2.廃村の少女 3
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月牙伯爵は畑仕事をし終えた後(今までやった事もする必要もなかっただろうに、黙々と働いていた)、少女に家に招かれ、香草茶をふるまわれた。その後、「また来る」と言い残して去った。
翌日。夕方近くに、伯爵家の紋章のついた馬車がやって来た。
馬車から降りたのは身形のきちんとした人族で、少女に一礼すると、非礼への詫びと馳走への礼の品を贈る、との伯爵の手紙と共に、保存のきく食料を一山と、美しい衣装と宝石をちりばめた装身具一式を置いていった。
食料には感謝したが、衣装は薄い絹地で、普段の生活には着ようにも着られない。宝石も同様だった。ユーラは仕方なく、衣装箱代わりに使っている木箱にそれらを入れておいた。
紫忌が来たのは、それから数日してからだった。闇魔族の馬車が日中走っているのを見たという噂が、近隣ではささやかれていた。エニ村でも。
人々は脅え、外出を控えた。闇魔族に関する事は何であれ、恐怖の対象となるのである。
その間、レサンの村で少女は、いつも通りの暮らしを営んでいた。噂話を運んでくれる村人が来なかったので、外での騒ぎを知らなかったのである。
剣を背負い、革の鎧で武装したその男は、夕日を浴びながらレサンの村に入ってきた。
渡りの傭兵然とした姿である。
二十四、五に見える彼は褐色の肌をして、黒髪を短く刈り上げていた。長身なので細く見えるものの、良く鍛えられた体つきをしている。男は親しみやすい笑顔を持っており、女性だけではなく、男性からも好意を持たれやすかった。
「やあ、ミストレス」
畑仕事をしている少女を見つけると、彼は気さくな感じでそう言った。ユーラは顔を上げ、見覚えのある男に笑顔を向けた。
「ローク。怪我をしたお友だちはどう?」
「元気にやってる。あの時は助かったよ」
髪を染めて人族を装った闇魔族の一人、紫忌はにっこりして言った。彼は以前、少女の調査の為にここへ来た。その時怪しまれぬよう、怪我人の治療を口実にしたのである。
たまたま知り合った人族の男が傷を負ったため、それを幸いとしてここに運び込み、治療を頼んだのだった。
ロークとはその時名乗った、彼の人族としての名である。
「今日はこれ持ってきたんだけど。足りない薬草の事を言ってたろ? 種が手に入ったから、持ってきた。役に立つかな」
紫忌は小さな袋を出して見せた。
「まあ。なんの種?」
少女はぱっと顔を輝かせた。
「くれた奴が、小袋に名前と効果は書いておいたって。字、読めたよね?」
「ええ、育ててくれた人に教わったから。大丈夫、ちゃんと読めるわ。ありがとう」
種の袋を、ユーラは宝物を扱うかのように受け取った。
「何かご馳走してくれる気になる?」
紫忌の言葉にユーラはにっこりした。
「もちろんよ。食べ物は今、たくさんあるから。知り合った人からいただいたんだけど、エニ村の人におすそ分けしようと思っていたのに、こんな時に限って誰も来ないのよ」
「だろうね。色々あるし。噂聞いてない?」
「噂?」
「闇魔族の馬車が走ってたって。しかも日中。怖いでしょ、そんな事あったら。で、みんな家の中に閉じこもって外に出ないようにしてる。ミストレスにも気をつけるよう、よくよく伝えてくれってさ」
ユーラはああ、という顔をした。
「そう。そうね……怖いわね。闇魔族の馬車を見たりしたら」
「話では、こっちの方角に走ってったそうなんだけど。何もなかった?」
ユーラは困った顔になった。
「あったと言えばあったけれど……ローク、あなた、闇魔族の事とか詳しい? ここの伯爵さまの事、何か知っている?」
紫忌は眉を上げた。用心しつつ、しかし表面上は平静を装って、「少しは」と答える。
「お怒りを買わないよう、うまく立ち回らないといけないからね。情報を頭に入れるようにはしてるよ。月牙伯爵がどうかしたの」
「ここに来たのよ」
あっさりと告げた少女に、目を見張る。もう少し隠すのではないかと思っていたのだ。
「来たの?」
「ええ」
「何でまた」
「薬師なんて珍しいものが領内にいるものだから、暇潰しに見に来たみたい。話もしたわ……食料をくれたのは彼なの」
紫忌は驚いた顔をしてみせた。
「じゃ、闇魔族の馬車は?」
「わたしとの話が楽しかったらしくて。お礼に馬車一台分の食料を贈ってよこしたの。思ったほど怖い人ではなかったわ。礼儀正しかったし。
でもエニ村の人たちには、怖い思いをさせてしまったわね」
「おれエニ村の人じゃないし。えーっと、それ、おれに話していい話なのかな」
「別に隠す事はないもの。でも闇魔族が怖いっていう気持ちはわかるわ。まだうちに来て、何か食べる気はある?」
「もちろん。こういう商売してると、うまい料理にありつけそうな機会は逃せない」
ためらうように言った少女に、紫忌はにこりとして言った。少女はどこか、ほっとしたような顔になった。
半獣族の少年が、畑で働く姿が見えた。
「伯爵閣下のくれたのは、食料だけ?」
鶏を小屋に入れるのを手伝いながら紫忌が尋ねると、「服と宝石ももらったのだけれど。しまってあるわ」と少女が答えた。
「着たりしないの?」
「生地が薄くて。着たら凍えてしまうわ。綺麗だけれど。宝石もね。あんなものを身につけて、畑仕事はできないわ。でも食料は助かったわ。保存のきくものばかりだったから」
それはおれが手配したからです、と紫忌は思った。彼女に何か贈りたいのだが、何が良いかと兄に相談された時、辺境の村でぎりぎりの暮らしをしている娘が必要としているものは、美しい衣装や装身具ではなく、毛布や保存のきく食料だと彼は兄に言ったのだ。
人と感覚の違う兄に選ばせるとどうなるかわからない為、食料の手配は任せてもらい、兄には暖かい厚手の服を贈るよう助言した。
氷玉はその助言を考慮したらしいのだが、やはり良くわかっていなかったらしい。
(帰ってきた様子からすると、相当気に入ったみたいだけど。妾妃にするとかは言い出さなかったなあ)
山羊をつなぎ終えたユーラは紫忌をうながし、家に向かった。紫忌は彼女の後について歩き、家に入った。
(そう言えば兄上は、あまり妾妃を持たない人だったな。戦で忙しかったのもあるんだろうけど……兄上ぐらいの貴族になれば、何人いてもおかしくないのに)
おかげで自分を恋人にしているなどといった、うれしくない噂が流れた事もあった。会えば必ず厭味や嫌がらせをよこす闇魔族の叔父や叔母は、今でも『妾あがり』だの『男娼』だのと言って下さる。
(まあ、妾にするには少し、歳が足りないか)
少女の体つきを見て紫忌は思った。今まで栄養が足りていなかった為か、気の毒なまでに細い。今は十三か十四か。小柄なのでそうは見えないが、ひょっとしたら十五かもしれない。
もう少し肉付きを良くしてやりたい、と彼は思った。体つきが丸みを帯びてくれば、隠れている美しさも前に出てくるはずだ。
少女は家に入るとてきぱきと動いて湯を沸かし、香草茶を入れた。渡された茶碗を受け取り、紫忌は礼を言って口をつけた。
「で、どんな話をしたの」
「月牙伯爵って少し変わっているわね」
「あの伯爵閣下は変わり者で通っているんだよ。何かあった?」
「何も言わずに家の外に立っているから、畑仕事を手伝ってくれないかって言ったのよ。そうしたら畑を耕してくれたわ」
紫忌は飲んでいた茶を吹き出した。気管に入ってしまい、むせる。慌てるユーラに心配ないと手を振り、ひとしきり咳き込んでから彼は顔を上げた。
「畑を耕した?」
「ええ、してくれたわ。随分と人間味のある魔族なのね。子どもみたいな顔で笑うし」
「に、人間味? 子どもみたいな顔?」
それは誰。と紫忌は思わず言いそうになった。戦以外に興味が持てず、何に対してもつまらなそうな顔をしていた兄が、『子どもみたいな顔で笑う』?
「ねえ、ローク。そう言えば魔族の事、少しは知っているって言っていたわね?」
「ああ、だが少しだけだよ」
紫忌はそう答えた。少女は特に不審には思わなかったらしい。うなずくと尋ねた。
「名前について何か知っているかしら? 伯爵はわたしを名前で呼ばないの。『薬師の姫』と呼ばれたわ」
紫忌はまばたいた。兄は本当に、この娘が気に入ったらしい。
「閣下はあんたに気を使ったんだよ。魔族は相手の名を呼ぶ事には慎重だから」
「慎重?」
「魔力を持つだろ、魔族ってのは。へたに名を呼ぶと影響が出るんだ。
『名』というのはそのものを表すから、それだけで一つの魔術。名を呼ぶ事は、支配する事に等しい。
魔族の貴族が肩書や通称で呼ばれるのはその為だ。相手の名を呼ばないというのが、魔族の礼儀なんだよ。
それに魔力を持たない人族の場合、それだけで操られてしまいかねないし」
「それで? まあ。気をつかってくれていたのね……知らなかったわ。だったらわたし、失礼な事をしたのかしら」
「何かしたの?」
「伯爵を、名前で呼んでしまったの」
落ちつこうと思い茶をふくんだ紫忌は、彼女の言葉に中身をもう一度吹き出した。その場で身を丸め、またもや気管に入ってしまった香草茶に苦しみながら咳き込む。
慌てた少女はぼろ布を差し出した。受け取って顔を拭くと、涙目になって紫忌は言った。
「呼んだの? 名前? 伯爵の?」
「そう呼んでくれって言われたのよ。でもそんな失礼な事だとは思わなかった……」
「呼んでくれって言った!? 伯爵が!?」
「そう仰せになりました」
声がして、外から半獣族の少年が入ってきた。
「ご主人さま、水を汲み終わりました。外の水瓶に入れてあります。閣下は……あの。ご主人さまの前に……ひ、ひざを、つかれて」
思い出すだけで心臓に悪いらしく、ガイリスは青ざめていた。紫忌は顎をがくりと落とした。膝をついた。あの兄が。天上天下唯我独尊、天井知らずの自尊心を誇る、あの兄が。
「ありがとう、ガイリス。疲れたでしょう。あなたもお茶を飲む?」
ユーラはしかし、紫忌の様子には気づかなかった。半獣族の少年に声をかける。彼は首を振った。
「おれはいいです。あの、それより……?」
紫忌の方を見る少年に、ユーラは答えた。
「ロークよ。以前、お友だちを治療して欲しいと連れてきたわ。覚えている? 種をいただいたの。夕食を食べていってほしいと招待をした所よ。かまわないでしょう?」
「あの……、はい。ご主人さまがそうお望みなら。では、食事の支度はおれが……」
「あなたはここにいて。仕事を一つ終わらせた所でしょう。わたしがするわ。待っていてね、ローク。すぐだから」
そう言うと、少女は外に出て行った。それを確認してから紫忌は、ガイリスを手招いた。少年は、恐る恐るという風に近寄ってきた。
「坊主。何があったのか、詳しく話せ」
「は、はい、あの。白男爵さまでいらっしゃいますか?」
確認してきた少年に、紫忌は舌打ちをした。
「なんでわかった?」
「最初はわかりませんでした。ただ、人にしては変な匂いが混じっていて。日中でも外を歩ける闇魔族は、男爵さまだけですし」
「おかげで〈夕闇の〉と呼ばれてるよ。闇になり切れぬ者という意味さ。あの娘には言うなよ? まだしばらくは、気楽な身分でいたいんだ」
ガイリスは不安そうな、警戒するような眼差しを紫忌に向けた。
「ご主人さまに危害は加えませんね?」
「尊き兄君に保存のきく食料を贈ってやれって助言したの、誰だと思ってるんだ」
半獣族の少年は、それで納得したらしい。
「闇魔族の貴族さまが、良くこんな事を思いつかれたと思ったんです。道理で」
そう言ってから、「ありがとうございました」と頭を下げた。紫忌は言った。
「次には毛布と毛織の服を贈るよう言っとくよ。それより、本当なのか? 兄上が名前を呼ばせたあげくにひざまずいたと言うのは」
ガイリスはうなずいた。思い出したのか、顔が青ざめる。
「本当です……おれ、失神しそうでした」
紫忌は思わずという風に独りごちた。
「〈闇王〉たる兄上が人ごときに」
「ご主人さまは、ただの人ではありません!」
あるじを侮辱されたと思ったのか、ガイリスがきっとした顔になって言った。紫忌はそちらを見やった。
「確かに変だな。おれの護衛二人が、近づけないと抜かした。魔力も矜持の高さも、折り紙つきの半獣族がだ。
ひざまずきたくなるんだとさ。
強さが全ての種族だろう、おまえたちは。自分より弱い者には決して膝を折らないはず。なのにそれだ。そうしておまえは闇魔族だとわかっているおれに、口答えをする。あるじの為に。
おれがおまえより強い事は、本能でわかるだろうに」
ガイリスは青ざめた。紫忌は少年を見据えた。偽りは許さぬと言う風に。
「おまえのあるじは、何者だ?」
少年は震えた。紫忌は隠していた魔族としての気配を、現していた。人の血を引くとは言え、目の前の男の強さは肌でわかった。彼が本気になったなら、自分などあっという間に殺されてしまうだろう。
「し……、知りません」
彼は怯えつつ、首を振った。
「おれは旅の途中のあの方に命を救われて、ついて行く事に決めた。他は……何も」
紫忌は低く唸った。
「何者なんだ、あの娘は。それに兄上。単に面白がっているだけかと思ったが、ひざまずいただと? 致命的だぞ。他の貴族に知られれば……」
そこでガイリスをじろりと見やり、彼は言った。
「口外するなよ」
「し、しません」
「おまえのあるじにも、他に話すなと念を押しておけ。いや、おれから話した方がいいか。城に戻ったら、兄上から事の次第を聞き出さないと……」
厳しい顔でつぶやく紫忌だったが、不意にその表情を消した。魔族としての気配が消え、人族然とした印象に戻る。それと同時に少女が家の中に入ってきた。
「待っていてね、すぐできるわ」
野菜と香草、塩漬けの肉を持ってきたユーラは何も知らずに二人に笑いかけ、夕食の支度に取りかかった。
出された夕食を平らげて礼を述べた後、紫忌は当たり障りのない口調で『貴族の名前』と『ひざまずいて敬意を表した』辺りの話は、他にしない方が良いと少女に言った。
「へたな噂が流れたら、伯爵の不利になる。伯爵の場合、人族に対して寛容すぎると配下から突き上げ食ってるとこがあるから。何が原因で地位を追われるかわからないんだ」
ユーラはさっと顔を曇らせ、他には話さないと言った。それを確認すると彼は、泊まるようにという彼女の誘いを丁重に断り、急いでレサンの村を離れ、蒼月闇の城に戻った。
* * *
「兄上!」
紫忌は城の中を大股に歩きながら氷玉を呼んだ。
「兄上。どちらにおいでですか!」
『部屋だ。そう怒鳴らずとも聞こえている』
落ちついた声が脳裏に響いた。紫忌が氷玉の私室の扉を開けると、そこには紅玉の瞳の、新雪と銀で造り上げたような男が立っていた。当代月牙伯爵、氷玉。
「何用か」
紫忌は臣下の礼を取ると言った。
「今日、レサンの薬師の所へ行きました」
「姫の所へか」
氷玉はやわらかなまなざしになり、頬に微笑を浮かべた。紫忌は眉をひそめた。こんな顔をする兄上は初めてだ。
「そこで信じがたい話を聞きました。あの娘に名を口にする権利を与えたとは、まことですか」
「そうだ」
肯定されて紫忌は、息を飲んだ。
「何をお考えになって……人ごときに」
「姫への侮辱は許さぬぞ」
厳しい顔になった氷玉に紫忌は絶句し、ついで息をついた。
「そこまで気に入られたとは。しかし、いけません。このような話が広まれば、兄上の名誉に傷がつきます。支配者たるべき兄上が、はるか下の身分の者に膝を折った事になる」
「その通りではないか。わたしは自ら姫に恭順の意を示した」
事も無げに氷玉は言い、紫忌は青ざめた。
「兄上……」
「かの姫にひざまずくは、わが喜び」
「相手は人族です。戯れが過ぎましょう!」
紫忌は怒鳴った。
「欲しいのであれば、妾妃にすれば良いのです。ですが名を口にする権利を与えたとあっては……身分の示しがつきません。謀叛が起きます。
人族に従う当主など、一族の者は認めません。人の血を引くおれを側に置く事でさえ、あれだけ騒いだのですよ。謀叛が起きなかったのは、兄上がおれを配下の一人、手駒の一つとして扱っているからです。
けれど人ごときに膝を折ったとなれば……そんな話が広まれば。一族の者は一斉に反旗を翻すでしょう。当主が誰かに従えば、一族全てがその配下と見なされる。人ごときに従う、そんな屈辱を許せる魔族はいません!」
氷玉は何も言わない。紫忌は言葉を継いだ。
「青闇男爵も氷刃男爵も、表立って逆らいこそしてきませんでしたが、兄上が当主の座にある事を、内心不満に思っております。火影男爵などは、当主の資格なしと公然と口にしているという話ではありませんか。
このような話が漏れればどうなるか。みなここぞとばかり、兄上の首を狙います」
「親愛なる叔父上と叔母上か。あの二人にはわたしを殺すだけの力量はない。火影に至っては、相手をするのも馬鹿馬鹿しいほどだ」
氷玉は口許を歪めて笑った。
「あれらが行動を起こさぬのは、わたしが強いとわかっているからだ。今後も変わらぬ」
「兄上……!」
「それに姫を一目見れば、理由もわかるであろう。そなたにはわからなかったか」
「あの娘が何だと言うのです。おれにはただの娘にしか見えませんでした」
「そなたの半分は人ゆえな」
氷玉は言うと、豪奢な椅子に腰かけた。
「紫忌。そなた、われらの事をどれだけ理解している?」
突然変わった話題に紫忌は、まばたいた。
「理解、ですか?」
「なにゆえ闇魔族は、一族当主に忠誠を誓うのだと思う」
物憂げに言うと、月牙伯爵は異母弟を見やった。紫忌は困惑した表情になった。
「当主には、忠誠を誓うものでしょう。逆らえば滅ぼされる。一族当主は、最も強い者がなるのですから……」
「逆だ。己を滅ぼす可能性のある者ゆえに、忠誠を誓うのだ」
氷玉は薄く笑った。紫忌は眉をひそめた。
「同じではないのですか」
「いいや。そなたの魂は健全だな、人の血を引く弟よ。闇魔族としての呪縛に捕らわれぬそなたがわたしはうらやましくもあり、哀れでもある」
氷玉は紫忌を手招いた。紫忌はためらってから近づいた。兄の側に立つ。
「どういう意味ですか」
「そのままだ。紫忌。闇魔族が一族当主に忠誠を誓うのは、当主が己を滅ぼしてくれるやもしれぬという、誘惑に抗えぬからだ」
紫忌は眉を上げた。氷玉は異母弟を見上げると、ほの暗い笑みを浮かべた。
「われらは長く生きる種だ。放っておけばそれこそ、何千年と生きるであろう。そんなわれらが数百年で命を落とすのは、なぜだと思う。地上がわれらであふれ返らぬのはなぜだ。
簡単な事だ。われらは本来、生命として在ってはならぬ、歪んだ種であるからだ」
「兄上!」
紫忌は驚きの声を上げた。氷玉は続けた。
「存在そのものが歪んでいるのだ、われらは。そうして生れ落ちたその時より、己を滅ぼしたいという願いに縛られ続ける。
いかに強大な力を有する者であろうと、逃れられぬ呪縛。滅びとはわれらにとって、甘美にして抗しがたい誘惑なのだ」
くっくと喉をならして月牙伯爵は笑った。楽しげに。
「ゆえにわれらは滅びをもたらす者に、理屈抜きに魅かれる」
「ほろびを……もたらす者……?」
「かの姫を見た時に、一目でわかった。あれはわれらを滅ぼす力を持って生まれた者。この月牙伯でさえも」
「兄、うえ」
紫忌は息を飲み、力が抜けたようにその場に膝をついた。
「そのような存在とは、おれは知らず……」
「そなたにはわからぬであろう。したがわたしにはわかる。この身を形作る血肉、その一つ一つに刻印されし運命の糸が身を震わせて歓喜に呻いた。姫こそが、わたしを滅ぼす者であると」
「兄上!」
「長年、わたしは戦の場で果てるのだと思っていた」
氷玉は微笑みを顔に浮かべたまま、遠いまなざしで言った。
「わが父がわたしに倒され、祖父が父に倒されたように。わたしの血を引く子のいずれか、あるいはわたしより高位の魔族によって首をはねられるのだと。それも良いと思っていたが……」
月牙伯爵はうろたえた様子の異母弟を見やった。彼の頬に、自分の白い手を添える。
「紫忌。われらは滅ぶ為にこそ生きている」
「わかりません」
「そうであろう。そなたにはな。われらはこの呪縛を愛してさえいるのだから。
滅びをもたらす者を求めてわれらは、生涯を過ごす。その相手を見つける為だけに生きる。
実に歪んだ種だ。愚かしいまでに。ではないか?」
「兄上は誰よりも強く、賢く、美しい闇魔族です。兄上ほどの方はどこにも……!」
「そなたの人としての血は、わたしには不可解だ。兄弟の絆、家族の絆。そのようなものをわれらは持たぬし、解そうとも思わぬ。であるというのにそなたは、わたしにそれらを求め続ける」
氷玉は弟の喉に手を当てた。
「この場でそなたの首をはねる事もできる。そうされたいか?」
「……いいえ」
「わたしに殺されるのは嫌か」
「おれは、死ぬのが怖い。殺されるのが嫌なのです」
氷玉は弟を眺めると、手を引いた。
「人の血の強いことよ」
「以前にも兄上は、そう言われました」
悲しげな目で紫忌は言った。
「それがわかっていてなぜ、おれに貴族の身分を与えられましたか」
「そなたにも、わたしを滅ぼすなにがしかの力を感じたゆえ」
紫忌ははっと息を飲み、兄を見つめた。氷玉は興味を失ったように弟から視線を外すと、椅子に深く沈むようにして座った。
「したがそなたは、わたしを殺そうという気を持たぬ。わたしに挑む気配もない。望むのであれば、殺してやろうとも思うたが」
「兄上……」
「わたしがそなたを哀れと思うのは、この衝動を知らぬゆえ」
氷玉は目を閉じて言った。
「己が滅びを狂おしいまでに求める、この衝動をな。それがどれほど甘美であるか、そなたは知らぬ。だがもうそれは言うまい。望むように生きるが良い、弟よ。呪縛に捕らわれぬ闇魔族が、一人ぐらいはいても良い」
紫忌は顔を伏せた。自分を既に亡き者という風に語る兄が信じられなかった。この兄が理解できない事がつらかった。
「おれがもっと闇魔族らしい存在であれば、兄上のお心は安んじていたのでしょうか」
氷玉は笑った。
「殺し合いを始めていたであろうよ。それはそれで、少しは心弾んだであろうが」
「許して下さい。兄上に滅びの運命を近づけた……」
「わたしは喜んでいるのだ、紫忌。これでもうわたしは、待たなくとも良い。他の闇王たちのように気の遠くなる歳月、何千何万という夜をただ、待ち続ける事はないのだから」
「兄上……」
「もう行け。わたしは姫に会う準備をしよう」
その言葉と共に氷玉は手を振って、話の終わりを告げた。紫忌はのろのろと身を起こすと、兄の部屋を退出した。胸が重かった。
(あんな兄上を見るのは初めてだ)
(兄上が滅びるなど……)
(滅びの運命を引き寄せてしまったのか……おれが)
廊下を歩む彼の胸は、後悔で焼かれていた。
(何かあるのではと思った……だが、闇魔族を滅ぼす力を持つとは)
(会わせるのではなかった。あんな娘に)
(千年も生きて大陸を統治するはずの兄上が)
(会わせるのではなかった……!)
「いや、まだ手はある」
足を止めると紫忌は顔を上げ、つぶやいた。
「兄上の身に何かある前に。あの娘を滅ぼしてしまえば良い」
ここで書くの、少し慣れてきました。最初は何が何だかわからず、かなりうろうろ。こうか? これでいいのか? なんで空白消えるんだあ。ぐあ。ルビがルビじゃなーいっとかぶつぶつ言いつつガンバッテマス。