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永き夜の大陸 〜光の姫 闇の王〜  作者: ゆずはらしの
第二章 廃村の少女
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2.廃村の少女 2

 2



 闇が人の形を取った。そう思えた。黒いマントをまとう背の高い男がそこにいるのだとわかるまで、数瞬を要した。


 銀の髪。青白い肌。赤い瞳。虚無を思わせる美しい顔。



(闇魔族……)



 ユーラは震えた。かつて出会った闇魔族を、その男が行った非道な仕打ちを思い出したのだ。目の前にいる闇魔族はその男に似ていた。姿も、美しさも、かもし出す雰囲気も。



(これはあの男……? いいえ違う。そのはずがない)



 少女は手の震えを抑えようと拳をにぎると、男を見据えた。この男は自分の作業を見ていたのだ。無断で。


 誰であれ、そんな権利はない。そう思い、怒りをかき立てて脅えを払いのけると、少女は腹に力を入れて立った。



「何者なの。そんな所で人をのぞき見ているなんて、良い趣味ではないわよ」



 厳しい表情で言うと、男は彼女を見返した。冷然としたその表情に変化はない。しかし彼の赤い瞳には、驚愕と困惑、歓喜と怒りの色があった。


 少女は、周囲の気温が急激に下がったのを感じた。体の芯を、氷のような手でつかまれた気がする。


 息ができない。大気がずしりと重みを増して、体中を押さえつける。


 逃げ出したいという衝動が沸き起こり、恐怖が体中を締め上げた。それでも負けずに睨み返し、少女は体中の力を振るい集めて言った。



「わたしは何者かと言ったのよ。名乗りなさい」



 思ったよりも、強い言い方になった。


 長い沈黙があった。実の所は、一瞬だったのかもしれないが。彼はユーラを見つめ、何か葛藤かっとうしているようだった。赤い瞳が怒りに激しく燃え上がり……、


 そして、それらが唐突に消える。



「失礼をした、薬師くすしの姫。わたしの名は、氷玉ひぎょくと言う」



 闇魔族の男はなめらかな動きで胸に手を当てると、礼儀正しく一礼した。聞いているだけで魂を奪われそうな、麗しい声だった。


 呼吸が楽になった事に、ユーラは気づいた。体にかかっていた重みが消える。思わずふらつきかけたが、何とか踏みとどまった。



「ヒギョク?」



 その音をつぶやくと、男は顔を上げた。美しい顔に意外なほど優しい笑みが浮かんだ。



しかり。薬師の姫よ」



 その笑みに面食らい、少女はまばたいた。闇魔族がこんな顔をするとは思わなかった。



「変わった音だけど……何か意味があるの」


「氷の宝石という意味だ」


「綺麗な名前ね」



 何を意図するつもりもなくそう言うと、男の顔に驚いたような表情が浮かんだ。ついで彼は微笑んだ。とても嬉しそうに。



「感謝する、姫」



 どこか子どものようなその笑みに、つい見入ってしまった少女は慌てて目をそらした。いけない。これは闇魔族。魔力を操り、人の命など土塊つちくれのように扱う存在だ。



「それで……氷玉。あなたはなぜここに」


「そなたに会いに来た」



 簡潔な答に、少女は視線を戻した。



「わたしに?」


「わが領土に、薬師が住み着いたという話を聞いた。そなたの事であろう?」



 少女は、男の言葉に眉を上げた。



「わが領土? あなた、一体何者なの」


「一族の当主にして、伯爵の位を持つ」


「伯爵? まさか、月牙伯げつがはく……領主さま?」


「いかにも」



 少女は言葉をなくし、男を見上げた。領主が出てくるとは思わなかったのだ。



「わたしはユーラ」



 ややしてから立ち直ると、少女は名乗った。まるで彼女と目の前の魔族が対等の存在であるかのように。毅然きぜんとして見えるように背筋を伸ばし、口調を改めて彼女は言った。



「この村に住まわせてもらっている者です。領主ともあろう方が、なぜこのような所に」


「そなたの噂を聞いた。腕の良い薬師であると。しかし薬師が魔術も使うとは、ついぞ知らなかった」


「いつから見ていたの」



 やはり見られていたと思い、少女は動揺した。伯爵は彼女を見つめた。



「何か不都合でも?」


「見られたくないのよ。これは……」



 少女は何かを言いかけ、首を振った。



「あなたに話しても仕方がないわ。わたしは見られたくなかった。そういうこと」


「美しかった。術も、そなたも」



 伯爵が言うと、少女は顔を強張らせた。警戒の表情になった少女に、伯爵は不思議そうな顔になった。



「そなたは賛辞を好まぬのか?」


「闇魔族の賛辞は、後が怖いわ。何を言い出すかわからないから」


「純粋にそなたを称賛したかっただけだが」


「なお悪いわ。術と言ったけれど、あれは魔術ではありません。わたしは歌っただけ。それを聞いた大地や大気が、わたしに力を貸してくれた。それだけだわ」



 少女はいらだたしげに言うと身をかがめ、松明を取り上げた。それからもう一度、伯爵を正面から見据える。



「それで、伯爵。何の用で来たの? 見た所、健康そうだけれど」


「健康?」


「薬師を訪ねて来たのでしょう。何か用があったのではないの? 闇の民を治療した事はないけれど、困っているのなら手を貸すわ」



 氷玉は一瞬、沈黙した。



「わたしに問題はない」



 やがて彼は、淡々とした口調で言った。思案げに少女を見つめる。



「気になっているのだが。そなた、いつもそのような態度で話すのか?」



 少女は険しい顔になった。



「わたしの態度が何?」


「わたしをまるで、仇か何かのように見る」



 伯爵の言葉にユーラは相手を睨んだ。松明をぐっと握りしめる。この男は、夜に闇魔族と一人で対面する羽目に陥った人族がどんな思いをするものか、想像できないのか? 



「闇魔族なんかに、関わりたくないのよ」



 やがて彼女はそう言った。



「あなたのせいではないわ、月牙伯爵。あなたの評判は聞いています。人族に対して寛容な方であると……でも駄目なの。闇魔族は嫌い。見ているだけでもぞっとする」



 伯爵はなぜか、傷ついたような顔になった。



「嫌いなのに、手助けを申し出たのか?」



 静かに問うと、少女は爆発したかのような激しさで言った。



「それがわたしの仕事だからよ。用がないのなら、そこをどいて!」



 闇魔族にどけと命じる少女の激しさに、伯爵はまばたいた。常ならば誰であれ、自分に対するこんな無礼は許さない。その場で相手の命を絶っている。


 しかし彼は、素直に横に動いた。


 歩き出した少女に声をかける。



「どこへ行くのだ?」


「家に帰るのよ!」



 怒鳴るように言うと、少女は松明を握りしめ、歩み去った。


 残された伯爵は彼女の後ろ姿をしばらく眺めていたが、闇色のマントをひるがえすと後を追った。





 少女は足音も荒く歩いていた。怒りでどうにかなりそうだ。いや、怒りではない。


 これは、恐れだ。



(どうして闇魔族がこんな所に)



 唇をかみしめ、少女は歩いた。心の内にあった平安は消え去っていた。今感じているのは、恐れと憎しみ。胃がよじれて吐き気がするほどの悔恨と、痛いほどの悲しみ。


 悲しみ。



(あんなにも似た闇魔族がいるなんて……)



 似すぎている。育ての親を、家族を気まぐれに殺した闇魔族の男に。



(あの男がここにいるはずはないのに)

(ああ、でも、あの顔! 何もできなかった。わたしはあの時、何もできなかった……)



 混沌とした感情が胸を焼いた。目が熱い。こぼれそうになった涙を片手でぐいとぬぐうと、少女は歯を食いしばって歩いた。



(関わらないのが一番だわ)

(闇魔族には。もう関わらないのがいい)

(じきに家につく。ほら……、)



 家からは、灯が漏れていた。扉の前で立ち止まり、呼吸を整える。



(ガイリスが心配するわ。こんな顔してたら)



 涙の跡を消そうともう一度、指で目のふちや頬を払っていると、中から扉が開かれた。



「ご主人さま。お帰りなさい。呼びに行こうかと思っていました。食事が煮えてますよ」



 半獣の少年に常と変わらない微笑みを向けられ、ユーラはほっとした顔になった。



「ありがとう。遅くなってごめんなさいね」


「だいじょう……うわわあっ?」



 ガイリスが顔色を変えた。彼の視線の先をたどった少女は、振り向いて背後を見た。闇の中、先ほどの闇魔族が立っている。



「ついて来たの?」



 眉をひそめてつぶやくと、少年がうろたえた様子で言った。



「高位の御方です。どうしてここに……」



 少女はしばらく伯爵を見つめていたが、やがて彼に背を向けた。



「気にする事はないわ。用があるなら来るでしょうし、ないのなら帰るでしょう。わたしが進んで家に招待することはないけれど。


 最も闇魔族の貴族ともなれば、礼儀は無視して上がり込むかもしれないわね」 



 侮辱同然のこの言葉にガイリスは絶句し、青くなった。



「ご主人さま……」


「食事をもらうわ。松明をお願い」


「でででも、あの、あの方は」


「扉を閉めて」



 そう言うと、ユーラは家に入った。伯爵の方を、一顧だにしなかった。




 小さな家は一間しかない。ユーラの寝る場所がかろうじて、つりさげた布で仕切られているぐらいだ。


 暖炉があって、煮炊きは全てここでする。足ががたがたしているテーブルが一つあり、これは食事にも薬草の調合にも使われた。


 寒かったので、少女は暖炉の側で食事を取った。ガイリスはその間も外を気にしていた。



「どうしてそう、うろうろするの。何かあるのなら自分から来るわよ」



 そう言いながら、ユーラも内心、気にしていた。彼を怒鳴りつけ、無視して家に入ってきたのだが、元々そう怒りっぽい性質でも、誰かを侮辱して悦に入る性格でもない。


 それに誇り高い闇魔族が、ここまで侮辱されて何も反応しないというのが不可解でもあった。人間でもこんな事をされれば普通、怒る。



(わたしのは、八つ当たりだし)



 彼女は思った。あの男と似ているのは伯爵のせいではない。評判を聞く限り、月牙伯爵は人族を保護する珍しい闇魔族だ。なのに自分はひどい事を言ってしまった。



「もう帰ったのではない?」


「外に立っておいでです」



 少女はどうしたものかという顔になった。食欲は失せていた。板戸をおろした窓の方へ行き、隙間から外をうかがってみる。しかし外は、闇が深さを増しており、彼女の目には何も映らなかった。



「何も見えないけど……」


「おれにはわかります。あんな高位の魔族を見たのは初めてだ。まだ体中がびりびりしてる。でも、どうしてあんな御方がここに?」


「わたしの方こそ知りたいわよ」



 いらだたしげに言うと、少女は窓から離れた。意を決したように、扉の方へ歩き出す。



「ご主人さま?」


「気になって食事もできないわ。理由を聞いてみる」



 そう言うと、ユーラは思い切り良く扉を開けた。



「月牙伯爵。いるの?」



 外の闇に向かって呼びかけると、ゆらりと闇が揺れた。少女の前に黒いマントを羽織った背の高い男が現れる。



「ここに」



 ユーラは相手を睨むと、つけつけと言った。



「あなた一体、何がしたいの。人のあとをつけまわした挙げ句、家の前でずっと立っているなんて、気持ちが悪いじゃないの」


「そなたの気を害したのなら、謝罪する」



 伯爵は困った顔で言った。本気で困っているようだったので、少女は喧嘩腰の自分の態度が少し恥ずかしくなった。



「だから、そういう事ではなくてね……どうしてこんな、辺境の村の薬師を訪ねようなんて気を起こしたの?」



 口調を和らげて言うと、伯爵は答えた。



紫忌しきがそなたの話をしていた」


「誰ですって?」


「弟だ。白男爵はくだんしゃくの称号を持つ」


「あ、あの、確か人族の血を引く方です」



 後ろからガイリスが、おっかなびっくりという風に言った。少女はそちらを見やり、もう一度伯爵の方を見た。



「人の血を引く弟さんがいるの?」


「あれは寿命こそわれらと同じだが、人としての弱さを引き継いでいる。そなたの話を耳にして、わたしの所に来た」



 少女はまばたいた。伯爵の話は要点のみに限られていたので、彼女は伯爵の弟が病弱であるのかと思った。



「弟さん、体が弱いの?」



 そう尋ねてみると、伯爵は少し考えた後に答えた。



「弱い」



 彼の返事には、『自分と比べれば』という一言が抜けていた。紫忌は普通の人間よりはよほど、頑丈な体を持っている。



「そう」



 しかし少女には、伯爵がはぶいた言葉などわからなかった。この魔族は病弱な弟の為にここまで来たのだろう。彼女はそう思った。



「それならそうと、最初から言えばいいのに……弟さん、幾つになられるの?」



 態度を少し改める。治療を行う者の顔になって尋ねると、伯爵は答えた。



「二百と少しだが」


「ああ、魔の民は歳の取り方が遅いのよね。ええと……人族の年齢で言えば、幾つぐらいに見える方なの?」


「わたしは人族の事にはあまり詳しくない」



 困ったように伯爵が言った。少女は少し考えてから自分を指さした。



「わたしが闇魔族なら、幾つぐらいに見えるのかしら」



 伯爵は「百五十という所か」と答えた。



「そう。じゃあ……あなたの弟さんは人族で言うなら二十歳ぐらいかしらね。でも魔の民って、薬草が効くのかしら。適当な薬草は渡すけれど。一度本人にここへ来るよう、仰っていただけますか」


「あれに? かまわぬが」



 伯爵は不思議そうな顔で言った。



「しかしその薬草は、どうするのだ?」


「弟さんに渡して下さい。食事に混ぜるか、せんじて飲むかしていただければ」


「あれに渡す……なぜ」


「なぜって」



 少女は、何だか変だという顔になった。



「体の弱い方なのでしょう? それでわたしを訪ねたのではないの? 弟さんを案じて」



 伯爵は沈黙した。ユーラも沈黙して相手の言葉を待った。



「いや」



 やがて彼はそう言った。少女は眉を上げた。



「いいえと言ったの?」


「そうだが」


「だったら何の為に……あなた何をしに来たの、一体」


「そなたの話を弟が聞き、わたしに話した」



 もう一度、伯爵は繰り返した。



「それでわたしはそなたに興味を抱き、どのような存在なのか、確かめに来た」



 ユーラはぽかんとした表情で彼を見上げた。その顔に、徐々に怒りの色が浮かぶ。



「つまり、珍しいものが来たから暇つぶしに見物しに来たというわけ?」


「最初はそのつもりだったが……」


「帰って」



 相手の言葉をさえぎってぴしりと言うと、少女は家の中に入り、思い切り扉を閉めた。伯爵は所在なげにその場に立ち尽くした。





「まずい、まずいですよう、ご主人さま! あれだけ高い身分の魔族を怒らせたらどうなるか。ご主人さまの身が危険になります〜」



 家の中では、ガイリスがうろたえていた。



「わたしも怒ってるのよ! 何なの、あの男」


「仕方ないですよ、闇魔族なんですから! わけわからないのが当たり前なんです、闇魔族なんですから! だからとにかく、相手を怒らせないで下さい〜!」



 かんかんになっている少女をなだめようと、ガイリスは言葉を尽くした。あれこれと言った後、「この辺りの村人まで処罰の対象になったらどうするんです」という一言に、彼女はやっと反応した。



「わかったわ……とりあえず、話してみる。でもまだいる? 外に」


「います」


「普通、帰るわよ。こんな事をされたら」


「いやだから、闇魔族ですから……」


「その説明、何の説明にもなっていないのに、すごく良くわかるわ」



 げんなりした風に言うと、少女はもう一度扉を開けた。果してそこには伯爵が立っていた。



「どうしているのよ、ほんとに……」


「わたしも気の長い方ではないが……」



 月牙伯爵は、ユーラを見つめて言った。



「そなたの行動にはもう少し、忍耐と一貫性が必要なのではないのか?」



 薬師の少女は、むっとした顔になった。



「人を珍獣扱いしておいて、忍耐が必要とは良く言ったわね。それであなたは何がしたいの。わたしにはもう会ったから、最初の目的は果たしたのでしょう?」



 そう言うと、伯爵は困惑の表情を浮かべた。



「そうなのだが……」


「だったら早く帰りなさい。ここには魔族の興味を引きそうなものはないわ」



 伯爵は、本当に困った顔になった。



「招かれざる客である事は知っている。しかしわたしは、今しばらくそなたといたい」



 ユーラは目をぱちくりとした。



「どうして」


「そなたは変わっている。普通、闇魔族と出会った人族は、恐れおののいて口もきけなくなる。命じられた事には従い、歯向かおうなどとは考えもしない」


「それはそうでしょうね」



 思わず、ユーラはそう言った。闇魔族は通常、下の身分にある者が己に逆らう事を許さない。下手をすれば、一族郎党皆殺しになる。



「しかしそなたはわたしに悪態をつき、そこをどけと命じ、今は帰れと言う。非常に珍しい」


「そんな事したんですかあ、ご主人さま」



 ガイリスは、失神しそうになっている。



「それだけされて容認している、あなたも相当変わっているけれど」



 列挙れっきょされた自分の行為の無謀むぼうさに、さすがに居心地が悪くなったが、ユーラは咳払いをしてごまかし、そう言った。



「あなたはここにいたいわけね?」


「そうだな」


「でも人を訪ねる時刻ではないわよ。わたしは夕食を食べる所だし」


「われらは日中には動けぬゆえ、夜にしかおとなうことができぬ。したが、そなたの感覚ではそうであろうな。無断でそなたの歌を見聞きした事とあわせて、非礼を詫びよう」



 そう言うと、伯爵は少女の前に膝をつき、頭を垂れた。ガイリスが奇妙にくぐもった声を上げる。高位の魔族が膝をつき、頭を下げるという驚倒きょうとうものの光景を見た為だ。


 少女も目を丸くした。闇魔族がこのような態度を取るなど、聞いたことがない。しかも自分の言い分は、言いがかりに近いものだ。



「伯爵。顔を上げて……立ってちょうだい」



 半ば慌て、半ば弱ってそう言うと、伯爵は顔を上げた。



「許してもらえるのだろうか」


「許すも何も、わたしのは八つ当たりよ」


「許してはもらえぬのか?」



 伯爵は寂しげな顔になり、ユーラは詰まった。自分がひどい事をしたような気になる。



「伯爵。わたしが言った事は、言いがかりなのよ。闇魔族が日中動けないことは、誰でも知っているわ。それがわかっていて……何て顔をするの。立ってちょうだい」


「そなたが許さぬのなら、立てぬ」


「許します。だから立って」



 伯爵は微笑むと、少女に言われた通り立ち上がった。重さがあるとは思えないような、なめらかで優雅な動きだった。



「どうして、ひざまずいたりなんか……闇魔族の貴族でここの領主でもある方が、そう簡単に頭を下げたりしないでちょうだい。一介の薬師なんかに」



 ほっとして少女が言うと、伯爵は真紅の目を少し細めた。



「そなたにひざまずくは、わが恥ではない」


「わたしは誰かをひざまずかせる事には慣れていないの。あまり良い気はしないわ」



 伯爵は眉をくもらせた。



「そなたを不快にさせたか?」


「そうではなくて……あのね。わたしは、誰かをひざまずかせる行為が好きではないの。相手を大事にしていないような気がして」



 伯爵が驚いたような顔になった。



「そなたは、わたしを大事にしようと思ったのか?」


「そういう意味じゃ……あら? そうなのかしら」



 少女は自分の言葉の意味を考えた。



「そうね。そういう意味ね。わたし、魔族でも、半獣族でも、人族でも、できるだけ相手を一人の存在として……大切だと考えたいの」


「魔族でも、半獣族でも、人族でも?」


「どの種族の者でも、特別扱いはしないわ」


「なるほど」



 怒りもせずにそう言った伯爵を、少女は不思議そうな顔で見上げた。



「怒らないの? 魔族は普通、こんな事を言われたら怒るわよ」


「われらは己を優れたものと考えるゆえ、そうであろうな。したがそなたには怒れぬ」



 薬師の少女は複雑な顔になって伯爵を見つめた。



「似ていると思ったのに……、全然違うわ」


「似ている?」


「昔会った闇魔族とね。顔とか、とても」



 伯爵は不快そうな顔になった。



「わたしが誰かに似ている事など、あり得ぬぞ。わたしはこの世で唯一、わたしだけだ。似ていると言うのなら、その男の方がわたしに似ているのだ」


「そう? でも似ていないと今は思っているから。印象が全然違っていて……」


「ならば良い。わたしはそなたには、どのように見えているのだ?」


「そうね。闇魔族らしく、偉そうは偉そうなのだけれど。なんだか……、」



 ユーラは伯爵を見つめ、適当な言葉を探した。彼は妙に人間らしい。人族に詫びる闇魔族など初めて見た。だがそんな事を言うと、彼らには侮辱だろう。



「好ましいわ」



 あれこれ考えたあげく、結局そう言った。言ってから少女は、相手の反応に驚いた。伯爵が実に、うれしげに微笑んだからだ。



(子どもがほめてもらった時みたいな顔に見えるんだけど……)



「そうか」



 伯爵は微笑んだまま言った。



「わたしはそなたに、好ましく見えるか」


「ええ、まあ……伯爵、あの」


氷玉ひぎょくだ」


「え?」


「わたしの事は、氷玉と呼んでほしい」



 背後でがたんという音がした。振り返るとガイリスが床に座り込んでいた。転んだらしい。


 慌ててそちらに行こうとしたが、彼が必死で大丈夫だと合図しているので、少女は行きかけた足を止めた。伯爵の方を向く。



「そう名乗っていたわね。でも伯爵の地位にある方を、名前では呼べないわ」



 そう言うと、伯爵は悲しげな顔になった。



「わたしの名は、呼ぶ価値もないか?」


「あなたの名前は綺麗よ。でも身分が」


「最初は呼んでくれたではないか」


「そうだけど、でも……呼んでほしいの?」



 伯爵が真面目な顔でうなずく。ユーラは思案した。自分の態度はほめられたものではなかったし、これぐらいは譲歩すべきだろう。



「では、氷玉。他に誰かいる時は伯爵と呼ぶけれど、それで良い?」



 伯爵は笑みを浮かべた。どうしてこんなにうれしそうなんだろうと彼女は思った。



「そなたの唇で発音されると、まるで違う名のように聞こえる。心より感謝する、姫」



 どういう意味かと少女は思ったが、相手が自分に使った呼称が気になった。



「どうしてわたしが姫なの?」



 ユーラが尋ねると、伯爵は答えた。



「そなたは敬意を払われるべき存在だ」


「わたし、お姫さまなんてがらじゃないわよ、伯爵……」


「氷玉だ」


「氷玉。わたしは身分なんて、ないに等しい人間よ。あなたの領に住まわせてもらっている、ただの娘に過ぎないわ」


「そなたはわたしが自らひざまずいた者だ。わが姫よ。何をしてほしい。望みはあるか。かなう限り、そなたの望みをかなえよう」


 伯爵は静かに立っていたが、その顔には喜びが踊り、言葉には力強さがあった。名前で呼んでもらえた事がそんなにうれしかったのだろうかと、少女は思った。



「そう言われても、闇魔族に頼む事なんて思いつかない……そうだ、あなた夜でも目が見えるのよね」



 ふと思いついて彼女は言った。月牙伯爵はうなずいた。



「日が沈んでより後が、われらの世界ゆえ」


「やり残した作業があるの。暗いからあきらめたのだけど。手伝ってもらえる?」



 後ろでガイリスが、ひいという声を上げた。



「ご主人さま、手伝えって言うんなら、おれがやります!」



 しかし彼の申し出は、伯爵に一蹴いっしゅうされた。



「だまれ半獣の。姫はわたしに頼んでいる」



 冷然と命じるその声に、ガイリスは身を強張こわばらせた。高位魔族は魔力の塊のような存在である。声音一つにも力がもる。半獣族であるガイリスは、伯爵がそこにいるだけで、立っていられないほどの圧迫感を感じていた。声音に含まれたいらだちを感じた今は、恐怖で動けない。



「あの子を怖がらせないでちょうだい。その姫って言うの、やっぱり気になるのだけど」



 ユーラが言った。伯爵の注意がそれ、少年はやっと呼吸ができるようになった。



「気に入らぬのか?」


「何だか気恥ずかしくて。名前で呼んでもらえないかしら」



 伯爵は、目を丸くした。



「いや、それは。そなたの願いではあるが」


「だめなの? ガイリスもあれこれ言ってわたしの事、名前で呼ばないけど」


「そこの半獣がそのような事をしたのなら、八つ裂きにしている」



 伯爵の言葉に、少年は震え上がった。



「怖がらせないでってば。なに? 魔族には名前に何か、禁忌があるの? でもそうしたら、わたしがあなたの名を呼ぶのって……」


「そなたがわたしを名で呼ぶは、正しい。わたしは自ら、そなたに名を明かした。ゆえにそなたには、我が名を口にする権利がある」


「良くわからないわ」


「気にせずとも良い、そういうものだ。手伝う事とはなんだ」



 伯爵が言い、少女は答えた。



「あ、そうね。簡単な畑仕事なんだけど」


「ご、ごしゅじんさま……」



 少年が泣きそうな声で言った。やめて下さいという思いが、その一言に込められていた。



「畑仕事か。興味深いな」



 しかし伯爵は取り合わず、ユーラも同様だった。働き手が一人確保できたようだと、彼女はにっこりした。



「手順は説明するわ。ついでにうねを耕してもらえると助かるわね」





 少女は松明を持ってくると、彼と共に外へ出て行った。残されたガイリスは、この場で失神できたらどれだけ良いだろうと思った。


 闇魔族の貴族に畑仕事をさせる主人も主人だが、引き受ける伯爵も伯爵だ。後について行って止めるべきだろうか。だがしかし。


 あれこれと悩んだ末に、彼は外に出た。そうして見なければ良かったという光景を目撃する。



 すきを使って畑を耕している〈銀の闇王〉、魔族の中の魔族との誉れも高い、月牙伯爵。



 どうしよう、と彼は思った。目を閉じるべきか。視線をそらすと失礼だろうか。いやそれよりも。伯爵にこんな事をさせたと知ったら、配下の者たちが何をしでかすか。


 自身も農具を手に取って働いていたユーラはこの時、立ち尽くすガイリスに気づいた。



「あら、ガイリス。ちょうど良かったわ。お茶の用意をしておいてくれる?」


「わかりました」



 ガイリスは家に戻った。何も考えず、とにかく命じられた事をしよう。それが良い。



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