6.乱 4
「そろそろ参りたく存じます」
煌牙が言った。蒼炎はそちらに目をやると、歪んだ笑みを浮かべた。
「早くはないか」
「あちらは水の民が出てきました。騎士がいないとは無様なもの。あのような低位の者を使うしかないとは。とは言え、あれも魔族。われらが出て、何の障りがありましょう」
「よかろう。許す」
蒼炎が言い、煌牙は頭を下げた。
三の扉前では、凄絶な戦いが続いていた。ロチェフとエメラダが敵兵をなぎ倒す。部下の半獣兵たちが後に続き、銀魔狼が宙を踊って敵をほふる。
「ぬるすぎるわ、おまえら!」
叫ぶとロチェフは、炎の刃で敵兵を焼いた。
「これが青闇の兵士の実力か。骨がなさすぎる!」
「偉そうに言うんじゃないよ、あたしらが頑張ったおかげだろうっ」
エメラダがわめき、氷の刃で敵兵を切り裂いた。二人が駆け抜けた後には累々と死体が転がっている。
「すごいですね、あの二人。彼らだけでここを守れそうだ」
水の民の一人が言った。グウェンは敵兵の背後を見つめ、眉をしかめた。
「そうでもなさそうだ。弓を構えろ。騎士が来るぞ!」
力の渦がその場に生じた。風が吹き荒れ、魔力が重く体を押さえつける。兵士たちは敵も味方も力の圧力に負け、その場に膝をついた。魔獣たちも。
「力を練れ。相手ができるのはわれらだけだ」
グウェンは気圧されそうになる自分を叱咤しつつ、同族の者に言った。騎士に通用するとは思っていなかったが、これが自分たちに与えられた役割だという事はわかっていた。
「放て!」
彼の声と共に、きらめく矢が走った。
煌牙は二名の騎士を引き連れ、つながれた空間を通って蒼月闇の城、三の扉前に出た。現れた途端に水の矢が向かってくるのを見、口許を歪める。片手を上げると放たれた矢はことごとくその手に集中し、消滅した。
「第二射、つがえ……放て!」
グウェンが叫んだ。号令に従って矢が放たれる。煌牙は眉一つ動かさず、それをも片手で受け止めると言った。
「返すぞ」
彼の手から、黒く染まった矢が飛び出した。何が起きたのか、グウェンには理解できなかった。衝撃が体を走り、彼は倒れた。
重みに顔を上げると、巨大な銀魔狼がのしかかるようにして倒れていた。ささっていた黒い矢が揺れ、水になって消滅する。そこでようやく、反撃されたのだと気づく。彼がかばってくれたのだ。魔狼に手をやると、うっすらと目を開けた。
『盾。ナレタカ』
低く魔狼が言った。
『オレ、ハ。戦エタ、カ』
「ああ。君はわたしを守った」
グウェンが言うと、魔狼はちら、と笑みのようなものを見せた。その目から光が消える。体から力が抜け、魔狼はこと切れた。周囲からはうめき声が聞こえる。起き上がろうとグウェンがもがくと、隣で弓を構えていた水の民の若者の腕にぶつかった。その目は見開かれたまま、虚空を見つめていた。
「アリウス……」
グウェンは、魔狼の体の下から這い出した。
「ルウィリ……カリステル。生きている者は。誰か、いるか」
「いたとしても、終わりだ」
彼の言葉に答える者がいた。ゆっくりと歩いてくる闇魔族の若者を、グウェンは見上げた。味方の兵士たちの惨状が目に映る。闇魔族の騎士はグウェンたちだけではなく、半獣族の兵士や銀魔狼に対しても力を放ったらしい。さっきまで戦っていた者たちが、みな倒れていた。エメラダも。ロチェフでさえ。
煌牙は水の民を指揮していた若者の前に立つと、見下ろした。つまらぬ羽虫を見るかのような表情だった。
「低位魔族の分際で、われらに歯向かおうとは」
グウェンは彼を見上げた。
「銀月の君に恩義ある身、なれば。騎士にも忠義はあるはず。当主に逆らうとはそれこそが忘恩の、」
「忠義や忠節という言葉は、われらが言ってこそ意味がある。下らぬ虫が口にしても、何の意味もない」
煌牙はそう言うと、片手を上げた。その手に漆黒の刃が現れる。
「だがその気概は買おう。わが手で首をはねてやる。喜ぶが良い」
漆黒の剣を振り上げた煌牙だったが、そこで手を止めた。背後から氷の礫が飛んできて、腕を凍りつかせたからだ。彼は首をわずかに動かし、視線を背後に流した。
「あんたかい。半獣兵の戦いに手を出した馬鹿貴族は」
片膝をつき、身を起こしたエメラダが言った。青ざめた顔には脂汗が流れている。大した胆力と言えた。貴族に逆らう事は半獣族にとって、本能に逆らう事に等しいのだ。
「横やりを入れたのはあんただ。あたしを撃ったあの力、この矢と同じ……っ」
「獣風情が、よくもわが身に魔力を撃ち込んだ」
煌牙が言った。音を立てて腕の氷が砕け、彼はエメラダの方に向き直った。
「その罪、万死に値する。影すら残らぬほどに滅してくれよう」
エメラダが身を強張らせた。煌牙の体から力が陽炎のように沸き上がり、それは宙で無数の漆黒の刃となった。刃の切っ先が全て、エメラダの方を向く。
エメラダが死を覚悟した、その時。
きしむ音を立て、三の扉が開いた。
「そこまでにしてもらおう、青闇の騎士」
背後からの声に煌牙は動きを止めた。彼と共に来た騎士たちが顔を強張らせる。
「しきたりにない登場の仕方だな、僭称者」
煌牙は振り向かぬままに言った。そこにいたのは、月牙伯爵だった。ゆっくりと歩いて来ると、彼は足を止めた。
「僭称とは、何をもって」
「当主に相応しからぬ者が当主を名乗る。これを僭称と言わずして何と言う」
嘲りの色を声音にまぶし、煌牙は言った。氷玉は静かに問うた。
「半獣兵の戦いに介入する貴族ならば相応しいと?」
「そのような事実はない。よしんばあったとしても」
煌牙は、口許を笑みの形につり上げた。
「語る者もおらぬのに、誰が耳を貸すのだ、氷玉」
その言葉と共に、宙に浮いていた漆黒の刃がエメラダを襲った。圧倒的な魔力に全身を切り刻まれる事を、彼女は覚悟した。
しかし、刃は届かなかった。寸前で引きずり倒され、かばわれた彼女はまばたいた。
「ロチェフ。何の真似だい」
「今忙しい。後にしてくれ」
彼女の前に立った男が、うなるように言った。彼は自身の魔力を前面に押し出し、炎で壁を作っていた。それで煌牙の力の刃を防いだのだ。しかし防ぎきれなかったらしく、彼の体はあちこちがずたずたになっていた。
「あんたにかばわれるほど落ちぶれちゃいないよ」
よろめきながら立ち上がると、ロチェフは炎の壁を維持しながら言った。
「閣下のご意志だ。おれもおまえなぞ、かばいたくもないわ」
その間も、炎の壁を押して黒い刃がこちらに来ようとしている。ロチェフの額に汗が浮かんだ。競り負ければ、二人そろって串刺しだ。だが、強い。強すぎる。力そのものの闇魔族。その圧倒的な存在感と恐怖。
それらが唐突に途切れる。
「随分な挨拶だな」
煌牙は頬を切った風に目線を動かした。風を刃に変えて甥に放った月牙伯爵は言った。
「そのほうにわが名を呼ぶ権利を与えた覚えはない」
「おまえの名にどれほどの価値がある。人ごときに膝を折ったその時に、全て消失しておるわ」
そう言うと煌牙は、氷玉の方に向き直った。
「おまえはわが一族の名誉を傷つけ、辱めた。そのような者の名が、尊重されるはずがなかろう。そもそも」
煌牙は口の端をつり上げた。
「当主の座にある事が間違いだったのだ。『氷玉』などという名を持つおまえが!」
「蒼炎の受け売りか。同じ事ばかりを良くも繰り返すものだ」
氷玉は冷やかに相手を見ると言った。
「当主に相応しきは『蒼』の名を継ぐあの男であると言いたいのか。それとも『牙』の名を継ぐそのほうだとでも? 煌牙」
「わが名を呼びすてるとは不遜であるぞ、『名無し』めが!」
嘲るように煌牙は言った。
「おまえは父の名を継がなかった。それだけではない。おまえの名には母親の名すらない。氷玉。はは! 氷玉だと? そんな名を持つ貴族がこの千年、どこにいた。おまえは淘汰されるべくして生まれ、誰からも目を向けられる事なく、捨て去られて終わるはずだった。そのおまえが当主だなどと。それがそもそもの間違いだったのよ!」
「言いたい事はそれだけか」
氷玉は静かに言った。
「われは月牙当主の座につき、今もある者ぞ。その意味を解そうともせぬ痴れ者が」
その言葉と共に、氷玉から力が放たれた。
氷玉は特に、目立つ事はしなかった。微動だにせず立ち、目線を煌牙とその後ろにいる騎士たちに向けた。
それだけだった。それだけで、煌牙はその場に膝をついた。
力に圧され、全身を締め上げられて。体があり得ぬ方向に曲がってゆく。仲間の騎士に助けを求めようとしたが、彼らもまた同じ状態にあった。びきびきと音を立てて筋がちぎれ、肉がはじけ、骨の折れる音がした。
「ぐが、……っ」
背後で肉の潰れる音がし、仲間の騎士たちが絶命したのがわかった。煌牙はしかし、あらがった。
「ぬ……、」
「ほう。潰れぬか。さすが牙の名を継ぐ者」
穏やかと言える口調で氷玉が言った。それと同時に圧力がさらに強まった。
「したがこれまで」
悲鳴を上げる事もできなかった。全身の骨をねじ曲げられ、煌牙は絶命した。
三人の体が輪郭を崩し、塵となる。屍を残さない闇魔族の、それが終焉だった。
彼らの終焉をまばたきもせずに見届けた後、月牙伯爵は周囲に目をやった。
「青闇の者ども。生きている者があれば、連れ帰るが良い。わが方の兵士、魔獣も退け。この場にての騎士の戦いは終わった」
貴族同志の戦いに息を詰めるようにしていた半獣兵たちは、慌てたように立ち上がるとその言葉に従った。敵も味方も同様だった。理屈ではない。彼らは高位魔族の言葉には、従うようにできている。
力を使い果たして膝をつき、荒い息をついているロチェフに近づくと、エメラダはその腕を自分の肩に回した。
「一人で歩ける」
うなるように言う男に、皮肉げに返す。
「気にするな。貸しにしておいてやる」
「おれにかばわれていたのは誰だ」
「あれは数に入らないさ。閣下の命に従っただけなんだろう?」
ふんと鼻をならすとエメラダは、ふらつく足を踏みしめて歩き出した。力が抜けてゆく感覚があった。砂時計の砂が落ちてゆくように。あの水の民の若者がくれた力が、失せつつあるのだ。
急がねば、この場でへたり込んでしまう。
「とっととこの場を離れるよ。騎士が出てきたんなら、あたしらの出番はもうない」
「いま少し、お力になりたかった……」
悔しげにロチェフが言う。そこに近づいて来る者がいた。グロフだ。半獣兵の長である男は二人に、「よくやった」と声をかけた。
「おまえたちの働きで、閣下の体面は保たれた。急げ。貴族が来る」
エメラダは周囲を見回した。倒れた者は多く、その中には水の民もいる。自分に力を分けてくれた若者の事が気になって、彼女は尋ねた。
「水の民の坊ちゃんたちは。どれぐらい生き残った」
「生きている者はもう退避させた。あの方々も良くやったよ。騎士を相手に」
グロフはどこかしみじみとした口調で言うと、二人分の体を抱え、引きずるようにして歩きだした。開かれた三の扉に向かって。
「みな、良く戦った」
三の扉の中へ急ぐ兵士たちに、氷玉は声をかけた。
「水の民も半獣族も。銀魔狼も、良く戦った。感謝する」
兵士たちは声もなく、深々と頭を下げた。こんな言葉をもらえるとは思わなかったのだ。魔狼が甘えるような声を出して尾を振る。
「エメラダ。煌牙に力を撃ち込まれながら、よくぞあれだけの働きをした」
伯爵が、グロフに抱えられるようにして歩く二人に目をやって言った。声をかけられ、エメラダはその場に膝をつきそうになった。
「ありがたき……お言葉にて。わが君」
「ロチェフもよくぞ、わが意を汲んだ。今は休むが良い。この先は貴族の戦いゆえ」
「は、」
二人は何とか見苦しくない礼を取ると、三の扉をくぐった。そこには傷ついた者がそこここに運び込まれ、横たわっていた。そこでグロフとロチェフとも別れ、エメラダは部下の姿を探した。だが誰も見つけられなかった。彼女の部下は全滅したらしい。
(良い戦いだったかい?)
胸の内で彼女はつぶやいた。
(おまえたち。向こうでも良い戦いをしろよ……)
歩いている内に、体が重くなった。それに何だか、やたらと寒い。どこかで休みたいと思ったが、まだやる事が残っていた。横たわる兵士たちの間を歩く。見覚えのある姿を見つけ、エメラダはそちらに向かった。進むごとに疲労感が増す。そこには水の民の若者が座り込んでいた。
「無事だったのかい、水の民の坊ちゃん」
エメラダが声をかけると、グウェンは顔を上げた。彼の前には水の民の若者が一人横たわり、目を閉じていた。エメラダは彼の目に涙があるのを見て、少しひるんだ。
「そっちは、駄目なのかい」
「もう感覚がないようだ。それがせめてもの救いだな」
グウェンは答えると、目を横たわる若者に戻した。
「幼い時より共にいた。何をするにも一緒だった。わたしを弟のように思ってくれていた」
「そうかい」
何と言えば良いのかわからず、エメラダは言った。横たわる若者が苦しげに息をし、死期が近い事を彼も彼女も悟った。
「カリステル。おまえの魂に祝福を。その旅路が平和であるように」
グウェンがそうささやくと、若者の体から力が抜けた。その体から何かが飛び去ってゆくのをエメラダは、見た気がした。
「水の民は、屍を残すんだね」
動かなくなった若者を見てエメラダはつぶやいた。
「三百を過ぎれば屍も残らない。だが彼はまだ、二百にもなっていない」
「あんた、幾つなんだい」
「わたしは今年で八十になる。魔族としても若い。カリステルはそんなわたしを、いつも危なっかしいと思っていた……わたしが彼を死なせたようなものだ」
「闇魔族の騎士と戦って死んだんだ。悪い死に方じゃないさ」
エメラダはその場に座り込んだ。体がひどく重く、立っているのがつらかった。寒い、と彼女はまた思った。
砂時計の砂が、落ちる……。
「坊ちゃん。あたしら半獣は、戦う事が全てだ。あたしらにとって死に方には二種類しかない。いい死に方と、悪い死に方だ。
何もできないまま、弱って死んでゆくのは最低だ。力の出せる内に出し切って、出し尽くして戦って、そうして死ぬのがあたしらには理想だよ。あんたの友だちは、うらやましいぐらいの死に方をした」
グウェンが目を上げる。エメラダは言った。
「負けるとわかっていても退かなかった。自分にできる最善をした。信頼できる相手と肩を並べて戦い、最後には、その相手であるあんたに看取ってさえもらえた。これ以上の死に方があるかい? あたしなら満足して、行く所へ行く」
「そうか」
「そうだよ」
「ありがとう。あなたは優しいね」
「馬鹿言わないどくれ。氷のエメラダが優しかったりしたら、世界が引っ繰り返るよ。あんたには借りがあるからね……」
視界が暗くなるのをエメラダは感じた。最後に残っていた力が流れ出る。ああ、と彼女は思った。もう立てないな。
「あんたに、礼を言いたかった。力を貸してくれて、ありがとうよ。閣下にほめてもらえたんだ。いい働きだって……」
口許に笑みが浮かんだ。
「ロチェフより先に。閣下がお言葉をくれ……た」
「エメラダ?」
グウェンが名を呼んだ。その声が遠くに聞こえる。
「部下どもに、会いに……行かなきゃ」
彼女はつぶやいた。もう寒さは感じなかった。気分が良い、と彼女は思った。とても気分が良い。あたしはやり遂げたんだろうか。力は尽くせたか。最高の戦いができたか。
閣下はほめてくれた。
不意にとてつもない疲れを感じ、エメラダは目を閉じた。何だか疲れた。だがもう良い。今は気分がとても良いから……。
それを最後に彼女の意識は途切れた。
* * *
三の扉が閉ざされる。戻ってきたグロフは一人、氷玉の側に立った。
「そのほうも行け」
「それがしの場所はあるじの側にて」
何があってもひかぬという顔で答えると、伯爵は「好きにせよ」と言った。それに頭を下げるとグロフは言った。
「閣下は……少し、変わられましたな」
「そうか?」
「はい。みなへのお言葉、ありがとうございました」
「良く戦っていた」
「どの兵士もおほめの言葉をいただけた事、黄泉路でまでも自慢するでしょう。楽園に向かった者も報われます」
グロフは言った。以前の氷玉なら、あんな事は言わなかった。闇魔族の貴族にとって、配下や僕は遊戯の駒。壊れて役に立たなくなれば捨てられる、それだけの存在だ。廃棄する駒にかける言葉などない。それが闇魔族というもの。以前の彼ならば、ただ打ち捨てるだけであったろうに。
「楽園とは何だ」
氷玉の言葉に、グロフは答えた。
「われらが良く戦い、力尽きて死んだ時に、魂が迎えられるとされる場所です」
「どのような所だ」
「行った事がありませんので、わかりませんな。話によれば、美しい所だとか」
「行った事もないのに、なぜ話がある」
「行きかけた者が夢で見た、その話が伝わっているのです」
「夢か」
氷玉はどこか遠いまなざしになった。
「半獣族ですら夢を見る。であるのにわれらはなぜ、それを持たぬのか。われらはただ、生きる。そうして戦い続ける……滅びに焦がれながら。なんと歪んだ存在である事か」
彼は小さく息をついた。
「ではありませぬか、叔父上」
グロフははっと息を飲んだ。目の前の空間が歪み、そこから人影が、いくたりか現れる。美しい面差しの貴族たち。その背後から、ゆったりと現れた真朱の瞳の美しい男が頬をゆがめ、笑みながら答えた。
「それはわれらがこの世で頂点に立つがゆえ。それこそがわれらの強さ。気弱な言葉を吐くとは、闇魔族としての資質も疑うぞ、氷玉」