぐのだ。さすれば距離は、なきに等しいものとなる」
伯爵の言う事は良くわからなかったが、何かの術らしいという事はわかった。
「それ……大変じゃないの?」
「手間は少しばかりかかったが。ここまで駆けるよりは楽だ。夜毎にここまで駆ける事は、さすがにわたしにも大仕事だ」
「それはそうでしょうけど……夜毎? 毎晩来るつもりだったの、うちに?」
この言葉は何の気なしに言ったものだった。本気でそう思っていたわけではなかったのだ。しかし伯爵は珍しく、迂闊な事を言ったという顔になって口をつぐんだ。少女は不審に思った。
「氷玉? どうしてそんな顔をしているの。何か隠しているみたい」
「いや……」
伯爵はうろたえたような顔をしている。思いついて、少女は尋ねた。
「まさか、毎晩ここまで来ていた……とか言わないわよね」
月牙伯爵は視線をそらした。
「そうなの?」
ユーラが強い口調で言うと、伯爵は進退窮まったという顔になった。口をつぐんだまま、視線を泳がせている。
「ご主人さま。お代わりは……」
伯爵の苦境を少しでも救おうとしたのだろうか。ガイリスが遠慮がちに口をはさんだ。少女は「もう良いわ」と言ってから気がついたという顔になり、少年の方に向き直った。
「ガイリス。あなたならわかるでしょう。伯爵は毎晩来ていたの? あの晩以来」
少年は傍目にも、びくついた顔になった。
「答えて。来ていたの?」
彼は青ざめ、冷や汗を流し、口を開いたり閉じたりした。その後伯爵の方を見ないようにしながら蚊の鳴くような声で、「おいででした」と言った。
「どうしてわたしに教えなかったの!」
「か、閣下は、密やかにおいででしたので。おれごときが口をはさめるわけもなく」
少女は伯爵の方を向いた。伯爵は渋い顔で、空になった茶碗を指でもてあそんでいた。
「毎晩何をしていたの。うちの側で」
ずばりと尋ねる。
「来ていたのでしょう? なぜ扉を叩かなかったの。わたし、来た人を一晩中外に立たせておくほど情け知らずじゃないわよ」
伯爵が意外そうな顔になり、少女を見つめた。ユーラは自分の言葉が出会った時の態度とかみ合わない事に気づき、顔を赤らめた。
「最初に会った時には、そうね。ちょっと……ひどい事をしてしまったけれど。それにいつも歓迎はできないわ。わたしにも予定があるし。でもその時にはそう言うから。来た時は、扉を叩いて声をかけてちょうだい」
「そなたがそれで良いのなら」
伯爵は神妙な顔をして言った。
「ええ、そうして」
少女はうなずき、言葉を継いだ。
「それで、まだ返事をもらっていないのだけれど。毎晩外で何をしていたの?」
伯爵は詰まった。しばらく沈黙していたが、やがて重い口を開き、答えた。
「考えていた」
「なにを」
「そなたの事を。そなたはわたしを嫌がっていた。贈り物も気に入らぬようであったし。それで……訪ねると、迷惑かと思ったのだ」
語られる言葉は多くはない。少女は辛抱強くそれを聞いた。
「迷惑な時はそう言うわ。それで?」
「嫌われるのではないかと……扉を叩くのがどうにも……決心がつかず」
ぼそぼそと伯爵が言い、ユーラは眉根を寄せた。自分はそんなに恐ろしげな印象を彼に与えてしまっていたのだろうか。
「決心がつかなくて、迷っていた?」
「うむ。それで、そなたの家を眺めていた。灯が消えて、静かになるのを見て、そなたは眠りについたのだと思い……、そうなると扉を叩くわけにもゆかず」
礼儀は一応心得ているのだと、少女は思った。
「そなたの安らぎを破るまいと。そのような真似をするものが寄らぬよう、周囲を見張った。しかしそなたが目を覚まし、外に出てくるのではないかという思いを捨てきる事もできず。そうこうしている内に夜明けが……」
「一晩中悩んでたの? 外に立ったまま?」
この闇魔族は変だ。少女は思った。その思いが顔にも出たらしい。伯爵は何やら、居心地悪そうな顔になった。
「そなたを悩ませる気はなかった。すまぬ」
「この所、三日に一度は来ていたわよね。残り二日は外でずっと立っていたの?」
「うむ」
「夜通しずっと? 大丈夫だったの?」
この言葉に、伯爵は表情を明るくした。
「わたしを案じてくれるのか?」
「当たり前でしょう。この辺りの夜は寒いのよ。人間だったら体を悪くしているわ。ねえ、でも、扉を叩くのに二日も悩まないといけないぐらい勇気がいったの? そんな怖い所なの、わたしの家は」
伯爵は慌てた様子で答えた。
「そうではない。わたしに意気地がなかっただけだ。そなたに嫌われるのではないかと思うと……足が前に進まなかった」
最後の辺りは身を小さくし、元気がなかった。どこか情けない表情をしている。それを見ている内にユーラは、自分が相手をいじめたような気がしてきた。
(闇魔族なのだけれど……それはわかっているのだけれど……)
こんなにしょげた顔をされてしまうと、強い態度に出られない。最初に彼を門前払いにしようとしたのは確かだし、それで扉を叩くのに躊躇するようになったと言うのなら……自分にも責任がある。
それにしても月牙伯爵が、これほどまで人間じみているとは知らなかった。
「氷玉。あのね」
少女は子どもに対するように穏やかな態度を心がけ、声をかけた。伯爵は顔を上げた。
「わたしは人族の時間に生きているから、昼間働いて夜には眠るの。だからあなたが来ても、疲れていて相手のできない時もあるわ。一晩中、相手もできない。眠らないといけないから。それはわかってもらえるかしら」
ゆっくりとかみ砕くように説明すると、彼はうなずいた。
「わかる」
「毎晩来られると確かにわたしも大変だわ。だからあなたが三日に一度にしてくれたのは、良かったと思う」
「そうか」
「ただ、あなたに色々と気を使わせてしまったのは、わたしの最初の態度が原因だと思うから。それは悪かったと思っているの。ごめんなさいね」
「そなたは悪くない。姫。そなたはわたしに、どのような事でも命じる事ができる。わたしの名はそなたのもの。ゆえにそなたがわたしに何を言おうと、何をしようとそれは、正しくそなたの権利なのだ」
少女は困った顔になった。
「闇魔族にとっての名前がどういうものなのか、わたしは知らない。権利って?」
「わたしはそなたを尊重したい。ゆえに名を捧げた」
「捧げる? でもそれは……、わたし、あなたの名を呼んではいけなかったの?」
すると伯爵は、ひどく悲しげな顔になった。
「捧げられた名を拒む事もできる。そなたはそうしたいか?」
何かあるような気がして、少女は慎重に尋ねた。
「拒んだら、どうなるの」
「どうもならない。そなたが拒むのであれば、それもそなたの権利だ」
少女は困惑の表情になり、ガイリスの方を見やった。部屋の隅で小さくなっていた少年は、視線を受けて少女の方に進み出た。
「魔族の方々にとって、自分の名を明かす事は、相手に自分の命を預けると宣言しているようなものなんです」
彼は気を使った風に、抑えた声で説明した。
「相手から明かされた名を拒むという事は、大変な失礼に当たります。人間風に言うなら、『顔も見たくない、おまえには生きている価値もない』と言ったのと同じです」
少女は唖然となった。彼の名を呼ぶ事に、そんな意味があるとは知らなかった。
「そんなに大変な事だったの? わたし……ああ、もう。氷玉。あなた、わたしに命を預けるような真似をしていたの?」
少女が伯爵の方を向くと、伯爵はうなずいた。
「そなたは尊重されねばならぬ存在だ」
「どうしろって言うのよ。わたし、ただの薬師なのに」
「何でも」
伯爵は言った。
「そなたには何であれ、わたしに命じる権限がある。そなたがそうであるよう、わたしが望んでその権利をそなたに捧げた。そうでなければならなかったからだ」
「いらないわよ、そんな権利」
眉をひそめて少女は、伯爵の言葉をばっさりと切り捨てた。自分の知らない内に命を捧げるような誓約をされていた事に衝撃を受けていたし、そんな権利を行使しろと言い張る伯爵に腹を立てていたのだ。彼女は伯爵を、友人と感じるようになっていた。なのに、彼はそうではなかった。相手の命を行使する権利。自分を尊重する為にと彼は言ったが、友人関係にそんなものが必要なはずがない。
「お茶をちょうだい。喉が乾いたわ」
持っていた茶碗をガイリスの方に差し出すと、彼は「お待ちを」と言って受け取り、あたふたしながら暖炉に向かった。伯爵は『いらない』と言われた衝撃に固まっていたが、恐る恐るという風に尋ねた。
「名を、拒むという事か?」
「あなたの事は嫌いじゃないわ」
強い口調で、少女はきっぱりと言った。伯爵はまばたいた。胸の奥で何かが弾けた気がしたのだ。
「そうか」
「馬鹿みたいに不器用なんだもの。人族の薬師ごときに頭を下げて、外でずっと立ちっぱなしで。名前まで明かしたりして。命を預けるですって? 本当に馬鹿よ、あなたは!」
言うごとに、少女の語調は強くなった。自分の命を軽んじるような真似をする伯爵に対して、とにかく腹が立っていた。命を預けるような真似を、なぜするのだ。自分ごときに。
伯爵は戸惑った顔になった。相手がなぜ怒るのかわからなかった。
「何を怒っているのだ」
「怒りたいからよ! 権利ですって?」
少女は立ち上がると伯爵の顔を見据えた。怒りに頬を染めているその表情を、伯爵は美しいと思った。
「だったらわたしが死ねと言ったら、あなたは死ぬの?」
「そなたの望みであれば」
半ば見とれながら伯爵が答えた。本心だった。しかしその言葉は少女の逆鱗に触れた。
「望むわけないでしょう!」
その声と共に音がした。伯爵はまばたいた。自分の頬が少女の平手で叩かれた事に、しばらくしてからようやく気づく。
「ご、ご主人さま……」
がしゃんという音がして、茶碗が床に落ちて割れた。ガイリスは震え上がっていた。闇魔族の貴族を少女が殴るという暴挙を、まともに見てしまった為だ。
「望まぬのか」
伯爵はひどく落ちついて見えた。実際には少なくない衝撃を覚えていたのだが、どんな反応をすれば良いのかわからなかったのだ。少女にはしかし、その態度も怒りに火を注ぐ結果になったらしい。
「当たり前でしょう、わたしを何だと思っているの。わたしが何をしていると。わたしの仕事を何だと思っているのっ!」
拳を握りしめる。本気で怒っているのが見てとれた。その手が少し赤くなっているのを見て、傷めなかっただろうかと伯爵は場違いな心配をした。
「薬師、だな」
「傷ついた者を助けるのがわたしの仕事よ。人を生かすのが。助けられなかった人たちを、どんな思いで見送って来たと……命が消えてゆくのを見るのがどれほどつらいか……、そのわたしがどうして、誰かの死を願ったりするのよ! わたし、あなたのこと結構好きだと思ってたのよ。なのに、何なのよそれは!」
叫ぶように言うと少女は唇を噛んだ。不意に、ひどく疲れた顔になる。伯爵から離れ、彼女は背を向けた。月牙伯爵は椅子から立ち上がり、少女に手を伸ばした。
「姫」
困惑していたが、最後の言葉に彼は、幸福を感じていた。
「触らないで」
そう言われ、伸ばした手を宙で止める。少女は背を向けたまま、ため息をついた。
「馬鹿な事をしたわ。八つ当たりなの。ごめんなさい。疲れているのね。何だかかっとしてしまって……」
「そなたは悪くない。わたしが不適当な事を言った」
「あなた、魔族ですもの。人や薬師の事、わからなくて当たり前だわ」
「姫。こちらを向いてくれ」
その言葉に自分を拒絶されたような気がした。背を向けられているのにも不安を覚え、伯爵は言った。少女はしかし首を振り、うつむいて手で顔を覆った。
「今、ひどい顔をしているから……」
激した感情が去った後は、自己嫌悪が彼女を襲っていた。自分が惨めで、涙が出る。彼の言葉は彼女の傷をえぐった。彼のせいではない。それはわかっていたのに……。
『ユーラ。あんたは生き延びろ』
『振り向くんじゃない、可愛い子。誰を犠牲にしても生きるんだ、いいね? あんたは最後の〈癒し手〉の末裔。最後に残されたあたしたちの希望……』
今も耳に残る、彼らの声。そうまでされる価値が、自分のどこにあったと言うのか。
こんな自分の、どこに。
伯爵は背を向けたままの少女に、どうすればという顔でガイリスを見やった。少年は二人を見比べると、後をお願いしますと言うように頭をぺこりと下げ、その場を離れた。残された伯爵は困った顔をしていたが、少女に近寄ると、恐る恐るという風に言った。
「なぜ泣く」
「泣いてなんかいないわ」
声音には嗚咽が混じっており、明らかに嘘だった。だが伯爵は、「そうか」と言っただけだった。
「自分が情けないのよ」
「自分が?」
「逃げてばかりで」
少女はつぶやくように言った。伯爵は今までの彼女の言動を思い浮かべ、何をどう逃げたのだろうと訝しく思った。
「そなたは逃げたのか?」
「そうよ。あなたに腹を立てて」
それがどうして逃げる事になるのだろう、と伯爵は思った。
「腹が立ったのは本当よ。あなたが、あんまり馬鹿な事をするから……」
「馬鹿な事?」
「わたしなんかに命を預けるなんて言うんですもの! それに……、死ぬ事をあんまり軽く言うものだから……」
薬師というのは命を大切にする仕事なのだと、伯爵にもおぼろにわかりかけていた。なぜそんな事をする必要があるのかは理解できないが、そういうものらしい。
この少女は自分の仕事に誇りを持っている。自分の言動に命を軽んじていると感じ、それで憤りを覚えたのだろうと伯爵は思った。
誰であれ、自身の仕事を軽んじられるような言動を取る者を見れば、それは腹が立つだろうとも。
「すまぬ」
詫びの言葉を口にする。それは少女の感情を傷つけてしまった事への詫びだった。不安だった。彼女が二度とこちらを見てくれないのではないかという気がして。
少女は背を向けたまま続けた。
「わたしなんかに……。あなた、もう少し自分を大切にしないと駄目よ」
「自分を?」
伯爵は少女の言葉の意味を考え、目を丸くした。
「姫。そなたが怒ったのは……その、違っていたらすまぬのだが。わたしの為を思っての事だったのか?」
少女は一瞬、沈黙してから答えた。
「そうよ。大事に思っている相手の命を、使い捨てろなんて、言われてもできないわ。あなたは闇魔族の貴族。ここの領主よ。なのに人族の薬師なんかに頭を下げて……どうしてそんな、馬鹿な真似をするの」
伯爵は微笑んだ。不安と困惑は消えていた。代わって何かが胸の奥ではじけた。小さな何かがいくつもはじけ、体中に広がってゆく。それが何であるのか、彼にはわからなかった。だが不快ではなかった。抑えようとしても、笑みが自然と頬に浮かぶ。
「わたしは、何よりも正しい行いをしたと思っている」
そう言うと、少女の肩が揺れた。
「わたしはそなたに敬意を払いたいのだ。ゆえに名を捧げた。愚かな行為と謗る者もいよう。だがわたしは、この愚かさを誇りに思っている。後悔はない」
不思議だと彼は思った。こんな事を自分が口にする時が来るなど、思ってもみなかった。誇り高い自分が、他者にひざまずく事を誇りに思う、などと。
だが彼は今、真実そう思っていた。
少女はゆるゆると首を振った。
「敬意を払われるような存在ではないわ、わたしは。あなたに怒る事で、自分の問題から逃げたのだもの。見なければならない事から目をそらして……」
「そなたの問題?」
少女はうなだれた。話したくないようだった。そんな少女を見ている内に、伯爵の中でまた変化が起こった。何かが胸の奥を締めつけているような、不安。
彼女に悲しんでほしくない。その輝きを曇らせたくない。微笑んでいてほしい。苦しむ姿は見たくない……。
胸が。痛む。
「逃げても良いのではないか」
伯爵は、静かに言った。少女の肩が、ぴくりと揺れた。
「そんな時もあろう。ならばそれは、それで良いではないか」
「逃げても良い……?」
少女は振り向いて、伯爵の方を見た。頬には涙があり、目も鼻も赤くなっていた。それでもそんな少女を、伯爵は美しいと思った。彼女の中には命が輝いている。自分たち闇魔族が、はるか昔に失ってしまった輝き。
胸の奥で、また何かがはじける。少女がこちらを見た事で、自分を見てくれた事で……何かがはじけて広がってゆく。
「闇魔族が……逃げろと言うの? あなた方は、どんな敵に出会っても決して退かないのを誇りにしているのではなかった?」
その通りだと伯爵は思った。闇魔族は戦いに生きる。敵を前にして逃げるなど、誇りが許さない。
だが自分は既に、愚かと言われる選択をした。戦にも、闇魔族としての名誉にも、もはや心は動かない。
そんな自分が不思議であり、哀れであり、誇らしくもあった。名誉が何だと言うのだろう。わたしの名誉など、塵のようなものだ。目の前にいるこの姫が存在する奇跡に比べれば。
「たまには良かろう。逃げる事が最良の手段である事もある。そなたが逃げたいのであれば、逃げて良い。そう思う」
伯爵がそう言うと、少女はまばたいた。沈黙が流れる。彼女の不興を買ったかと、月牙伯爵は不安になった。だがそうではなかった。少女は伯爵の言葉にただ、驚いていた。
やがて少女は、口を開いた。
「あなた、本当に変だわ。事情も知らずに断言して、……わたしの知っている闇魔族と、全、然ちが……」
そこで少女の目に涙があふれた。伯爵から顔をそむけ、背を向ける。
伯爵は立ち尽くしていた。どうすれば良いのかわからなかったのだ。何をしても少女の目から、涙をぬぐい去る事はできそうになかった。自分の言動が、ひどく愚かで無骨なものに思えた。それで黙って少女の背を眺め、彼女が何か言うのを待った。
少女は静かに泣いた。声を立てる事を自分に許さぬかのように。細くはあったがいつもは弱さなど感じさせない背が、頼り無げに見える。やがて彼女は伯爵に背を向けたまま、小さな声で言った。
「薔薇が咲いていたわ」
伯爵は少女を見つめた。少女は続けた。
「わたしの家族が……死んだ時。薔薇が咲いていたの」
「そうか」
「ひどい……ありさまだった。みんな焼かれて……わたし、わたしは」
少女は腕で、自分自身を抱きしめた。
「助けられなかった。誰も。誰ひとり」
彼女が震えているのに伯爵は気づいた。
「みんなわたしを信頼していたのに」
「姫」
「なのにわたしは、助けられなかった。誰ひとり! 逃げたのよ」
「姫」
少女の震えは止まらない。自身の体を抱きしめ、絞り出すような声で彼女は続けた。
「逃げたの、わたしは。あれ以来逃げ続けている。こんな自分が嫌でたまらない。でも薔薇を見ると身がすくむ。わたしは……自分の義務からも逃げているの。こんなわたしは嫌い。卑怯で、臆病で、」
「誇り高く、美しい」
伯爵が静かに言った。
「そなたは得難い宝のような女性だ。その心は黄金に勝り、高潔で優しく勇気がある」
少女の体の震えが止まった。だが彼女は、のろのろと首を振った。
「わたしはそんな者ではないわ」
「間違いなくそなたはそういう存在だ。わたしにはそれがわかる」
伯爵は少女の側に歩み寄り、ためらいがちにそっと肩を抱いた。彼女の言葉に逆らう事になるが、必要な気がしたのだ。
「己を責めるでない。いかに腕の良い薬師でも、死者を甦らせる事はできぬ」
「わたしのせいなの」
「死は誰にも平等に訪れるもの。そなたのせいなどであるものか」
「いいえ。わたしのせいなの。わたしが、治療をする事を知られて……」
少女はうなだれた。伯爵は得心した。治療を行う者は、迫害の対象とされる。
「狩られたのか」
「わたし以外はみんな」
力なく言うと、少女は手で顔を覆った。新たな涙があふれ落ちた。苦しい。胸が痛い。息ができない。思い出がよみがえる……よみがえってしまう。
「ほんの小さな子どもすら、許されなかっ……」
伯爵は少女を自分の胸に抱き寄せた。少女は彼の胸にもたれ、低く嗚咽をもらした。脳裏にあの光景がよみがえる。焼け落ちた幌馬車の残骸。燃やされた小さな体。見せしめに晒された首……愛していた者たちの。
薔薇が咲いていた。真紅の薔薇が。くすぶる煙の匂いがまだ残るその場所に、血のように赤い花びらが舞っていた。風の中に。
ガイリスが戻った時、伯爵は少女を腕に抱いて立っていた。あるじである少女は彼にもたれ、その胸に顔を伏せている。お邪魔かと少年は踵を返そうとしたが、その前に伯爵に声をかけられた。
「待て、半獣の。姫の寝所はどこだ」
「え、あ? 寝ていらっしゃる……ので?」
声をひそめて尋ねると、伯爵はうなずいた。
「話している内に、眠ってしまった」
「すぐに用意いたします」
ガイリスは足音を立てぬよう、そっと歩いて家の奥の仕切りの方へ行った。布が一枚吊るしてあるだけのそこには、少女の寝床があった。藁を集めて敷布をかけ、毛布を広げただけの粗末なものだったが。
ガイリスは敷布や毛布を整えると、暖炉の方へ行き、火箸を使って焼けた煉瓦を取り出した。ぼろ布で手際良くくるむと、温かいそれを毛布と敷布の間に入れ、何度か行き来させた後、足が来るだろう辺りに置く。
「用意できました」
言われて伯爵は、少女を抱き上げた。起こさないよう気をつけながら、できるだけそっと歩いて少女を運ぶ。
「その煉瓦は、何の為だ」
「人族の体には、寒さがこたえます。とてももろい体をしていますから。今の時期でも、人族には寒いのです。少しでも暖かくお過ごし願えればと思って、覚えました」
ガイリスは答えた。
「おれは弱い半獣です。人族並だと良く言われました。ずっとそれが嫌でした。でも今では良かったと思っています。ご主人さまのつらさが少しはわかりますから……」
「そうか」
伯爵は少年をうらやましいと思った。彼女のつらさは自分には、わからない。
「毛布は今少し入り用か?」
「あと二枚ほどいただければ、ありがたく思います。ご主人さまは何もおっしゃいませんが、たまに寒そうにしておいでで」
ガイリスの言葉にうなずくと、伯爵は片膝をついて少女を寝床に寝かせ、靴をぬがせてやり、毛布をそっとかけた。その上に自分のマントをさらにかける。
「ないよりはましであろう」
つぶやくように言うと、眠る少女を見つめる。少女の頬には涙の跡が残っていた。伯爵は少女に手を伸ばした。頬に触れようとしてためらい、指を止める。結局触れずに彼は、手を引いた。そのまましばらく少女を見つめていたが、やがて小さく息をついた。
「薔薇が咲いていたと言っていた」
「は?」
「薔薇がな。そう言って泣いた」
月牙伯爵はガイリスの方を見た。
「そのほうは、姫の事情を知っているのか」
「い、いえ。おれは、ご主人さまが旅をされていた頃に拾っていただいたので。それより前に、どこで何があったのかは」
「そうか。姫を苦しめた輩は、一人残らず引き裂いてやろうと思ったのだがな」
「ご主人さまを、苦しめた……?」
「そのほうのあるじは、重荷を負うているようだ。わたしにも詳しくはわからぬが。義務から逃げたと言っていたが。何の事だ」
ガイリスは首を振った。
「わかりません。ただこの方を誰かが苦しめたのであれば、おれはその誰かを許しません」
伯爵はこの言葉を聞いて微かに笑った。
「半獣ごときがこのわたしを差し置いて、良く言う。それはわたしのすべき事。そのほうは姫の側で、姫を守れ。姫が健やかにあれるよう、心を配るが良い」
「は、はい」
ガイリスは背筋を伸ばした。伯爵はしかし、少年の方を見てもいなかった。眠る少女に視線を戻し、見つめている。
「荒野に咲く花のようだ。繊細で、もろくはかない。だと言うのに、吹く風に向かって顔を上げる。まだ、つぼみだが」
伯爵は微笑んだ。自分では気づいていなかったのだろうが、その笑みはひどく優しいものだった。
「良き夢がそなたを訪れるように。わたしはそなたを風からも嵐からも守ってみせよう。わが姫よ」
……伯爵さま。それではス○ーカー……。
朗読していた詩は、ジョン・キーツ(John Keats)「夜鳴鶯の賦(Ode to a Nightingale)」からの引用です。ちょーっと、いや、かなり? 意訳ぎみ。