6.乱 3
3
「ぐろるるるをををううをるるっ」
ぱっくりと開いたままの腹から、触手の切り株がうねうねと蠢いている。ぬらぬらとした緑の皮膚を持つそれは、不可解な声を上げると跳躍した。ユーラ目がけて。長い舌が伸びて、少女を捕らえようとする。
「しつこいっ」
アルシナは叫ぶと、腕を一閃した。硬化して刃のようになった腕が、舌をすぱりと断ち切る。呪い師であったものはもんどりうって倒れた。体液が大地に振りまかれる。周囲で村人たちの悲鳴が上がった。逃げ出したいのだが、どこへ逃げれば良いのかわからない様子だ。遠巻きにしながら震えている。
「えをるるるををををっ」
それは四つんばいになると、大地を蹴った。今一度、少女に向けて。
「姫君。お顔を伏せて」
イリリアはユーラを胸に抱き込むと、赤い唇をにいと笑いの形に変えた。黒髪が鞭のようにしなり、うねって伸びる。髪は鋭い槍となり、飛びかかろうとしたそれを貫いた。
「げをくくぁはがあっ」
それは赤黒い血を吐き、続いて緑の体液を吐いた。うねる髪で地面にぬいとめると、イリリアはため息をついた。
「見事な成り損ないだこと」
「人の範疇にはもはやないと思うが……姫。これも殺してはならないのか」
アルシナが問う。少女はイリリアの黒髪で封じられている呪い師を見つめた。変わり果てたその姿を。
「どうしてこんな事に……」
彼女の言葉に「成り損なったのです」とイリリアが答えた。
「これは妖獣を飼っていたのです。体の中で。それに自分自身を喰い尽くされた。己に見合わない力を望んだ者の、これが結末ですわ」
「元には戻らないの……?」
「無理ですわ。これにはもう、人としての意識はありません。殺してやるのが慈悲です。これもわかっていたはず。人ごときが妖獣に手出しをすれば、どうなるか」
「をうるるるるるあああ!」
呪い師はわめいた。地面に落ちた彼の触手と舌が、びちびちと蠢く。そこでそれまで黙っていたガイリスがつぶやいた。
「人が融合した成り損ないにしては、変だ」
「何だ、小僧」
アルシナが目をやる。ガイリスは呪い師を見ていた。
「おれたちでさえ、融合は苦痛だ。人にはもっと耐えられない。弱い妖獣ならともかく、こんな強いものとの融合は考えられない」
「強いだと? おまえにはそうだろうが」
馬鹿にしたようにアルシナが言ったが、イリリアは顔を強張らせた。その肌に鱗が生じ、冷気をまとう水晶の蔦がしげり始める。
「ここからお離れ下さい、姫君」
イリリアはユーラをガイリスの方に押しやった。少年は彼女を腕に抱えるようにした。
「その子の言う事は正しいわ。人ごときの融合した妖獣がこれほど長く、わたくしの髪に貫かれて平気でいられるわけが」
彼女の言えたのはそこまでだった。地面に落ちてなおものたうっていた肉片が突如として芽吹き、爆発するかのような勢いで無数の蔦が生じたからだ。粘液に包まれたそれは槍のように伸び、ユーラを目指した。
とっさに少女をかばったイリリアは、蔦に貫かれた。血が飛び散る。
「イリリア!」
みしみしと音を立てて蔦は蠢き、イリリアの血肉を貪った。少女が悲鳴のような声で名を呼ぶと、彼女は微かに笑みを浮かべた。
「ご無事で、何より……そんなお顔、なさら……。坊……しっかりお護り、」
「さっさと行け!」
アルシナが怒鳴り、イリリアを貫く緑の槍を切り裂いた。膨れた蔦が地面に落ち、蓄えた血を振りまいた。イリリアが地面に膝をつく。その間にも他の肉片から蔦は次々と発芽し、伸びて温かい血を求め、人々に襲いかかった。そこここで悲鳴が上がった。恐慌を起こした村人が、慌てふためいて逃げまどう。
「こちらへ! 早く」
ガイリスはユーラを引きずるようにして走り出した。だが闇雲に走り回る村人に遮られ、距離がかせげない。
「この、成り損ないが……っ」
アルシナの筋肉が、みしみしと音を立てて膨れ上がった。鼻が突き出し、顔が獣じみた形になる。髪の色が銀に変わり、全身に銀色の毛が生じる。咆哮を上げると彼女は、腕の一振りで呪い師の体を二つに断ち切った。げらげらと笑いながら体の上半分が落ち、下半分も倒れた。ごろりと転がった上半分は、地面の上でまだ笑い続けている。
「さっさと立て、イリリア!」
地面に片膝をついた黒髪の女性は、血にまみれた頬に凄絶な笑みを浮かべた。
「せかさないで、アルシナ。わたくしも頭にきてるのよ」
体にささる茎が黒く萎れ、崩れ落ちる。凍気が彼女を中心にゆらゆらと立ちのぼった。髪の色が青くなってうねり、体を包むと大地に潜る。次の瞬間、地面のあらゆる所からイリリアの髪が現れて、緑の蔦を貫き始めた。
「われらの本性、とくと見るが良いわ」
イリリアの周辺が凍りつき、緑の蔦は瞬時に凍結して砕けた。地面に倒れていた呪い師の下半分と、笑い続けていた上半分もまた。
「邪魔だ! とっとと逃げろ、人族ども!」
アルシナがわめく。腰を抜かし、泣き叫んでいた村人が慌てて逃げ出した。その間も蔦は飛び散った肉片から次々と発芽する。
「きりがない!」
「どこかに核があるはず」
イリリアが言い、視線を巡らせた。その時、砕けた呪い師の肉片が、びきびきと音を立てて飛び跳ねた。
「イリリア、抑えろ!」
アルシナが炎を放ってそれらを焼いたが、いくつかは逃れた。イリリアの髪が大地から伸びて貫き、凍気で焼く。しかし一つだけ、逃れた破片がユーラの前に飛び出した。
ガイリスの腕が、ユーラを突き飛ばす。
「ガイリス!」
半獣族の少年は彼女をかばい、破片から生じた緑の蔦に貫かれた。
* * *
彼方から、狼のそれに似た咆哮が響く。
「グロフだ。二の扉も捨てろと言っている」
激しい物音が続く二の扉の前で、ロチェフが言った。配下の者に命じる。
「扉を開く準備をしろ。味方を迎え入れる。おまえの部下は良く戦ったぞ、エメラダ」
「当然だ。さもなきゃあたしが殺してる」
立てるようになったエメラダが言った。顔色はまだ良くないが、闘志に衰えはない。
「合図をしろ」
ロチェフの命に従って、半獣族の男が高く吠えた。水の民の若者たちが、弓を構える。二の扉が開かれた。戦っていた味方の半獣族と魔狼たちがなだれ込んでくる。
「急げ! すぐに閉めるぞ」
「早く入れ!」
叫ぶ声に押されるようにして、彼らは退却してきた。その後を追って、敵兵が続こうとする。
そこへ、きらめく矢が飛んだ。水の民の若者たちが大気から水を集め、自身の魔力を練り込んだ矢を放ったのだ。青く輝く矢が次々と飛ぶ。魔力による矢を受けて、敵兵が何人か倒れた。
ひるんだその隙に、味方の兵士が扉の内側に転がり込む。
「閉ざせ!」
扉の両側に張りついてロチェフの命を待っていた部下が、命令に従って扉を閉ざす。重い金属の扉の向こうで敵兵のわめく声が上がり、体当たりをする音が響いた。
エメラダが進み出ると、傷ついてへたり込んでいた兵士の一人が顔を上げた。
「隊長。また会えて、うれしいですよ」
「あたしもだ。少ないな」
「すいません。おれらも頑張ったんですけど……副長は、最後の突撃でやられました」
「そうか」
エメラダはわずかに目を伏せた。
「怪我人は後方に下がれ。二の扉は捨てよとの、わが君のご命令だ」
ロチェフの言葉にエメラダはそちらを睨んだ。
「あたしは戦える」
「わかっている。おまえには出てもらう。だがこいつらにも休息は必要だ。最後には、全員戦ってもらうがな」
ロチェフの口許に歪んだ笑みが浮かんだ。
「水の民の方々も、良い腕でした。次にもお願いいたします。じきに扉も破られる」
ロチェフは顔を前に向けた。部下の抑える扉の継ぎ目が、振動で外れそうになっている。
「魔狼ども。配置につけ」
彼の言葉に銀魔狼たちが動いた。半獣の兵士に交じり、やってくる敵に備えて扉に向かい、前傾の姿勢を取る。
「……戦えぬ者はさがれと言った」
苛立たしげにロチェフが言い、グウェンはそちらを見た。体の大きな銀魔狼が、ひょこひょこと不自然な動きをしながら、仲間の元に戻ろうとしている。良く見ると、その魔狼は前足を一本失っていた。鼻の上に皺を寄せ、銀魔狼は低くうなった。ロチェフは魔狼を睨みつけた。
「そのざまで貴様、走れると思うのか。邪魔だ。どうしても仲間の足を引っ張りたいと言うのなら、おれが今ここで引導を渡してやっても良いぞ」
仲間の魔狼は誰も、彼の方を見ない。三本足の魔狼は一転して、哀れっぽい声を上げた。
『戦ワセ、テ、ホシイ』
聞きづらい声で、魔狼が言った。
『オレ、ハ、走リ、噛ミ裂ク、モノ。アルジノ、タメ、戦ウ。群レニ、戻ラセ、テ、クレ』
「足手まといになった上、上位にある者の言葉に逆らうか。使い物にならんな」
冷やかに言うとロチェフは、近くにいた半獣兵に「始末しろ」と命じた。命じられた兵士が槍を手にして魔狼に近づく。魔狼は黙ってうなだれた。抵抗する気はないようだ。兵士は槍を持ち直すと、無造作に振り上げた。
「ま、待て!」
見ていられず、グウェンは叫んだ。
「味方の魔獣をなぜ殺す!」
「走れない魔狼は戦力にならん。しかもこれは、上の者の指示に逆らった」
ロチェフが淡々とした口調で言った。
「それにしたって……少しでも戦力の欲しい時に、味方を減らすことはないだろう!」
「どのみち、これは使い物にならん」
珍しげにグウェンを見てから、ロチェフは言った。
「こいつらは群れで動く。こいつが一匹でいるのは、戦力にならんと判断され、群れから出されたからだ。こいつにもそれはわかっている。殺してやるのはある意味、慈悲だ」
「そんな事が……!」
「あんたホントに甘いね、水の民の坊ちゃん」
エメラダが言った。
「魔狼は走り、噛み裂くもの。戦うことでしか己を証明できない生き物さ。あたしらと同じでね。戦うのをやめろって言われるのは、無駄に死ねって言われてるのと同じさ。優しい事だね、ロチェフ。あんたにしちゃ」
半獣の男はふんと鼻を鳴らした。
言葉をなくしたグウェンの側に、静かに立つ者がいた。
「われらは違う。水の民は仲間が目の前で殺される事に痛みを覚える。悪いが、われらの士気を削ぐ事はひかえてもらえないか」
そう言ったのは、彼より百年ほど年長の従兄だった。
「カリステル」
穏やかな容貌の彼は、年下の従兄に労わるようなまなざしを向けると、ロチェフに言った。
「その魔狼は、われらの側に置いてもらえるか。盾の一つぐらいにはなるだろう」
「酔狂な事をなさる」
ロチェフは言ったが、「良いでしょう」と言った。
「魔獣。おまえのようなものでも、役に立つ事があるかもしれん。水の民の方々の側に行け」
そう言うと、あっさりと関心をなくし、扉の方に注意を向ける。
ひょこひょこと歩いてきた魔狼に、グウェンはまばたいた。大きい。銀魔狼はグウェンの前まで来ると
、立ち止まってこちらを見上げた。
「このグウェンは、われらのまとめ役だ。彼を守ってもらえるか?」
カリステルが言い、魔狼は彼とグウェンを見比べた。
『オレハ、戦ッテ、死ネルノカ』
「戦って死にたいのか?」
グウェンの言葉に、銀魔狼はぎらりと目を光らせた。
『走リ、噛ミ裂ク。ソレガ、オレタチダ』
「戦いの中にこそ、彼らの生きる道がある。そういう事だよ、グウェン」
カリステルが言い、「頼むと言っておやりよ」と言った。
「君を守り戦う事が、彼の生きる道になる。そうでなければ生きる意味を失う。彼はそういう生き物なんだ。助けたいのなら、君が目的を与えてやらねば」
グウェンは魔狼を見下ろした。
「わたしはあまりにも知らないな……半獣の事も、魔狼の事も。だが、君が来てくれた事をうれしく思う。われらは本来、戦闘は得意ではないのだ。警護を頼む。君の名は?」
『カツテハ、銀耳ノ、三ノ牙ト呼バレテイタ。今ハモウナイ』
「銀耳?」
「群れの頭の名だろう。彼らは小さな群れを作り、狩りをする。名を持つのは頭のみで、後は役目に従って呼ばれると聞いた事がある」
カリステルの言葉に、グウェンはそうなのかと思った。
「この場合、おまえの新たな群れはわたしたちだな。では、わたしの盾と名乗るか?」
魔狼は、真面目な顔をした。
『ワカッタ。オレハ、オマエノ盾ダ』
しかつめらしくうなずくと、魔狼はひょこひょこと動いてグウェンの横に並んだ。半ば冗談のつもりだ
ったのでグウェンはとまどったが、半獣たちは何も言わない。カリステルも自分の位置に戻っていた。
「ええと……良いのか? 盾なんて言ってしまったが」
『オレハ、盾ダ。オマエ守ッテ戦ウ』
「そうか。その……、よろしく頼む」
あくまで真面目に返されたグウェンは、取り消すのも何だという気がしてそう言った。
その間も、扉は攻撃され続けている。
「来るぞ!」
そういう声がし、その場に緊張が走った。激しい音が響き、蝶番が、はじけて落ちた。
「おまえたち、準備は良いか。お楽しみの始まりだ!」
ロチェフの言葉と共に扉が開かれ、敵兵がなだれ込んできた。
体調崩してました。今も喉が痛いです。大根+蜂蜜とか、レンコン+黒砂糖とか、いろいろいろいろ試しました。喉に良さそうなのを。