1.蒼き月と闇の城
闇魔族はアリエンテス大陸において、最高位に位置する存在である。彼らは多くの種族と生命の上に君臨する。
その矜持は高く、戦を好む性質ゆえに、彼らはしばしば同族同志でも争う。多くの命を巻き添えにして。
闇魔族を止められる存在はいないとされている。だがただ一種のみ、彼らが無条件に従う存在がいる。
〈癒し手〉。
聖者とも呼ばれる、治癒の力を持つ種族である。破壊にしか魔力を使えぬ闇魔族にとって、彼らは対局に位置する。
魔族の一種であるとされるが詳細は不明であり、また数が少なく、百年に一人現れれば良い方で、数百年に渡り全く現れなかった時代もあった。
今、大陸では人族のほとんどがこの存在を知らず、半獣族も、そして魔族ですら、その存在を伝説のものだと思っている。
* * *
「少しばかり変わった人の子が、領内に住み着きました」
闇と月光に満たされた蒼月闇の城。山を穿って造られたそこは、月牙一族の当主が代々、居城としてきた場所である。
そこでそう言ったのは、白男爵紫忌だった。夕闇の字を持つ男である。
「変わった?」
城のあるじであり、一族の当主でもある月牙伯爵氷玉は、磨き抜かれた銀のチェス盤に並べていた水晶の駒を動かす手を止め、そちらを見やった。
豪奢な椅子に腰かける伯爵は、二十代半ばの青年の姿をしていた。
長身にして優美な痩身。闇魔族の特徴である青白い肌に真紅の瞳をし、冷たく輝く銀の髪をしている。銀月の字を持ち、〈闇王〉の尊称を贈られる、大陸でも屈指の実力を持つ魔族である。
その美貌はさえざえとして、見た者に畏怖の思いを抱かせる。
わずか百歳で父である蒼牙を倒し、爵位を継いだ。現在は三百歳ほどになる。
対する紫忌は髪の色こそ白いものの、肌は褐色、目の色は紫だった。顔だちは整っているが粗削りな印象があり、体つきもがっしりとしている。
彼は氷玉の異母弟で、人族の血を引いていた。
頑健な体と長寿を持ってはいるものの、魔力はほとんど使えない。
本来ならば魔族と認められるはずもない存在だが、氷玉が父親に挑戦した際、彼は兄に助力した。その功績から男爵の地位を贈られたのである。
とは言え所領を持つわけでもなく、配下の者もほとんどいない。氷玉の城に半ば住み、普段は月牙の領内をふらついている。半分が人族である為か、陽光に耐性があるのも闇魔族らしくなかった。
「まだ若い娘ですが。三年ほど前に領内に入ったようです。灰魔樫の森の側にある廃村で、薬師をして暮らしています」
紫忌は言った。
「どこから来たかはわかりません。最近は人族の難民はみな、うちを目指します。兄上はあまり無体をしませんからね。
人族の血を引く弟を重んじてもいる。少しはましな暮らしができるかもと思うわけです。
その娘も兄上の評判を聞いて、こちらに来たのでしょう」
「そなたを重んじた覚えはないが……」
「人は見たいものを見るものです。おれがこの城にいる、それだけで期待するのですよ」
紫忌は氷玉の側に近寄ると、チェス盤をのぞきこんだ。
「これも領民からの献上品でしょう?」
「つまらぬ」
そう言うと氷玉は職人が技術を尽くして作ったのだろう駒を、手でないで倒した。硬質な音を立てて水晶の駒が幾つも倒れ、盤からこぼれて床に転がり落ちる。
「良くできていたではありませんか」
「だが、つまらぬ。わたしには人を使って魔力の実験をする趣味はないがな。退屈が過ぎるとやってみても良いかと思えてくる」
「評判が台無しになりますよ」
「人ごときの思惑を、なにゆえわたしが気にかけねばならぬ」
紫忌は困ったような顔で、顎をなでた。
「そうですけどね。おれは兄上には評判の良い領主でいて欲しいんですよ。
ちょっとした快挙じゃないですか。恐怖で統治する闇魔族の中、領民に慕われる変な貴族ってのは」
「そなたを楽しませる為に、領主をしているわけでもないぞ」
「〈銀の闇王〉の伝説に箔がつく。ではありませんか?」
〈闇王〉とは、アリエンテス大陸の闇魔族の中で、最も強い力を持つ者に贈られる称号である。この称号が冠される者は現在、氷玉を含めて五名しかいない。
「兄上の統治は千年は続くはず。となれば、他と違った所が多少はあった方が」
「わが治世が続かねば、そなたにも先はないゆえな」
氷玉の言葉に紫忌は苦笑した。
「もちろんです。半分は人ですからね、おれは。
兄上ぐらいなものですよ、こんなのに爵位をくれる酔狂な魔の民は。
別に欲しくもなかったですけどね。じゃあ最後まで付き合ってやろうかなって気にはなりました」
「『付き合ってやる』とは不遜であろう。そなたを選んだのはわたしだ。だが……千年の統治か。
それはそれで、つまらぬ」
盤に残った駒を形の良い長い指でつまみ上げると、氷玉はためつすがめつした。
「闇魔族の貴族というのは退屈なものだ。長く生きるわれらにとって、目新しい事はほとんどない。
戦でも起こして領土を広げる他は、する事がなくなってゆく。
だがもう、わたしに楯突く手頃な貴族はいなくなった」
物憂げに言うと、彼は片手を握りしめた。微かな音を立て、水晶の駒が砕ける。
「雪華伯も彩子爵も不甲斐ない。もう少しねばれば良いものを、あっさりと倒されて」
指を開くと、先ほどまでは駒だったものが砂と化していた。それをさらさらと盤上にこぼすと、氷玉は自らの手で滅ぼした一族の当主の名を口にした。紫忌が眉を上げる。
「彼らに倒されたかったように聞こえますよ、兄上」
「己より弱い者に倒されるなど、わが矜持にかけてあり得ぬ。つまらぬ。誰かわたしに挑む者はおらぬのか」
「難しいと思いますが。この辺り一帯は、月牙の所領になりましたし。後は〈紅の闇王〉配下の貴族ぐらいしか」
「紅蓮|侯か。あれとは事を起こせぬ。まだ」
「まだ……という事は、いつかは戦をなさるおつもりで」
「二千年を生きる侯だ。それなりに楽しめる。さぞ心踊る戦運びをしてくれるだろう」
氷玉は微笑んだ。口調には、楽しい遊びについて語っているかのような響きがあった。紫忌は呆れた顔になった。
「つくづくおれは、半分人で良かったと思いますよ。趣味も暇つぶしも気晴らしも戦だなんて人生、耐えられない」
「己より強い相手と死力を尽くして戦うは、闇魔族のたしなみ。そなた、そのような事を言うから他の魔の民から見下げられるのだぞ」
「見下げられて結構。おれを魔族扱いする魔族なんてのは、兄上ぐらいなものですよ。気晴らしも他に、色々と見つけられますし」
「どんな気張らしだ」
「人族のふりをして、あちこちにもぐり込んでます。これが結構、面白くて。
おれは見かけがこうでしょう。髪を染めれば十分、人間に見えるんですよ。
一度『闇魔族だ』と言ってみたんですが、大笑いされました。真っ昼間に外を歩く闇魔族がどこにいるって。色々やってますよ、それで。用心棒とか」
氷玉は妙な顔になった。それのどこが楽しいのか、わからなかったのだ。
「それが楽しいのか?」
「楽しいですよ。悪さをしていた半獣の民を成敗した事もあります。おかげで一部でおれは、『魔狩人』だと思われてます」
魔狩人とは魔獣や妖獣を退治する者たちの総称で、多くは武族の成れの果てだった。この大陸では、最も卑しいものとされている。
氷玉はますます妙な顔になった。
「そんな扱いを受けて本当に楽しいのか?」
「もちろん。例の娘もそうやって見つけたわけですし」
最初の話題に戻ってきた紫忌は、氷玉が聞く気になっているのを見て取ると、続けた。
「十三、四の小娘です。食べるものも食べてなかったのか、がりがりで。顔だちは悪くなかったので、もう少し太れば花が開いたようになると思うのですがね。
立ち居振る舞いは、農民のものとは違います。軽やかで、舞を舞っているように動く。
武芸を学んだという風ではありませんから、渡り人の中ででも、暮らしていたのかもしれません。あれらは歌や踊りを見せて町や村を渡り歩きますから。
だというのに、教養ある者の話し方をします。隠そうとはしているようでしたが、綺麗な発音でしたよ。
薬師としてはそこそこの腕があり、病人や怪我人を助けて食べ物をもらっています。それは良いのですが……」
紫忌は思わせぶりに言葉を切ると、続けた。
「側に同い年ぐらいの少年がいましてね。人に似た姿をしているので一見わかりづらいんですが、半獣です。そいつがこともあろうに、その小娘に従っています」
氷玉が眉を上げた。
「何かの間違いではないのか。半獣は、己より強い者にしか膝を折らぬぞ」
「イリリアとアルシナに確認させたら、間違いなく同族だと。で、彼女たちがまた妙な事を言うんですよ」
二人は紫忌の護衛の半獣族で、魔力の使えない彼を補佐している。
「身が震える、と。その娘の前に出ると、ひざまずきたくなるんだそうで」
「人ごときに、半獣の精鋭が?」
「おかしいでしょう? それでおれも、腹をくくりましてね。娘に直接、会ってみました。が、よくわからない。
確かに、どうかすると気圧されるようなものはありますが……」
「気圧される?名だたる貴族を前にしても、恐れの色すら見せなかったそなたが?」
「恐れぐらいは感じてましたよ。その娘に感じるのは恐れと言うより……、得体の知れなさと言うか」
紫忌は自信なさそうな口調で言った。
「低位魔族辺り……ではそなたが圧されるはずもないな。貴族の血を引く者では」
「だとすると、薬師をしているのは妙です」
闇魔族の血を引く者は、例外なく好戦的になる。治療や修復に関した能力を持つ者はそして、皆無である。
自己修復能力の高い魔族にとって、他者の手を借りての回復などは、あり得なかった。そんな事をすれば、能力が低いと見なされる。
そこから転じて治療の技を持つ者をも、彼らは低く見る傾向にあった。半獣族が従うほど血が濃く、能力が高い存在なら、治療の技を身につけるはずがない。
「では、半獣か?」
「イリリアたちが、それはないと」
氷玉は口許を歪め、笑みを浮かべた。
「そなたはいつも、わたしの無聊を紛らわせてくれるな、紫忌」
「見に行かれますか」
「そのように興味深き者なれば。一時とはいえ、この気鬱も去ぬるであろう。どこと言ったか」
「元は雪華伯爵の領土だった所です。灰魔樫の森の近くの。レサンの村、と」
「娘の名は」
「ユーラと名乗りました。村人からは、薬師のミストレスと呼ばれています」
次回、やっと主人公登場。