3.夜の客人(まろうど)
夜明けが近い。
蒼月闇の城の奥深く、日の光の届かぬ闇の底で、月牙伯爵は眠りにつこうとしていた。思うのは、彼をとらえた少女の面影。
彫像のように整った美貌に笑みが浮かぶ。
あのような存在がいるとは思ってもいなかった。彼女を見に行ったのは、ただの暇潰しだった。夜から夜へと続く長い生。果てる事のない鬱屈。滅びへの憧憬は自身をじりじりと焼き続け、それでいて闇魔族としての誇りが劣った者に倒される事を許さない。
この矛盾。この苦しみ。
それをわずかに紛らわせるだけのただの気晴らし。そう思っていたのに。
供も連れず訪れた廃村で、少女は歌っていた。夜の闇をものともせず、自身が太陽のように輝いて。彼女の歌は、力だった。それは繊細でいて力強く、空間と時を縛り、同時に解放していた。光は彼女自身の内側から、泉のように沸き上がっていた。まるで底がないかのように。
目を奪われた。身動き一つできなかった。見たことのない太陽が、そこにあった。あの歌。あの力。あの存在。この身を焼く呪わしい光、闇魔族が闇魔族である限り、決して手に入らないもの。それが、そこに。
すぐにわかった。これは自分に滅びをもたらす。滅ぼさねば、自身が滅びると。
恐怖を感じた。初めて知る感情だった。
殺意が生まれた。自身を脅かすこのちっぽけな存在に。
憧れが生じた。この小さな太陽に。
自身に終わりをくれるだろうこの存在にひざまずき、崇めたいと、彼は心の底から願っていた。激しい葛藤が生じた。身を引き裂かれんばかりのものだった。その時、彼女が歌いやめてこちらを向いた。
その瞳が彼を映した時。全てが吹き飛んだ。意地も誇りも、何もかもが。
それでも彼女を殺さねばという小さなささやきが残っていたが、彼女の面に厳しい表情が浮かび、断固とした態度で名乗れと命じられた時に、最後の抵抗も打ち砕かれた。彼は全面的に降伏した。そうして自ら名を捧げ、彼女を自身の支配者と認めたのである。
彼女に名を捧げた事が誇らしい。ひざまずく事に喜びを覚える。
こんな自分が不思議だった。かつての自分であれば、あり得ぬと嘲笑った事だろう。だが今の彼は、彼女に縛られる事を誇りに思っていた。相手に自ら名を捧げた魔族は、その相手に名を呼ばれるたびに縛られる。彼は数多の魔族たちから名を捧げられた闇魔族であり、決して誰にも縛られてはならぬ存在でもあった。
しかし彼は自ら彼女に名を捧げ、彼女に支配される事を選んだ。
彼女に名を呼ばれるたびに、幸福に目の眩む思いがする。その手が、自分に触れるのを感じたい。その声が、自分を呼ぶのを聞きたい。微笑んで欲しい。まなざしを、ただ向けて欲しい……。
陽が昇った。闇の中で伯爵は、その気配を感じた。目を閉じる。
次に夜が来るまで、自分たちの世界は失せる。
力と長寿を得た代償は、世界の半分を失う事だった。昼の世界を自分たちは知らない。生まれてより滅びる時まで、知る事はない。世界は去ってゆく。意識も、力も、何もかもが。夜が、またやって来るまで。
体が強張り、硬く、重くなってゆく。ちりちりとした苦痛。ここまでは届かぬはずの陽光を、それでも肌が感じているのだ。
闇魔族としての本能が、世界から意識を切り離す。伯爵は急速に、眠りの中へと落ちていった。
側に、いたい。最後に彼は、そう思った。
1
続く二巡月、闇魔族の馬車がレサンの村に向かうのを、近隣の村人たちは何度も目撃した。月牙伯爵がユーラの元をしばしば訪れ、少女に贈り物をした為だ。
エニ村を始めとする村々では、その事がひそやかに囁かれるようになった。人々は、レサンの薬師が闇魔族の愛人になったのではと噂した。
しかし薬師本人が村にやって来るとみな口を閉ざし、知らぬふりをした。愛想良くふるまいはするものの、決して必要以上に近寄らない。彼女の不興を買えば、自分たちにも被害が及ぶ。さりとて闇魔族とは関わりたくない。それゆえの対応だった。
闇魔族の愛人となった娘は通常、悲惨な末路をたどる。飽きられて忘れられるなら良い方で、大抵は処刑されるか、配下の半獣族の玩具にされた上で、殺された。その際には、娘の近親者や親しくしていた者も、一緒に殺される事が多い。
レサンの薬師は村々の間では禁忌に似た存在となり、人々はなるべくそちらに目を向けぬよう、近づかぬようにしようとするようになった。
* * *
「人が来ないわね」
古びたスパイス挽きで乾いた薬草を砕きながら、ユーラは言った。小さなすりこぎを木の鉢に押し付けるたび、良い香りが広がる。
エニ村では春の祭りがついこの間、終わった。木々は芽吹き、新たな緑が大地のそこここに顔を出す。月がもう二巡りもすれば、夏至が来る。今使っているのは前の年に収穫した薬草だが、じきに新しいものを使えるようになるだろう。
寒さは日々、緩みつつある。
陽が落ちると冷え込むのは相変わらずだが、ここでは暖かな火が燃えていた。小さな家にはそこら中に薬効のある花や草木が並べられ、あるいは吊り下げられている。
壁には伯爵から贈られた綴れ織りがかけられ、すきま風を防ぐと共に、家の印象を華やいだものにしていた。分厚い三枚の綴れ織りは、それぞれが壁を一面覆ってしまうほどに大きく、やわらかな色合いで花や小鳥が織り込まれている。
高価な品である事は見ただけでわかった。ちっぽけなあばら家にそれは随分な贅沢で、少女は今でも見るたびに少し、落ちつかなかった。
すきま風は病人の体に障るので、防ぎたいとは思っていたのだが、布の美しさと上等さが自分にはそぐわない気がする。
「雪で冬に来にくい分、いつもならもっと人が来ているわ。春ですもの。なのに来ない」
手を動かしながら、少女は言った。ガイリスが「そうですね」と相づちを打った。
「どうして誰も来ないのだと思う?」
少年は微妙にうろたえた表情になった。
「村へ行くとみんな、愛想は良いのよ。でも影でひそひそ言っているの」
少年は「はあ」とつぶやいた。
「原因があるはずよね?」
「あの……おれ、薪取って来ます」
ガイリスはそそくさとその場を離れた。残された少女は、椅子に腰かけ、悠然と彼女を眺めている月牙伯爵を睨んだ。
「何だってこう、たびたび来るわけ? 特に用があるわけでもないのに」
少女にも、村人の態度が彼のせいだという事ぐらいはわかっていた。伯爵はこの所、三日おきぐらいに顔を見せる。そうして夜中過ぎまでここで過ごし、帰って行く。
だが特に用があるわけでもない。ここへ来ては彼女の生活を興味深げに眺める。それだけだ。
最初の内こそユーラは訪ねてくる伯爵の為にお茶を用意したり、話をしたりしていたのだが、睡眠が削られる上に、予定している作業も遅れる。という事で、彼女は自分の予定を優先する事にした。彼にはできるだけ、取り合わないようにしている。
なのに彼は、それでも来る。
「用ならあるぞ。そなたに会うという。しかしそなたは、好みが難しいな。どのような品を贈れば喜んでもらえるのだろう」
伯爵はユーラに、山ほどの宝石と、豪華な衣装を贈っていた。ここに来た翌日には届けられるので、都合十回ぐらいは贈られている。だが少女はそれらを全て、使いの者に持って帰らせていた。村の薬師には過ぎた品だと思ったからだ。
「受け取るいわれがないからよ。治療をしたわけでもないのに、報酬はもらえないわ」
「報酬などではないぞ。似合うと思ったので贈ったのだ」
少女は思わず手を止めた。彼の方を向く。
「わたしを飾って、何か楽しいの?」
月牙伯爵は首をかしげた。
「そなたに喜んで欲しかったのだが……」
「受け取れないわ」
「好みがわからぬゆえ、様々なものを贈ったのだが。不快にさせた事をすまなく思う。より美しいものを探すゆえ、許してほしい」
会話がすれ違っていると少女は思った。
「そうではなくて……わたし、綺麗な衣装や宝石はいらないのよ。あんなものを身につけて、畑仕事はできないもの」
はっきり言っておいた方が良いだろうと思って言う。
「綴れ織りもありがたかったけれど……もらって良かったのか、今でも悩むの」
「気に入らなかったのか?」
「ううん、素敵よ。すきま風も防げるし」
そう言うと伯爵は真面目な顔で、「欲しいのであれば、もっと持って来る」と言った。少女は苦笑した。
「そんなにあっても、かける所がないわ。うち、狭いから。十分よ。でも気になって」
「気になる? なぜ」
「この織物一枚で、人族の家族が二、三年は暮らせるわ。わたしにとっても高価な物なの。見るたびに何だか気がとがめて」
伯爵は不思議そうな顔になった。
「気に入ったのであれば、取れば良い。やはり気に入らなかったのではないのか」
「気に入っているわ。綺麗だもの」
「ならば……」
「わたしが気にしているのはね。あなたからの贈り物が高価なものだからなの」
伯爵は、わけがわからないという顔になった。
「高価? これはさほど良い品ではないぞ。そなたには最高級の品を贈りたかったのだが、紫忌が反対したのだ。若い人族の娘には、金銀を織り込み宝石を飾ったものよりも、あっさりとした品の方が良いと」
「弟さんに感謝するわ」
自分の家に宝石のぶら下がった綴れ織りがずらりと並んでいる光景を想像してしまい、ユーラは思わずそう言った。さぞ、見るたびに落ちつかなかった事だろう。
「そなた、宝石が嫌いなのか?」
「見ている分には好きよ。ええと、でもね。どうしてわたしに贈り物をするの?」
「贈りたいからだ」
「そうなの? どうして?」
「そなたの喜ぶ顔が見たい」
真面目な顔でそう言った月牙伯爵に、少女はぱちくりとした後、顔を少し赤らめた。
「正直なのね、氷玉。でもそれ、言い方に気をつけないと誤解されるわよ」
「何を誤解するのだ? わたしはそなたの喜ぶ事がしたい。喜ぶような品を贈りたい。はっきりしているではないか。誤解のしようがないと思うが」
不思議そうに彼は言い、ユーラはさらに顔を赤くした。
「ありがとう。でも人族と魔族とでは習慣が違うの。贈り物はうれしいのだけれど、」
「うれしいと思ってもらえたのか?」
伯爵は顔を輝かせた。ユーラはその顔に気を取られかけたが、慌てて気を引き締めた。
「ええ。あの、……あのね。人族の若い娘は、あまり高価な品物は受け取れないの」
「そうなのか?」
「若い娘は知り合って間もない人からは、高価な品を受け取ってはいけないの。小さなものや、花ならかまわないけれど」
「なぜだ?」
「人がすぐ、増長するからじゃない?」
くすっと笑って少女は言った。
「それに若い娘は、誘惑に弱いわ。綺麗なものや、素敵なものをくれる人にはついて行きたくなってしまう。相手がひどい人でもね。それを防ぐ意味があるんじゃないかしら」
伯爵は眉根を寄せて、何か考え込んでいる。ユーラは続けた。
「親や兄弟からならいいの。結婚の約束をした人からもね。それ以外の男性からは、高価な品を受け取ってはいけないの。わかる?」
「良くわからぬ。では、わたしは宝石を贈ってはいけなかったのか?」
「最初に贈ってくれたものは、取ってあるわ。お詫びとお礼の品だと書いてあったから。
でも後からのものは、受け取れないわ。もらう理由がないのですもの。
第一、あんな高価な品は、わたしには似合わない……」
「そなたは美しいぞ」
伯爵の言葉に少女は言葉を失った。月牙伯爵はごく真面目に、当たり前の事を言うような口調で言った。
「そなたの内には生命が炎のように明るく輝き、息づいている。わたしは見たことがないが、太陽というのはそなたのようであるのだろう。美しいと思う」
ユーラは絶句した。こんな言葉を言われた事はなかったし、相手がすらすらと口にした事にも驚いた。
「氷玉……それ、本気で言ってる……?」
「そうだが?」
不思議そうに言われ、ユーラは赤くなった顔を手で覆ってうつむいた。こんな言葉を聞かされるとは思わなかった。
家族を失って放浪を始めてからは、ぼろをまとい、泥にまみれた姿の自分を好意的な目で見る者は少なかった。ガイリスにしても、好意は口にするが、『美しい』という言葉を使った事はない。
そう言ってくれたのは、もういない人々だけ。
『あんたの母さんは綺麗な人だった。きっとあんたも綺麗になるよ』
そう言ってくれた、ジーナおばば。
『おれたちの可愛いお姫さま』
父親代わりのサットンは、いつも自分をそう呼んだ。
『ユーラお姉ちゃんは、ぼくのお姫さまだよ』
『エミーもおひめさまになる。お姉ちゃんみたいに、おひめさまになる』
マーシュ、エミー。一緒に育った子どもたち。彼らを失って以来、そんな言葉は聞かなかった。誰も言ってくれなかった。なのにどうして今ここで、人ではない魔族から、そんな言葉を聞かされるのだろう。
涙が出そうになった。
「どうした。何かあったのか?」
「聞き慣れない言葉を聞いたものだから、びっくりして……」
涙をこらえて少女は言った。
「わたしは何か、まずいことを言ったのか」
「いいえ。うれしかったの。ありがとう。でもあなた、口がうまいって言われた事ある?」
「戦上手だと言われた事ならあるが……」
これは闇魔族だ、とユーラは思った。人間ではない。感覚が違うのだ。多分、彼には先ほどの言葉は、あまり意味がないのだろう。
「わたしは、そんなに綺麗ではないわよ。綺麗な人なら、魔族にもたくさんいるでしょう」
何とか気持ちを落ちつかせてそう言うと、伯爵は真面目な顔で言った。
「いる事にはいる。だがわたしには、そなたの方が美しく見える」
ユーラはまた顔を赤らめた。うれしいとは思ったが、気恥ずかしさの方が先に立った。自分が綺麗でない事はわかっている。髪はばさばさだし、肌も荒れ放題。ぎずぎすとやせて、女らしい丸みのかけらもない。
「やめてちょうだい。わたしなんかにお世辞を言わなくても……」
「世辞? わたしが言ったのは事実だぞ」
伯爵は心外という顔になった。
「そなたは咲く前のつぼみだ。食べるものが足りておらなんだゆえ、今はやせているが。しかるべき食事をとり、身形を整えれば、そなたが美しい事に誰であれ気づく。わたしは既に気づいているが」
伯爵は立ち上がると、少女の側に歩み寄った。
「ゆえに衣装や飾りを贈った。そなたが喜ぶと思ったのだが……」
「わたし、こういう作業をするから。動きやすい服の方がいいの。結構汚れるのよ」
ユーラは『美しい』云々の言葉は無視する事に決め、テーブルの上に広げられた薬草やスパイス挽きを手で示した。
「あの半獣に任せれば良いではないか」
「これはわたしの仕事よ? 自分の手でやらなくてどうするの」
ユーラはきっとした顔で言った。伯爵はすまなそうな顔になった。
「すまぬ」
少女は息をついた。つい、きつい言い方になってしまったと反省する。声の調子をやわらかくして彼女は言った。
「良いのよ。ガイリスは良くやってくれているわ。でも繊細な作業では少し……、自分の目で確認しないと不安が残るの」
伯爵は肩を落としていたが、うなずいた。それから卓上の薬草を眺め、天井から吊り下げられた草や花を見上げた。
「そなたの仕事というのは、どのようなものなのだ?」
何度もここへ来ているのに、わからなかったのかと少女は思った。だが彼が来るのは夜に限られていたし、治療をしている所を見たわけでもないと、思い直した。人族ではないのだし、わからなくても仕方がない。
「薬師の仕事は色々よ。基本は怪我人や、病人を助ける事。弱っている人をね。痛みを和らげる薬を作ったり、相談に乗ったり」
ユーラは答えた。伯爵は尋ねた。
「この草や花にも、何か意味があるのか?」
「乾かしているのよ」
「乾かして、どうするのだ」
「薬にするの。食事に使うものもあるわ」
ユーラは立ち上がると、吊るしてある草の方へ行き、説明した。
「これは松や樅の木の樹脂。虫よけになるし、空気を綺麗にしてくれるわ。薄荷は胃の働きを整える。アグリモニーは喉に良いの。傷薬の材料にもなるわ。金盞花と、夏枯草もね」
月牙伯爵は珍しそうな顔をした。
「人族とは、面白い事をするものだな」
「あなたたちみたいに体が頑丈ではないからよ。ちょっとした事ですぐ傷ついたり、動かなくなったりするのだもの。だから自然の中で助けてくれるものを探して、使わせてもらうの。感謝の心を持ってね」
少女は言った。
「人は弱いから、助け合わないと生きてゆけないのよ。こうした植物からも、わたしたちは助けてもらって……何をしているの?」
伯爵が干して間もない草の束をいじっているのを見て、ユーラは不審そうな顔になった。すると彼は、その束を差し出した。
「乾かすとは、これぐらいで良いのか?」
まだ瑞々《みずみず》しかったはずの植物の葉が、ぱりぱりに乾いていた。
「どうしたの? これ」
「水分を抜いた」
驚いて言うと、伯爵が答えた。ユーラは植物に手で触れた。乾ききった植物はもろくも形を崩し、細かな塵になって床に散った。
「乾かしすぎよ。塵になってしまったわ」
「すまぬ。加減が良くわからなかった」
すまなそうな顔になった伯爵に、彼女は苦笑して首を振った。
「いいのよ。どうして急に、こんな事を?」
「そなたの喜ぶ事をしたかったのだが……」
肩を落とした伯爵に、ユーラはすまないような気になった。悪い人(魔族だが)ではないのだ。何度も来るのは困りものだが、薬師という存在が珍しいのだろう。
色々な品物を贈るのも、何か好意を示したいという、単にそれだけの事のようだ。高価な品物ばかりだが、彼の身分からするとさしたる出費でもないのだろう。噂になるのは困るが……それだって彼の責任ではない。闇魔族が何かすればどうしたって噂になる。
「気にしないで。薬草はまだあるから」
元気づけるように微笑んで言うと、伯爵は顔を上げた。
「怒っておらぬのか?」
「怒っていないわ。手伝いたいと思ったのでしょう? そんな顔をしないで。こっちの薬草でもう一度、やってみてくれる?」
そう言うと、別の一束を渡す。
「形が残るぐらいに乾かせるかしら」
「これぐらいか?」
伯爵は、真剣な顔で薬草に触れた。し損じた分を挽回しようという意気込みが伝わってくる。少女はその様子に笑い出したくなったが、我慢した。伯爵が差し出した薬草に触れ、「もう少し」と言う。
「では、これぐらいか」
「そうね。これぐらいが理想かしら。良く乾いているわ。ありがとう、氷玉」
受け取って礼を言うと、伯爵はうれしそうに微笑んだ。
「他の薬草も、みんな乾かしてやろうか」
「いいえ、今はこれだけで良いわ。できれば自然な状態で乾かしたいから。でも急いで何かを乾かしたい時には、また頼むわね」
そう言うと、伯爵はどことなく誇らしげににっこりし、うなずいた。
(子どもと話をしているみたい……)
ユーラはそう思った。以前にも感じたが、彼の表情は時々、母親やお姉さんに手際をほめられ、得意になっている子どもに似ている。ついうっかり、可愛いと思ってしまいそうだった。相手は闇魔族なのに。
「薬師の仕事に興味があるのね」
椅子に戻り、作業を再開する。乾いた薬草を砕き始めると、伯爵が側に来てじっと見つめた。そう言うと伯爵は、うなずいた。
「面白い。今まで気に留めた事もなかったのだが。それは何になるのだ」
「軟膏よ。これと他の材料を合わせて、葡萄酒と一緒に油に混ぜるの。沸騰させてから漉して、同じ事を何回かくり返して出来上がり。三日はかかるけれど、長持ちするわ。
蒸留して成分を取り出す方法もあるけれど、わたしはそのやり方を知らないの。設備もないし」
手を止めて、ユーラは息をついた。
「学んでみたいけれど、この辺りでは知識を持っている人がいないし」
「なぜだ?」
「薬師自体、数が少ないのよ。魔族も半獣族も、治療師を嫌っているから」
少女は「あなたは違うみたいだけれど」と言ってから続けた。
「不興を買えば真先に殺されてしまう存在なのよ、治療師は。だからみんな、隠れてばらばらに暮らしている。
そんな状態だから、誰かが優れた技術を編み出しても、伝わらずに消えてしまう事が多いの。
どれだけの知識が消えてしまったのか、考えると悔しくなるわ。それがあれば、どれだけの人が助かったのかと思うと。薬師が表立って活動できる場所があれば。集まって知識を交換したり、教えたりできる場所が、一つでもあれば……」
少女はため息をつくと、作業に戻った。ていねいに薬草を砕いてゆく。
「砕くのは、成分が良く溶け出すようによ」
手元を眺める伯爵に、彼女は説明した。
「わたしに教えてくれたジーナおばばは、そう言っていたわ。感謝する心を込めて薬草を砕き、神聖なものを扱っていると思いながら鵞鳥や、牛の油を扱えって。
どれも自分の命をわたしたちに捧げてくれた。だから、粗末には決してするなと。
厳しかったけれど、本当の意味で優しい人だった。あの人がいなければ、わたしは今ここにこうしていないわ」
少女の手元を見つめていた伯爵は、「呪いのようだな」と言った。
「まじない? 何が」
「死んだ動物から取り出した油に、植物の残骸を混ぜて煮る。呪いのようだ」
少女は妙な顔になった。
「その言い方だとわたし、すごく怪しいものを作っているみたいじゃない……ただの薬よ。指のひびわれに塗ったら楽になるわ」
そこで少女は言葉を止めた。伯爵が彼女の手を取り、指先を眺めたからだ。畑仕事や家事をする彼女の手は、爪がぎざぎざになって泥が入り込み、節も目立っている。指先には、治りきらないあかぎれ。
その様を見、「荒れているな」と伯爵はつぶやいた。自分の手のありさまはわかっていたので、ユーラは少しきつい口調で言った。
「当たり前でしょう、働いているんだもの」
「痛むのか?」
「それは、痛むわ。でもこれぐらいは……」
伯爵がつらそうな顔になったので、ユーラは言葉を止めた。
「氷玉? なんて顔をしてるの」
「わたしには、他者の傷を癒す力がない」
「知っているわ。闇魔族は魔力を持っているけれど、治癒に関する力は持たないって。それがどうか?」
「あれば良いのにと思ったのだ」
「何が?」
「傷を癒す力が」
そう言うと伯爵は身を屈め、少女の指先に口づけた。少女は驚いたが、あまりにも自然に行われたので止められなかった。ひんやりとした闇魔族特有の体温を、彼女は手首と指先に感じた。そこから伝わる、彼からの気づかいを。心配してくれているのだ、と彼女は思った。態度は少し、妙だが。
伯爵が何事もなかったかのように身を起こした後は、何か言うのも変な気がして、少女は手を引っ込めるのみにとどめた。伯爵は残念そうな顔をしたが、少女の手を放した。
「大丈夫よ。軟膏ができたら指に塗るから。そうしたらすぐに治るわ」
少し気恥ずかしかったが、少女は何でもない風を装って言った。
「癒すのはわたしの仕事よ。あなたが傷ついたなら、その時には薬を持って行くわ」
「薬?」
「ええ。闇魔族にも薬草は効くかしら?」
伯爵は、周囲の薬草をちらと見た。
「ここにある植物はどれも、われらに何の影響も与えない。だがそなたがその手で作り上げた物であれば、効果はあるやもしれぬ」
「どういう意味?」
「われらには大抵の毒は効かぬし、薬もおそらくは同様であろう。したがわれらは身の内に力を持つ者。ゆえにそなたがその手で選び、作り上げた物には影響されよう。そなたの作る物には、そなたの思いがあるゆえ」
「心がこもっているから? 闇魔族の薬を作る時には、腹を立ててちゃいけないのね」
少女は伯爵の言葉を世辞の類と受け止めた。くすくす笑うと、スパイス挽きでの作業に戻る。
「何だか信じられないわ。闇魔族にも、あなたみたいな人がいるのね」
少女は言った。伯爵は眉を上げた。
「わたしがどうかしたか?」
「話していると、楽しいわ」
実際、そうだった。ユーラは彼との会話を楽しんでいた。彼はまるで子どものように、何にでも興味を示す。その姿を見ているのも楽しかった。
伯爵は驚いた顔になり、ついで破顔した。
「そうか」
「不愉快な人ばかり見てきたから、闇魔族は。あんまり細かくなってないわねえ……」
手を止めてそう言うと、伯爵が「代わろう」と言って手を出してきた。少女は椅子を譲ると彼の側に立った。
「ありがとう。細かくすり潰してくれる? ていねいにね」
「む?」
伯爵は慎重に薬草をすり潰し始めたが、ほどなくして妙な音がし、手の中で鉢とすりこぎが砕けた。壊れた道具を彼は、途方に暮れた顔で見つめた。力を入れすぎたらしい。
「すまぬ」
少女もさすがに呆気に取られた。だがすぐに、意気消沈している伯爵に気づいた。悪気があってした事ではないのだ。息をついてから、なぐさめるように肩を叩く。
「良いのよ。力が強すぎるのも大変ね」
「つい力が入った。慣れぬもので……」
「やった事がないのだもの。仕方がないわ。古かったから、弱くなっていたし」
「これと同じものを届けさせる」
「そうしてもらえるとありがたいわ」
少女の笑みに、伯爵は力強く言った。
「すぐに探させる」
うなずいたユーラだったが、闇魔族や半獣族たちのやり方を今までに見てきているので、釘をさすのは忘れなかった。
「でも氷玉。誰かから取り上げるような真似はしないでね」
「取り上げる?」
「わたしと同じように薬を作っている人なら、こうした道具は持っているわ。料理が上手な主婦も持っていると思う。でもそういう人たちは、必要があって使っているの。取り上げて持って来るのは駄目よ。その人たちが困るから」
「しかし、そなたも困るのではないか」
伯爵の言葉に、少女は厳しい顔になった。
「薬師の所には怪我人や病人が来るわ。薬が不足した時に追加が作れなかったら、その人たちが死んでしまうかもしれないでしょう。
お料理をする人も、取り上げられたら家族全員が困るわよ。うちには今の所、訪れる人はほとんどいないし。すり潰す以外の作業なら問題なくできるわ。しばらくは大丈夫」
伯爵は思案した後、うなずいた。
「商われている物を探させよう。だがこれで、そなたは軟膏が作れなくなった」
「何とかするわ」
「すまぬ」
もう一度詫びて、伯爵は少女の手を取った。
「わたしは城を砕く事も、大地を割る事もできる。だがそなたの傷一つ、なおすことができぬ。力など、あっても何の意味もないな」
「あればあったで役には立つわよ。さっき薬草を乾かしてくれたでしょう? 洗濯物がたくさんある時は、あなたを呼ぶわね」
微笑んでユーラは言った。伯爵は、どこかまぶしげにその笑みを見つめた。
「そなたは強いな」
「ないこと尽くしでやってきたからよ。工夫するしか仕方ないでしょ」
「あのう……、お茶が入りました」
そこでびくびくした感じでガイリスが言った。伯爵と少女は暖炉の方を振り向いた。少年はとうの昔に戻ってきており、今までお茶の支度をしていた。声をかける機会をずっと、待っていたらしい。
「ありがとう。今日は何のお茶?」
「干したイラクサの葉に、詰め草と薄荷を刻み入れました」
「良さそうね。氷玉、お茶にしましょう」
伯爵に声をかけると、少女は暖炉の側へ行った。後に続いた伯爵に椅子を勧め、自分もガイリスが用意してくれた椅子に座る。
「これにも、何か効果があるのか?」
渡された香草茶を見て伯爵が尋ねる。
「嗜好品みたいなものよ。イラクサの葉は体を強くすると言われているけれど。合わせる薬草や分量を、色々試しているの」
伯爵は香りを確かめるようにした。少女は渡された茶碗を、礼を言って受け取った。
「ありがとう、ガイリス。良い香りだわ。氷玉。闇魔族にはお茶を飲む習慣はないの?」
「葡萄酒ならば、たまに」
彼女はどんな品を贈れば喜んでくれるのだろう、と伯爵は思った。草や花の茶が嗜好品。宝石や絹は喜ばない。
今まで知っていた女性たちは豪華な衣装や宝石を喜んだので、そのつもりで贈っていたが。人族の若い娘にそうした品を贈ってはいけないのだとは知らなかった。
小さなものとは何だろう、と彼女の言葉を思い返す。薬師は植物を扱う者のようだ。植物に関した品を贈った方が良いのだろうか……。
「先ほどそなたは知識の散逸を嘆いていたが……書を読む事は好きか?」
思いついて彼は尋ねた。
「好きよ。旅暮らしではそんな贅沢はできなかったけれど……何か本があるの?」
目を輝かせた少女に、間違ってはいなかったと思い、伯爵はうなずいた。
「城に書籍を集めた部屋がある。薬草に関したものもあるはずだ。読みたいのであれば、持って来よう」
「まあ。うれしい。薬草に関したものでなくても良いわ。わたし、本が読みたいの。昔、物語の本を持っていたわ。母が良く読んでくれて。とても好きだった。表紙がぼろぼろになっても、ずっと持っていた……」
彼女は遠い目になった。
「その書物は、どうしたのだ」
伯爵の言葉にユーラは一瞬、苦しげな顔になった。だがすぐにその表情を消した。
「ずっと旅をしてきたでしょう。途中でなくしてしまったの」
「そうか……」
伯爵は彼女の表情が気になったが、言いたくないのだろうと思い、その事は問わず、代わりにこう言った。
「わたしの配下にアロンという、水の民の男がいる。過去の出来事や書籍に関し、情熱を注いでいる。そなたの助けになるだろう」
「ありがとう。本を貸してもらえるなんて思わなかった……」
「気に入ったものがあれば、取るが良い」
贈り物のつもりだったので、この言葉は彼にとっては当然のものだった。しかし彼女は、思いも寄らない事を言った。
「それは駄目よ。そのアロンという人も怒るわ。本は大切な物ですもの」
伯爵はまばたいた。どういう事だろう。大切な物は、欲しい物ではないのか?
「欲しくはないのか?」
「欲しいけれど」
「では、なぜ欲しがらぬ」
「大切だからよ」
「大切な物は、自分の物にしたいものではないのか?」
「そうだけれど……本は、書物は、そういう意味ではなくて大事だから。ええと」
少女は説明しようとして、首をかしげた。伯爵は、彼女の言葉を待った。
「書物は時を越えるものよ」
彼女は、考え考えという風に言った。
「わたしたちが生まれる以前からある書物は、わたしたちがいなくなった後にも残る。過去にあった事を未来につなげてゆく手がかりでもあるの。だから……持っている人は、次の世代にきちんと渡す義務があるの。そこにあるのは、単に文字というわけではないから」
少女はまっすぐに伯爵を見た。その視線に伯爵は、息が止まるのではないかと思った。とても真剣なまなざしだった。
「その時代の熱のかけら、名前も知られず消えていった人々の声が、書物には織り込まれている。書物を開く時、わたしたちは彼らの人生を受け取っているのよ。あなたの所に書物が集まっているのなら、それを大事に伝えてゆかなければならないわ」
少女はそこで顔を赤くし、「演説みたい。ちょっと恥ずかしいわね」と言った。
「とにかく、本を持っている人は少ないから。新しい本は、一文字一文字写さないとできないし。だから、一冊がとても貴重なの。簡単に人にあげたりしては駄目よ」
伯爵は彼女の言葉の意味を考えた。
「では……そなたが欲しいと思ったものを写させよう。新しく書物を作らせ、それを贈る事にする。それなら良いか?」
そう言うと、少女は目を丸くした。
「大変な手間よ。お金もかかるし」
書物を新たに作らせようとすると、壁にある綴れ織りどころではない。それ以上の金銭がかかる。彼女としては、持っている物を大切にしろと言いたかっただけだったのだ。
「わたしはそなたの喜ぶ物を、そなたに贈りたいのだ」
伯爵の言葉に少女は困惑の表情になった。
「でもわたし、……どうして?」
この言葉に伯爵は、人族と魔族の違いを思った。彼女が人族としても、とても若いのだという事も。魔族の娘なら、意味を取り違える事はない。名を捧げる意味もわかるはずだ。だが彼女は魔族ではなく、人族としてもごく若い。説明せねばならないらしい。
「姫。そなたはここで、わたしを迎えてくれる。声をかけてくれる。わたしにはそれが、何よりもうれしいのだ。ゆえにそなたに何かを贈りたいと思う」
そう言った彼だったが、そこで不安になった。彼女が自分から何も受け取ろうとしないのは、自分を嫌っているからではないか。人族は、魔族を嫌う。
「わたしには、それぐらいしかできぬのだ。それでも駄目か? わたしからの品は……そなたには厭わしいか?」
恐る恐る言う。
「受け取らぬのは、わたしを厭うているからか?」
ユーラは伯爵の言葉にきょとんとした。なぜそんな言葉が出てくるのかわからない。
「嫌っている人と、お茶を飲もうなんて思わないわ」
そう言うと彼がとてもうれしそうな顔になったので、逆に気がとがめた。贈り物を断った事で、不安にさせていたのだ。
(人族と関わる事なんか、あまりないでしょうし……。感謝とか好意とか、どう表したら良いのかわからなかったのね)
少女は思った。
「わたしの所に来るの、楽しいの?」
尋ねると、伯爵はうなずいた。
「あんまりかまってあげていないのに? 今も放っておいて、薬を作っていたけれど」
「そなたは好きに振る舞うが良い。わたしもそなたの邪魔をしたくはない。わたしがそなたに願う事は、ここに……そなたの側にいる事を許してもらいたい。それだけだ」
伯爵の言葉に少女は「そう」と言った。
(弟さんの面倒を見て、領地の事にも気を使って。息抜きがしたい時もあるわよね。闇魔族の日常とか、家族関係って見当もつかないけれど)
「贈り物を少し控えてくれるなら、良いわよ。この辺りで噂になっているの。闇魔族の馬車がうろうろしてるって。村の人が怖がってしまって、ここまで来ないのよ。これでは仕事にならないわ」
「そうか」
「来る時に手土産を持ってきてくれるのなら、それは受け取るわ。一緒に飲む為のお茶とか、食材とか、花束とかね。手で持てるぐらいの物。
本の事だけれど。わたし、本は好きよ。あなたがきちんと管理して、残してくれるのならうれしいわ。わたしに何か贈ってくれるのも。でもどれが良いのかわからないから、最初は何冊か貸してね。読んでみるから」
伯爵はうなずいた。
「では一度、わたしの城に来てはどうか。書物を見せよう。アロンとも話をしてみると良い。そなたが興味を持ちそうなものを探し出してくるはずだ。止めなければ書物について、一晩中でも熱弁を振るう男だが」
ユーラはふと、表情を曇らせた。
「どんな所なの?」
「月光と闇の満ちる、決して陽光が差し込む事のない城だ。蒼月闇の城と呼ばれている」
「蒼月闇……蒼い月の城なのね。薔薇は咲いているのかしら」
「薔薇か? あまりなかったように思う。望むのであれば、取り寄せるが」
「いいえ、違うの。薔薇は……見たくない」
少女は青ざめていた。
「花に罪はないわ。昔は好きだった。でも今は、見ていたくないの。いつかは……平気になると思うのだけれど……」
膝の上で組んだ手が、微かに震えている。握りしめた、指の関節が白い。伯爵はその様を眺めていたが、静かに言った。
「月光花は咲いている。月の光を宿す花だ。そなたの髪に挿せば、映えるであろうよ」
少女は顔を上げた。血の気が少し、戻っていた。
「女性にはいつも、そんな事を言うの?」
「そなたにだけだ」
伯爵はそう言って微笑んだ。
「城に来るのは気が進まぬか。闇魔族の居城では、無理もなかろう」
「そうではないの。いえ……多分、そう」
気まずげな顔になって、少女は言った。
「ごめんなさい。何だか怖くて」
「わたしはそなたを食しはせぬし、夜ごと城の床を血に染めているわけでもないぞ」
ユーラは妙な顔になった。
「なに? それ」
「紫忌がな。人族の村人がそう話していたのを聞いたのだ。われらは人族を、生きたまま頭からかじるのだそうだ。どうすればそんな事ができるのかわからぬが」
それは多分、人族の母親が、子どもをしつける為に言ったのだろうと少女は思った。
「そんな事思っていない……シ……ええと、白男爵、だったわね。弟さんは」
名前を呼ばないという闇魔族の習慣を思い出し、ユーラは発音する事を避けた。伯爵がうなずいたのを見て、言葉を継ぐ。
「彼は、人族とは親しいの?」
「あれは人と交わる事を好んでいる」
「闇魔族にしては珍しいわ……」
「魔族としての力は、ほとんど振るえぬ。幼いころは、人として過ごしていた」
「そう。だからなのね。そんな弟さんとあなたは暮らしている。あなたが変わっているのは、そのせいかしら」
「そうやもしれぬな。おかげで一族の者からは、奇矯な当主と言われている」
「人からも同族からも変だと言われるのなら、筋金入りというわけね」
ユーラは微笑んだ。表情が和らいでいた。
「でもわたしは、そんなあなたの方が良いわ」
その言葉を聞いた瞬間、伯爵は自身の心臓がおかしくなったかと思った。何かに貫かれた気がした。同時に、胸の奥で何かが弾けている、とも。熱のようなものが、今も泡のように弾けている。
これは、何だ。この熱さは。この衝撃は。
逆らえない。誰も逆らえはしない。これほどまでの力を持つ、この少女には。言葉一つ、微笑み一つで、〈闇王〉たる自分の心臓をおかしくする。身が震える、と彼は思った。目の前の少女にひざまずいて、その服の裾に口づけたいとも。目の奥が熱い。何かが内からあふれだしそうだ。
ああ、だが、彼女は、誰かをひざまずかせるのは嫌だと言っていた……。
「氷玉? どうかした?」
黙ってしまった伯爵に、ユーラは不思議そうな顔になった。伯爵は胸の奥から沸き上がる熱さに押されるようにして微笑み、彼女を不快にさせないよう、ひざまずきたい衝動を抑え、軽く頭を下げるに止めた。
「感謝する。その一言で、どのような非難も消え失せる」
本心からの言葉だった。
少女は伯爵の中で起きた変化に気づく風もなく微笑み、首を振った。
「思った事を言っただけよ。やっぱりあなた、女性に対して口がうまいと思うわ」
「そなたにだけだ」
伯爵はもう一度言った。
「このような事を言うのは。そなたにだけだ……」
* * *
伯爵は、真夜中を過ぎるころに帰って行った。ユーラはそれから軟膏作りに取りかかった。手伝おうというガイリスに、一通りやったら終わりにするから寝るようにと告げると、彼女は作業にかかった。
すりこぎの壊れていない部分を手に取り、大きめの碗を使って荒く薬草を挽く。だがどうかすると気が散って、手が止まりそうになる。
こうした事を教えてくれたのは全て、ジーナおばばだった。村から村、町から町へと移動する生活。彼女たちは定住しない、芸人の一座だった。歌や踊りを見せて彼らは生活していた。それほど大きな一座ではなかったが、出向いた先では歓迎されていた。ジーナは一座の薬師であり、賢女――指導者の一人でもあった。
『薬を作る時には、感謝の祈りを〈癒し手〉の神に捧げなさい。心を込めて作るんだよ』
彼女はそう言った。
『聖なるエリザの名において、おまえの手と心が治療のわざを正しく成すように。慈しみの心を忘れるんじゃないよ。その心がなければどんな優れた治療のわざも、力をなくす』
『物語を覚えなさい。物語を語る者は、世界を制する事ができる。おまえが誰かを癒したいなら、このわざをも学ばねば』
『ユーラお姉ちゃん、お話、して』
子どもたちの声が耳の底によみがえる。
『おれの可愛いお姫さま! 今日のご機嫌はいかがかね』
『ユーラ。もう少し、歌ったり踊ったりした方がいいぞ。引っ込んでばかりじゃ、なまっ白くなっちまう。ほら、外で遊んできな』
『リボンだよ。可愛くしないとね、女の子なんだから……』
『音楽だ! 回ってごらん。そら、一、二』
『マーシュがあたしのパンを取った!』
『ちがうよ、ヒューイがやったんだよ』
いつも陽気に笑っていた人々。
少女は手を止めると、静かに涙した。忘れたふりをしてきた日々を、彼女は今、思い出していた。伯爵との会話がきっかけだった。彼が見せた気づかいは、かつての家族たちを彷彿とさせた。なぜかはわからない。だが彼との会話は、失った人々の思い出をよみがえらせた。
生きる為に、あえて記憶の底に沈めた。思い出せば失ったつらさに、一歩も進めなくなるだろうと。それでいて心の底でずっと自分を温めていた、宝物のような思い出。
これ以上は駄目だと彼女は思った。思い出してはいけない。生きてゆけなくなってしまう。
あふれ出ようとする思い出を胸の内に閉じ込めると、少女は作業を再開した。静かな夜は嫌いだと彼女は思った。こんなに静かだから、思い出してしまうのだ。彼らの優しさを。微笑みを。痛みを覚えるほど、鮮やかに。