7.終わらない夜の終わり 3
3
彼は白熱する力の渦の中にいた。ひどく自由な気分だった。己を己として止めていた何かが壊れ、凶暴なまでの破壊の衝動に突き動かされていた。力を使う事が、楽しくてたまらなかった。
指が崩れ、腕が内から崩壊する。足の肉がはじけ飛び、骨がむき出しになる。その間も力は彼の内からあふれ続けた。知らずして笑いながら、彼は力を放ち続けた。
高揚した気分で周囲を破壊し続け、己をも破壊していた彼の前に、何かが現れる。
栗色の髪と榛の瞳の少女。
心臓が、はねた。
雪雅は力を最大限にまで使い、暴走する月牙伯爵の力を止めようとしていた。駆り出された水の民や半獣族たちも必死で対応しているが、ほとんど何の役にも立っていない。
伯爵を封じる為に張っている結界がゆらぎ、数名の半獣族が力尽きてはじき飛ばされた。待機していた別の者がすぐに入るが、あいた穴から力が走り、周囲の壁を撃って溶かした。何人か、巻き込まれて焼かれたかもしれない。
その時、空間が揺れて三人の人影が現れた。青雅と白男爵、そして……、
雪雅は目を見張った。人族の少女の姿を取るその者は、魂を奪われるような存在だった。際立って美しいわけではない。強い魔力が内在するわけでもない。だと言うのに、なぜか頭を垂れ、ひざまずかねばならないという思いにかられる。
「気を抜くな!」
青雅がそう言うなり、結界を補強した。少女に気を取られていた雪雅は慌てて、元の作業に戻る。
「氷玉はどこに」
少女が言った。紫忌は眉をしかめた。
「多分、この底。前よりすごいな」
床の一部が液状化している。どろりとして沼のようになった床は、すり鉢状にへこんでいた。底には火花を散らしつつ、白熱する炎が燃え上がっている。
炎の中に人影がある事にユーラは気づいた。黒っぽく見えるその人影には腕がなかった。足も骨だけになり、体のあちこちの臓器が剥き出しになっている。その様に彼女は、息を飲んだ。
「前はおれが最初から側にいた。頭の隅にそれがあったから止まったんだろうが……」
紫忌は頭をがりがり掻くと、「兄上! お元気ですか!」といささか間の抜けた問いを発した。声に反応したのか炎が勢いを増し、彼の方に向かう。しかし紫忌を焼き尽くす寸前でそれは、結界に阻まれて爆散した。
「元気は元気みたいだ」
紫忌は感想を述べた。青雅が眉間に皺を寄せる。
「遊んでおられないで、何とかして下さい」
「遊んでたわけじゃないんだが。これじゃ近寄れないし」
月牙伯爵のひどい状態に衝撃を受けていたユーラは、そこで顔を上げた。
「わたしを行かせて……彼の側に」
「危険すぎます!」
「あ、そりゃいいかも」
青雅が即座に反対し、紫忌がうなずいた。自分を睨む配下の騎士に、紫忌は肩をすくめて見せた。
「さっきのでわかったろう。今の兄上にはおれがわからない。でもお嬢ちゃんは兄上が自ら名を明かし、膝をついた相手だ……少しは可能性がある」
「我を忘れている閣下に、判別がつくとお思いか!」
「だから『少しは』と言ったろう。お嬢ちゃんでも駄目なら兄上は終わりだ」
紫忌は炎の中に立つ月牙伯爵を見やった。
「おれは兄上の方がお嬢ちゃんより大事なんでね。可能性があるなら賭けてみたい」
「家族なら、それは当たり前よ」
少女は言うと、紫忌の腕に手を置いた。彼の瞳の奥に、隠しきれない不安があるのに気づいたからだ。
伯爵の側までには、青雅が共に行く事になった。
「閣下の周囲は炎熱の渦。人族のお体ではひとたまりもない。わたくしが結界を張りながら近づきます。姫君には決して、わたくしから離れませんよう。よろしいですね」
「ええ。お願い」
少女の言葉に青雅は、「力の限りお守りいたします」と答えた。それから彼は、紫忌の方を向いた。
「閣下には、この場をお離れ下さい」
紫忌は眉を上げた。
「おれに逃げろって?」
「准男爵も半獣族の者たちも、限界が近い。わたくしは姫君を守る為、全力を出さねばなりません。閣下に何かあった時、そちらに戻る余力はないでしょう。どうぞ、安全な所にいらして下さい」
「兄上が滅びるのであれば、おれにも未来はないがな」
そう言った紫忌に、青雅は眉をくもらせた。
「閣下……」
「心配するな。危なそうならちゃんと逃げる。だができる限り、ここで見ていたいんだ」
口調をやわらげて紫忌は言った。青雅は不安げな顔をしつつ、「はい」と言って頭を下げた。
青雅はユーラを抱き上げると、熱と炎の中心に向かって歩きだした。
(熱い……)
ユーラの体から、汗が吹き出した。呼吸が苦しい。常ならば、一瞬で炭化するほどの熱と炎。恐ろしいほどの力の乱舞。
押し寄せてきた炎が、寸前ではじかれた。目には見えないが、青雅の言った結界は確かに張られている。しかし、全てを遮断できているわけではない。遮り切れなかった熱が、少女の元まで伝わってくる。
「姫君? 大丈夫ですか」
「だい、じょうぶ……」
焼けた空気を吸い込んでしまい、咳き込んだユーラに青雅が歩みを止めた。彼の胸に顔を伏せて、少女は言った。
「急いで。お願い」
「はい」
青雅は歩きだした。声音は穏やかだが、その顔は緊張に歪んでいた。一歩進むごとに伯爵の力は重くなる。それでも腕の中のこの少女を、守り抜かねばならないと彼は思っていた。
伯爵の力がぐんと押し寄せ、抗いきれずに青雅はよろめいた。少女がはっとなって顔を上げる。彼は安心させるかのように彼女を胸に抱え込んだ。
「失礼を。足場が思わしくなく」
ささやくように言う彼に、「わたしは平気」とささやき返す。下を見た少女は、唇をかんだ。青雅の足が、泥のようになった床に沈んでいる。溶けて渦巻く、灼熱の泥に。
「騎士のかた。あなたの足が」
「これぐらいは大丈夫です。それよりわたくしの事は、名で呼び捨てて下さい。青雅と」
「名を呼ぶ事は、失礼にあたるのでしょう」
「本人が許可した場合は別です。それにわたくしは、伯爵閣下よりはるかに格下の存在です。貴女には呼び捨てられる事が正しいのですよ、姫君」
炎がまた襲ってきた。身を縮めたユーラを青雅が全身でかばう。
「姫君。お怪我は」
彼の服の一部が燃えて消し炭となる。焦げた服の合間からのぞく肌は、火膨れを起こしている。
「青雅。あなた火傷……」
「闇魔族なら、大した事はありません。われらは何度でも再生します……っ」
巨大な炎が襲いかかるのに気づき、青雅は片手一本でユーラを支え、もう片方の手を差し出した。魔力の壁を展開すると、すさまじい音がして火花が散った。
「姫……、こ、ここまでのようです。閣下は……、わたくしが近づく事を、望んで、おられない」
炎を遮り、燃える大気を遮断しながら青雅が言った。何とかして伯爵の力を押し返そうとするのだが、相手の力が強すぎて、立っているのがやっとだ。その腕が膨れ上がり、血管が破裂し、指先から燃え上がって炭化してゆくのをユーラは見た。彼の指がじわじわと塵に変わってゆくのを。
「氷玉!」
少女は声を張り上げた。熱された大気が喉を焼く。息を吸い込むだけで涙が出るほどつらい。
「氷玉、やめて! お願いだから!」
炎は止まらない。黒く焦げた青雅の腕の、指先が崩れて落ちた。むきだしになった手の骨が、少し遅れて塵となる。
「氷玉!」
叫んでから少女は、咳き込んだ。涙があふれる。だが頬をつたうそれは、すぐに蒸発して消えてしまう。
「わたしが、わからないの……」
「姫君……顔を、伏せて。喉をやられます」
ついに手首までが崩れ落ちた青雅が、やや青ざめた顔で言った。
「閣下は、わたくしの魔力に反応しておられるのです。同族は、敵だと認識しておられるのでしょう。決してあなたへの心が消えたわけ、では」
苦痛はすさまじいはずなのに、少女を気づかっている。彼女が心に打撃を受けたのではと。
「ありがとう、青雅。ごめんなさい。あなたの腕……、」
言われた通りに彼の胸に顔を伏せて言うと、青雅の穏やかな声が聞こえた。
「わたくしは、闇魔族ですから。どうという事はございません」
叩きつけられる炎をはじく音。飛び散る火花。
「しかし、閣下の力はさすがに……、再生が追いつかない。これ以上は近づけません」
「わたし一人で、何とか近づけないかしら」
少女が意を決して言うと、青雅の体がわずかに揺れた。
「危険すぎます」
「できないとは言わないのね」
「御身に害が及びかねません」
「このままでは、氷玉が死んでしまう。あなたも力が尽きてしまうわ」
「わたくしの事など、お気にかけられずともよろしいのです。優しき〈癒し手〉の姫よ。わたくしは騎士に過ぎません。駒として扱われるのが順当」
「そんな真似は、できないわ」
少女は顔を上げた。やや青ざめた頬の青雅は、前を向いたまま尋ねた。
「なぜですか」
「助けてくれる人に感謝をするのは、おかしな事? あなたはわたしを助けてくれた。今も守ってくれている。わたし、あなたが傷つくのを見ているのも、嫌なのよ」
「わたくしが……」
青雅は前を向いたまま、とまどったような顔をした。何か、不思議な言葉を聞いたというような。
「なぜ、わたくしが傷つくのを見るのがお嫌なのでしょう」
「なぜって、」
「わたくしが、銀月の君に似ているからですか?」
火花が飛び散り、ユーラは首をすくめた。
「それは最初は、似ていると思ったけれど。あなたと氷玉は全然違うわ」
「違う……」
「違っているから大事なのよ。あなたも氷玉も、この世にただ一人しかいないのだもの。みんな違っていて、だからみんなが大切で大事だわ。そうでしょう? あなたに無理をさせているわたしが言っても、説得力はないのだけれど……」
青雅は前を向いたまま、少女の言葉を考えているようだったが、やがて静かに言った。
「姫君。闇魔族の騎士とは、いくらでも替えのきく、使い潰されるのが身上の者。わたくしの血統の大元は保存されておりますので、斃れた所で問題はないのですよ。それにわたくしは今、主君の前で力を振るっている。無様は晒せない……ただそれだけ。意地を張っているだけの事です。姫君が、わたくしごときにお気を使われる必要は、本当にないのです。ですが」
青雅は崩れかけた腕を戻し、そっと少女を胸に抱き寄せた。
「お心には感謝いたします」
「青雅……?」
「けれど、姫君。今ここで、あなたさまが優先すべきは銀月の君。わたくしではない。それをお忘れなきよう」
彼は、何かを決意したような声で言った。
「さあ。お命じ下さい。なさりたい事を。遠慮される事はない。わたくしには、闇魔族としての力があります」
彼の態度はどこかが、前とは違っていた。それがどことなく、不安な気がした。それでも自分が何を言わねばならないか、ユーラにはわかっていた。
「彼に近づきたい。近くで呼びかけたいの。お願い。力を貸して」
「それがあなたの望みならば、わたくしは、何としてもかなえましょう」
青雅は静かに言った。
「御身をわたくしの力で包みます。それならば少しの間なら、耐えられるでしょう。その代わりあなたさまはその足で、一歩ずつ歩まねばなりません。床は溶けております。大気が燃えだすほどの熱さも、全ては遮り切れぬでしょう。つらい道のりになります。それでも……?」
「行くわ」
「ではそういたしましょう。ですが、一つ約束をして下さい。決してわたくしの方を振り向かぬと」
「あなたの、方を?」
「振り向けば、心がくじけます。閣下の方だけを向いて、閣下の事だけを考えて下さい。よろしいですね」
ユーラは微笑んだ。
「約束するわ。青雅……感謝します。心より」
青雅の頬にも、笑みが浮かんだ。
「そのお言葉で、全て報われます。では、床に下ろします。よろしいですか」
雪雅はもはや立つ事もできず、それでも結界を維持しようと力を使い続けていた。その横に紫忌が立つ。
「おれに魔力が扱えれば良かったんだが。すまんな」
「気が散ります、夕闇の君。話しかけないで、いただきたい……っ」
荒い息をつきながら彼が言うと、紫忌は手を伸ばして彼の首筋に触れた。
「なに、」
指先から、何かが伝わってくる。雪雅は目を見開いた。
「人族の混じった力ですまんが。何かの足しにはなるか?」
触れていた指を離して紫忌が言う。尽きかけていた力が戻っている事に雪雅は気づいた。全身に重くのしかかっていた疲れが消えている。
「何をなされた」
「力の補充。誇りが傷つくとか言わないでくれよ。緊急事態なんだから」
雪雅は眉をひそめた。
「そんな事ができるなど、聞いた事がない……」
「水の民では時折ある。弱った者に力を分けるんだそうだ。おれは魔力を形にしてどうこうする事はできないが、こういう形でなら使えるらしい」
淡々とした口調で紫忌が言った。雪雅は前を向いた。
「闇魔族らしからぬ能力ですね」
「内緒にしてもらえると助かる。おれの評判は最初から地に落ちているようなもんだが、兄上がどうこう言われるのは耐えられん」
雪雅は口許を歪めた。
「それを言うなら、わたしのそれも地に落ちたようなものです。当主に逆らったあげく、綺羅月の君をも裏切った」
「見る目があっただけだろ。兄上と叔父上じゃ、格が違いすぎる。結果としておまえは正しい方についた」
あっさりと紫忌が言った。
「兄上はおまえを処罰したりはしないさ。こうまで尽力してるんだから……っと、おい。あいつら、何してるんだ」
雪雅ははっと息を飲んだ。月牙伯爵に向かって歩いていた青雅が、腕に抱えていた〈癒し手〉の姫を床に下ろしたのだ。少女はそれから、歩きだした。溶け崩れた床の上を、伯爵の方に向かい、一人で。
「青雅……、あいつっ!」
少女は振り返らない。よろめきながらひたすら、前を向いて歩く。彼女の周囲には目に見えない力の膜が張られ、押し寄せる炎をはじいていた。
その背後で、青雅は炎に包まれている。髪が燃え上がり、美しかった顔が焼け、手足も焼け焦げて、それでも彼は立っていた。なぜそうなったのかは明白だった。彼は自分を護る事を放棄したのだ。自分を護る力を捨てて、その分を少女の周囲の結界に注いだ。
少女を全力で護る為に。
「何を馬鹿な事を……、命が尽きるぞ!」
「お静まりを、白男爵。貴族の誇りがあるのなら、配下の者の戦を見届けられませ」
紫忌が血相を変え、結界の中に突っ込んで行きそうな気配を見せたので、雪雅は厳しい声でそれを止めた。
「戦だと? これが戦なものか!」
「戦です。彼にとっては」
雪雅は言った。
「主君の前で、無様は晒せませぬ。今、あれにとって姫君を護り切る事は、誇りと忠誠をかけた戦にも等しいものとなっております。無粋な真似はおやめ下さい」
「無粋だと? 配下を無為に失う事などおれには……、なぜ、おれがあれの主君だとわかった」
はたとなった紫忌が尋ねると、雪雅は微かに笑った。
「名を呼び捨てられました」
そう言ってから、彼は立ち上がった。紫忌の方を向かないまま。
「あれにしては上出来です。わたしはあなたをあるじにするなど、ごめんですがね」
「あれの事を良く知っているような口ぶりだな」
「われらはほぼ同じ系統の血を継いでおります。お互いの考える事はわかるのですよ。わずらわしい事に
。あれに死ぬつもりはありませんから、静かにご覧いただきたい」
紫忌は眉をひそめ、雪雅を見た。次に炎の中に立つ青雅を見やる。彼は全身を炎で焼かれ、今にも崩れ落ちそうだった。どう見ても死ぬ気でやっているようにしか見えない。
「死ぬつもりはないと言っても、死なないとは限らないだろう」
「戦とは、賭ですからね」
雪雅が言った。どこか楽しげだった。
「命を賭けて、われらは興じる。闇魔族とはそうしたもの。これであれが滅びたなら、それはそれだけのこと。運がなかった。ただ、姫君が危機に陥るのだけは避けたい。あれも命がある内は、意地でもあの方を護るでしょうが……そういうわけですから、白男爵。力の補充をもう少ししていただけますか」
紫忌は意表をつかれた顔をして、雪雅を見た。
「力の補充を? 自分から求めるのか。闇魔族であるおまえが」
「あれの力が尽きた時に、わたしは姫君をこちらまで引き寄せる役を担う」
雪雅は答えた。
「他者から力を分けてもらうなど、闇魔族としては確かに、道にもとる行い。ですがわたしの誇りは既に地に落ちている。ましてやこれは姫君の御為。何をためらう事がありましょう」
紫忌は雪雅を見つめた。次に炎の中の青雅を見、伯爵に向かって歩む少女を見つめた。
「おれにできる事は今の所、これしかないからな」
息をつくと彼は、雪雅の側に寄って首筋に手を当てた。
「だが見ているだけというのは、気分の悪いものだ」
青雅は、自身の元から歩み去る小さな背中を見つめていた。両の手を前に差し伸べ、彼女を護り、彼女が傷つかぬよう、力を放ち続ける。
彼女は振り返らない。一心に、前を向いて歩む。
それで良い、と彼は思った。炎が髪を焼き、体を焼く。闇魔族の再生能力が働いて、骨が見えるほどに焼かれた体を元に戻す。それをまた次々と焼かれ続け、今や彼は、月牙伯爵と大差ない姿となっていた。あちこちが黒く焦げ、皮膚が剥がれ、肉が溶け落ちて骨がむき出しになっている。
彼女がこの姿を見れば、歩みを止めてしまうだろう。きっとひどく、嘆く。
襲ってきた炎に腕の一本を塵に変えられ、それでも少女を護る力を止める事なく青雅は思った。彼を見る者はいつも、月牙伯爵の面影を彼の上に重ねた。青闇男爵は、甥に似た彼をことさらに貶め、配下の者の前でなぶって見せる事を好んだ。彼の能力も、人格も、彼らには何の意味もなかった。彼らにとって意味があったのは、伯爵に似た青雅の顔。それだけだったから。
違うと言ってくれたのは、姫君が初めてだった。違っている所が大事なのだと、そう言ってくれたのも。
(わたくしの忠誠は白男爵に捧げた。後悔はない)
焼かれながら青雅は微笑んだ。
(けれど今……、姫君。あなたを護りながら滅びる事ができたなら。それはそれで望外の幸福でありましょう)
彼女は月牙伯爵のもの。自分はただの騎士。だからこれで良い。これで。
ああ、だが。
(できるものなら……)
かすむ目で少女の背を見つめ、青雅は思った。
(最後に、もう一度。姫のお顔を……)
足が砕け、体が崩れて落ちる。炎が激しさを増して彼を打った。それでも青雅は自分を守る事をせず、力を少女に送り続けた。少女の背を見つめながら。
(わが君。わたくしの忠誠を見ていただけましたでしょうか)
眼球が崩れて塵になる。闇魔族としての感覚を働かせ、彼は少女の動きを追い、なおも力を送った。
(わたくしは……、)
意識が、暗転する。
少女は歩き出した。月牙伯爵の方に向かって。ただひたすら彼を見つめて。どろどろになった床に足を取られ、なかなか進めない。
熱い。
すさまじい熱が、少女の体にたたきつけられる。床に沈む足からは、焼けつく熱が伝わってくる。周囲では、高温の炎が荒れ狂っている。
(青雅は、ずっとこれを耐えていてくれた)
普通ならとうに死んでいるはずの炎の中で、彼女が立っていられるのは、彼が結界を張ってくれているからだ。それでも熱は遮り切れない。力の激しさも。足が火膨れを起こし、真っ赤になる。汗が吹き出してはすぐに蒸発する。体が内側から乾いてからからになる。
熱い。痛い。苦しい。
それでも行かなければ。少女はそう思い、歩を進めた。炎の中にいる伯爵の元へ。すり鉢状にへこんだ斜面にたどり着く。さらに強い熱気と炎が押し寄せる。傾斜する床に、転びそうになった。歯を食いしばって進み、炎の中の人影に呼びかける。
「ひぎょく」
声はささやくようなものしか出なかった。さらに前に進み、呼びかける。
「氷玉。しっかりして」
周囲の炎が、少し弱まった気がした。
白熱する炎の中を歩んできた少女は、彼に向かって何か言った。その姿が、その声がどこかにひっかかり、彼は顔をしかめた。何だろう。大切な事を忘れている気がする。
「……ひぎょく」
少女はそう言った。その音に彼は意識を向けた。力が弱まり、炎がゆっくりと静まっていく。この音は、気に入らない。嫌な記憶がある音だった。だが、
「氷玉。しっかりして」
少女の唇から、喉から放たれるこの音は……不快ではない。
心が静まる。高揚した気分が静まってゆく。
そんな彼の心とは裏腹に、周囲で静まる事を嫌がるように炎が跳ね、それが少女を打った。少女が倒れる。その瞬間、彼は心に痛みを覚えた。いけない。彼女の体は弱く、傷つきやすいのだ。ちょっとした事でも壊れてしまう……。
『風からも嵐からも守ってみせよう』
不意に、そんな言葉が浮かんだ。誰の言葉だったか。
『荒野に咲く花のようだ。繊細で、もろくはかない。だと言うのに、吹く風に向かって顔を上げる……』
倒れた少女が顔を上げる。彼に向かって微笑みかけ、手を差し伸べる。
「大丈夫よ……」
胸が、痛い。
「わたしは、大丈夫だから。氷玉。そんな顔を、しないで」
ああ。
「……、あ、あ、あ……」
不意に、全てが現実のものとなった。炎も、力も、自分自身も。放出していた力が消え、月牙伯爵はその場に崩れ落ちた。腕も足も塵と化し、激しい痛みが全身を襲っていた。
「 ……め。姫。すまぬ。わたし、が。わたしが、そなたを……」
周囲で一斉に、蒸気が上がった。熱せられた大気や床が、冷えてゆく。ユーラの片腕が、だらんと垂れていた。彼女の手足は赤く腫れ上がっている。着ている衣服もあちこちが焦げていた。
「大丈夫……、大丈夫だから」
彼女は膝立ちになると、いざるようにして彼の側に来た。
「青雅がわたしの周囲に結界を張ってくれたの。ちょっと、しびれたけど。あなたは? こんなひどい……こんなに傷ついて……」
力の暴走は収まったのに、体の崩壊が止まらない。肩が崩れ、骨が露出する。
「姫。すまぬ」
「ごめんなさい」
少女の声がふるえる。
「ごめんなさい。わたしをかばったと聞いたわ。それでこんな……こんな事に」
彼女の頬を、水の粒がつたう。手がないのが残念だった。あれば、ぬぐってあげられたのに。
「そなたは……、わが、姫ゆえ」
声帯が崩れかけている。うまく声が出せない。このまま塵になるのかと伯爵は思った。それも良い。
「名を……」
うまく出せない声で彼は言った。
「名を、呼んでくれ……姫」
『名無し』の闇魔族。父からも母からも、力の系統を示す名を与えられなかった者。その名は一族の恥と、親族全てに忌まれ、蔑まれた。氷玉という名はそれほどに価値のないもの、やくたいもないものの証だった。
だと言うのに彼女はそれを、ただの一言で価値あるものに変えた。
『綺麗な名前ね』
その一言が自分を救った。
「氷玉」
少女がささやく。ああ、と彼は思った。これは闇魔族の夢。これこそが。夢を見ることのない闇魔族が、生涯をかけて求めるもの。
最愛の者に名を呼ばれ、その手で長い生に幕を下ろしてもらう。
「わが名は……そなたの、もの」
未来永劫に。そう続けようとした彼は、それ以上喋れないことに気づいた。意識が薄れる。まるで、夜明けが近づいたかのように。
いや……、
(夜明けが……ここに)
薄れゆく意識の中で彼は思った。彼の唯一の存在、名を捧げた姫である少女の周囲に、淡く金色の光が集まりつつあった。
伯爵の姿を間近に見た時、ユーラの心にはただ痛みと悲しみがあった。彼はひどいありさまだった。腕は落ち、足もなくなり、肉や骨が露出している。生きているのが不思議なほどだ。そうして彼の体は、崩れ続けていた。話をしている間も、ずっと。
(死んでしまう)
闇魔族の死がどのようなものか、彼女は知らなかった。けれども今伯爵に訪れているのがそれであると、わからないはずもなかった。彼は死ぬ。このままでは。
「わが名は……そなたの、もの」
ひびわれた声でささやくように言うと、彼は笑みらしきものを浮かべた。彼女をなぐさめるかのように。どうしてこんなに優しいのだろうと少女は思った。死にかけているのに。こんなひどい状態なのに。
なおもわたしを気づかおうとする。
(歌が……)
光のやってくる気配を彼女は感じた。自らが資格を失ったはずの力が、そこにある。わかっていた。いつもそこにあることは。
憎しみと苦痛がぽっかりと黒い穴を開けている……。
『誇りを忘れるのではないよ』
ジーナの声がした。
『心を開き、世界を愛し、人々を守護する。それがわれらの在り方』
でも、ジーナ。わたしはもう愛せないの。涙を流しながらユーラは思った。あの男がわたしに憎しみを植えつけた。その憎しみが内からわたしを食い破り、心をからからにする。こんな荒れ果てた心では、歌を受け入れる事はできない。力を受け入れる事は。
冷たい目をした闇魔族の男。燃え上がる馬車。焼け焦げた小さな体。
『目を開いて、おまえの前にいる患者を見なさい!』
不意に、ジーナに叱りつけられた気がした。
『彼は、おまえの助けを待っている!』
ああ、とユーラは思った。ここにいるのはあの男ではない。これは氷玉。わたしをかばった為に、滅びようとしている友。
「〈癒し手〉の神よ。聖なるエリザよ。どうか彼を……彼を助けて」
ユーラはささやいた。歌が間近に来ているのがわかった。憎悪が口を開けているのも。
「罪も憎しみも、わたしの内にある。けれどそれは彼とは関わりのないもの。光よ。わたしを器として使い、その力をここに」
光が押し寄せ、憎しみが膨れ上がった。
「その為にわたしが砕けるのなら、……それでも良い」
そう言った途端、光が憎悪を押し退けた。圧倒的な力が少女に集まる。熱が生じる。力が溢れ、自身を通って広がりゆくのを少女は感じた。唇から歌が生まれるのを。
押し止めようとはせず、ただ流れに任せる。やって来るのは光。内からあふれるのもまた光。
ただ、光。
最初の音が輪を描く。次々と音が重なり、それは美しい文様を大気に描いた。溢れる。力が。自分の全てが光に染まる……。
意識が拡大し、少女は倒れる男を、その体を構成する細胞の一つ一つまでも見た。彼の命が今にも飛び去ろうとしているのがわかった。力をなくし、崩れてゆく細胞を歌の力を注いで支え、元通りに構成し始める。急がなければならなかった。光が留まっている時間はほんのわずか。
(わたしは、愛する)
呪文のように響くその言葉。
(わたしは、守る。この世にある最も小さくされた者を)
それは聖エリザの言葉。
(今、目の前にいる者もまた)
(力よ。光よ。彼を支え、彼を生かしめよ)
現れる、奇跡。
死に向かおうとしていたエメラダに自身の力を注いでいたグウェンは、響いてきた光に顔を上げた。歌声が聞こえる。
これは、魔力? いや、違う……。
周囲でうめいていた怪我人が、その声を止める。倒れていた者が数名、信じられぬという顔をして起き上がった。
「これは……?」
視線を落としたグウェンははっとなった。エメラダの胸の傷が消えてゆく。貴族の力で焼かれた傷が。呪詛のようにいつまでも残るそれは、じくじくと膿み、エメラダから生きる力を奪い続けていた。その傷が、消える。
血の気が失せ、白くなっていた彼女の頬に、赤みが差した。
「エメラダ」
意識が戻らないまま、彼女が低くうめき、身じろいだ。光が自分と彼女を包んだのを感じ、グウェンはそっと彼女を抱きしめた。今日は随分とたくさんの死を見た。
でも彼女は助かる。
「生きているか」
溶け崩れた床に倒れていた青雅は、かけられた声に再生したまぶたを持ち上げた。急速に大気が冷えてゆくのを感じる。蒸気が周囲で上がっていた。雪雅が気温を下げているのだろう。
新しい眼球が、相手の姿を映す。上がる蒸気に包まれた、褐色の肌と紫の目の男。
「なん、とか。申し訳……」
「なぜ詫びる」
「見苦しき、さまをお目に、かけ」
紫忌は息をつくと頭をがりがりと掻いた。
「ここまでやった配下を叱るような主君だと思われてるわけ、おれは? いいからとっとと再生しろ」
身を屈めると、彼はそっと青雅の頬に触れた。
「滅びるかと思ったぞ。無茶しやがって」
触れられた指先から、力が流れ込んで来るのを青雅は感じた。
「わが君……、」
「その呼びかけはナシ」
「わたくしごときに、力を使われるなど」
「文句は聞かない。おれはおれの好きにするし……ん?」
紫忌は眉をしかめた。
「妙だな。前にも同じ事を言った事があるような」
青雅は小さく微笑んだ。
「百年ほど前に。わたくしはまだ、ほんの子どもで。力を暴走させて弱っていた所を閣下に救われました」
「そうだっけ」
「あの時閣下は、わたくしに力を注いで助けて下さいました。滅びかけたわたくしを叱り、命を大事にするようにと諭して下さいました。あの時より、いつか閣下の役に立ちたい、お仕えしたいと」
紫忌はしばらく考えていたが、「ああ」と言った。
「あの時の子どもがおまえだったのか……って、待て。おれがあの時助けたのは確か、女の子だったぞ」
「わたくしです」
「マジ? 何てこった、てっきり女だと……思いっきり決めたつもりだったのに、恰好つけ損じゃねえかっ!」
青雅は主君を白い目で見上げた。
そこに輝く光が届く。少女の歌が。
紫忌が顔を上げる。青雅もまた。歌は青雅の崩れかけた体を癒し、周囲でまだ渦巻いている熱を放逐した。倒れ、傷ついている半獣族の者たちをも、彼女の歌は回復させている。
歌は広がる。光もまた。やわらかく、強く。しなやかに、優しく。それは音という形を取った力であり、祈りだった。輪を描き、ゆるやかに、しかし確実に広がる……城中の至る所へ。そうして倒れ、傷ついている者を癒してゆく。
「〈癒し手〉の力が……」
「あの娘にはこれで、三つも借りができちまった」
息をつくと紫忌は言った。
「兄上を正気に戻してもらったのと、イリリアを助けてくれたのと……回復しきるかどうかわからないが、命は助かったからな」
「後の一つは何ですか」
青雅が身を起こして尋ねると、紫忌はその頭にぽんと手を置いた。
「おまえを助けてくれた事だ。見ろ。再生が完了している」
さっきまで骨が見えるほどだった自分の体が、傷一つなく回復している事に青雅は気づいた。着ていた服は跡形もないが、体は完全に元に戻っている。
歌は、まだ続いている。暖かい、と青雅は思った。体中に熱と力が満ちてくる。優しく全身を包む音と光に、青雅は息をついた。まるで……、
話に聞く太陽の光のようだ。
少女のすぐ側で歌と光を注がれる伯爵は、急速に回復していた。目を閉じたまま横たわり、再生を続ける。手足が戻り、崩れていた体が戻る。それだけではない。青白かった彼の皮膚が、血色の良い色になり始めていた。まるで、人族のように。
少女は歌い続けている。
(あるべきものを)
(あるべきかたちに)
(生かしめよ。彼を……)
「そこまでだ、姫」
不意に、伯爵が目を開けてユーラの手を握った。再生した彼の手で。
「これ以上そなたの力を受けると、わたしは人族に戻ってしまう。もう良い」
「もう……良い」
ユーラは小さくつぶやいた。その髪が金に輝き、瞳が緑に変わっているのを彼は見た。
「ああ。もう良い」
半身を起こして微笑むと、少女の周囲に満ちていた光が消えた。髪と目の色が元に戻る。歌が消え、そうして少女は目を閉じた。体がゆらりとかしぐ。
伯爵は手を差し伸べた。彼女を抱き留める。
〈癒し手〉の姫はそのまま、意識を手放した。
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次回、最終話です。
そうして頭痛と吐き気はいまだ、私の中でタッグを組んで踊っています…。ううう。みなさまも風邪にはお気をつけて。