5.上がる火の手 1
区切ってみました。少しは、読者さまに優しい小説になったでしょうか。
闇魔族の城には通常、彼ら以外にも、多くの者が詰めている。
低位の魔族。半獣族の兵士。魔獣。
そして城で生き、城で死ぬ、子飼いの人族などである。
彼らは城主に仕え、城の警護と管理を行う。専任の仕事を持つ者もおり、そうした者は城主が代替わりしてもそのまま据え置かれた。新たな城主が誕生すると、彼らはその城主に忠誠を誓う。
しかし中には、他の貴族に通じて情報を漏らす者もいる。
図書室の管理を一任されているアロンは、水の民出身だった。低位魔族と呼ばれる種族である。
彼らは水に関する魔力に長け、三、四百年ほどで老いて死ぬ。三百を過ぎて老いた男は、ゆっくりと図書室に入った。先代のころから書物の管理を任されている彼にとって、図書室はわが家同然の場所だった。
中に入った彼は、やはり水の民である、助手のサネンの姿が見当たらないのに気づいた。
「サネン?」
名を呼ぶが、返事はない。彼には軽薄な所があり、野心も多かった。図書室で一生を過ごすのは嫌だと、一度ならず口にした。アロンはそれを案じていた。野心のある者は、貴族の方々の遊戯の駒にされやすい。妙な事に巻き込まれたのでなければ良いが。
「サネン。どこにいる?」
もう一度呼ぶが、若者は現れなかった。室内の灯が、書物をただ照らしていた。
* * *
その知らせを受けた時、青闇男爵蒼炎は狂喜した。
「まことか、蒼華!」
青白く燃える炎の鏡に映った女性は、朱唇をつり上げて笑った。
『まことです。氷玉もこれで終わり。あの『名無し』はついに馬脚を現しました』
「一族への裏切りだ。人ごときに礼を取り、名を呼ぶ権利を与えたとなれば。愚かなるわが甥は、粛清の理由を自ら渡してくれた。こうしてはおられぬ。配下全てに号令をかけ、蒼月闇の城へ向かわねば」
『お待ちを、綺羅月の兄上。あの者はそれでも相当なる力を持っております。勝利は確実にしておかねば』
冷静ともいえる蒼華の言葉に、蒼炎は眉を上げた。
「わたしがあれに劣ると思うてか」
『兄上は尊き血を引く闇魔族。劣るわけがございません。しかしあれは、どのような策を弄するかわかりませぬ。品性を持たぬ者は、戦の崇高さも理解せぬのですから』
「では、どうする」
『あれの力を封じれば良いのです』
蒼華はうっすらと笑った。
『名を呼ぶ権利を与えたほどの娘であれば、質に取る価値はありましょう。娘を捕らえ、その苦しむ様を見せつけてやるのです。そうして娘の命が惜しくば、反撃せずにいよと言えば良い。後はいかようにもなぶれましょう』
「しかし所詮は人族であろう。聞き分けずにあれが反撃すればどうするのだ」
『その時には娘の首を落とし、誓い一つ守れぬ魔族として弾劾してやればよろしい。ひざまずいたという事は、娘を守る誓いを立てたに等しいのですから。それにたとえ反撃を受けたとしても、兄上にはあれを上回る魔力がありましょう。ではありませぬか?』
「うむ。あれごときに遅れは取らぬ。それでそなたはどうする?」
『娘を捕らえに参ります。配下の者では心もとなく思いますので。あれをなぶれぬのは、いかにも口惜しい。ですがその役目は、正当なる月牙当主にお任せいたします』
「正当なる月牙当主か」
まんざらではなさそうに蒼炎は言った。
「そちらの手配はそなたに任せよう。わたしはあの甥の首を取りに行く」
氷刃男爵蒼華は兄との会話を終えると、手を振って魔力の鏡を消した。振り向くと、そこには若い男が立っていた。青白い肌に緑の髪と目。水の民である。彼は彼女の前にひざまずいた。
「良く知らせた」
蒼華は艶冶な笑みを浮かべ、彼に言った。若者の頬が染まる。
「お役に立てましたでしょうか」
「そなたからの知らせで勝機が見えた。今一度確認するが、まことに氷玉はそう言ったのか」
「は、はい。わたくしが勤めます図書室に、伯爵閣下の信任厚い水の民の者がおります。アロンと言いますが。その者に話されているのを漏れ聞きました。
閣下は人族の娘に与える本をお探しで。何冊かお選びになった後、薬草に関する書籍を現代語に訳し、新たな本を作れとお命じになられました。その際に、『名を捧げた』と」
若者はサネンだった。彼はかなり以前から、蒼華と通じて情報を流していた。
「アロンが驚いて尋ね返しましたから、確かです。本は、下働きの人族が、馬車を使ってその娘の所に運びました。閣下が名を捧げた相手は、人族の娘です」
「良くやった」
蒼華はサネンの側に歩み寄った。
「褒美をやらねばな」
そう言うと身を屈め、若者の顎に手をかけた。仰向かせ、その唇に自身のそれを重ねる。唇を離すと彼女は、夢見心地の若者に微笑みかけた。そのまま彼の首を折る。
若者は、悲鳴を上げる間もなく絶命した。ぐたりとなった彼の体を床に落とすと、蒼華はふふ、と笑った。
「最後に良い夢が見れたであろう? この氷魅の口づけを得たのだから。褒美はやった。われらは約束は違えぬ。良くやってくれた。それは言っておくよ」
美しく冷酷な女性はそうして、その場を去った。後には野心を持ったがゆえに貴族の思惑に巻き込まれ、命を失った若者が残された。
1
紫忌の帰りが遅い事をユーラが心配しだしたのは、太陽が西に傾き、空が赤く染まり出した頃だった。夕食の支度が終わっても、紫忌は戻って来なかった。
「今日中には帰ると言っていたのに。何かあったのかしら……」
ゆでた芋をつつきながら、ユーラは言った。ガイリスがなだめるように言う。
「友だちと話がはずんで泊まる事にしたんですよ。明日には帰ってきますって」
「それなら良いのだけれど」
「ロ、ロークさんは、腕の良い剣士ですよ。何もありはしませんよ」
「そうね……ねえ、ガイリス。どうしていつもロークの名前を言う時につっかえるの?」
少女に言われ、ガイリスは詰まった。
「い、言いにくくて。人族の名前って、言いづらいのが多いんですよ、その、おれには」
「半獣族の名前って、どんな風なの」
「あー、えー、子どもの頃は特にないんですよ。何番目に生まれたとか、髪や目の色で呼ばれます。成人すると名前がついて」
「では、あなたはもう成人しているのね」
「え、はい。でも役立たずでしたから」
汗をかきつつ説明していたガイリスだったが、そこでふと言葉を止め、緊張した顔になった。立ち上がり、戸口の方を見やる。
「どうしたの?」
「ご主人さま。外套を着て下さい。いつでも逃げられるように」
「気づくのが遅いよ、小僧」
その声と共に、扉が開いた。褐色の肌に赤い髪の、大柄な女戦士が入って来る。ガイリスは少女をかばう位置に立った。女はしかし彼を無視すると、少女の前に膝をついた。
「失礼いたします、姫。わたくしは白男爵の配下、アルシナ。半獣の民にございます。閣下の命を受け、陰ながらお見守りして参りましたが、危急の時ゆえ姿を現しました。お許しを」
少女は女戦士を驚いたように見ていたが、この言葉にまばたいた。
「男爵がなぜわたしを……いえ、それは良いわ。アルシナと言ったわね。立ってもらえるかしら」
言われてアルシナは、立ち上がった。背の高い、たくましい女をユーラは見上げた。
「危急の時とは何? 何が起きているの」
「不遜にも姫君に害を与えんとする輩が、ここを目指しております。姫君には、しばらくここを動かれませんように」
アルシナの言葉にユーラは息を飲んだ。そこでガイリスが緊張した口ぶりで言った。
「人がたくさんこっちに来る。それに、この気配。仲間? いや違う……」
アルシナは軽蔑のまなざしでガイリスを見やると、ぞんざいな口調で言った。
「人族の呪い師だ。妖獣を使っているつもりだが、実際は乗っ取られ、操られている。あんなものと我々の気配を混同するな」
ガイリスはしゅんとなった。ユーラは二人を見比べた。
「たくさんの人って、この辺りの村人?」
「おそらく。ひどく興奮しています」
アルシナが答える。
「ラスティたちを隠した方が良いかしら」
ユーラはロバの名を口にした。山羊も鶏も、外にある小屋の中だ。多くの村人が興奮してやって来るのだとしたら、動物に危害が加えられるかもしれない。
「家畜が心配ですか?」
アルシナの言葉にユーラはうなずいた。アルシナは顔を上げると「イリリア!」と呼びかけた。
『聞こえているわよ、アルシナ。声だけで失礼いたします、姫君。わたくしはイリリア。そこの粗忽者と共に、御身をお守りしに参りました。ご安心を。姫君の動物たちのいる辺りには、今、結界を張りました』
不意に女性の声が響き、ユーラは驚いて周囲を見回した。声は甘くかすれて艶があり、持ち主はさぞ美しい女性だろうと思わせた。
「どこにいるの?」
『わたくしは、外に。声をそちらに飛ばしております。申し訳ありませんが、姿はお見せできません。本性に戻っておりますので』
「本性?」
『わたくしたち半獣の民は、魔獣や妖獣に近い資質を持ちます。普段は抑えておりますが、戦闘の際にはその性が露になります。
ですが、それを戦闘でもない日常の場で人目に晒す事は、はしたないとされております』
「あのう……人族の感覚からしたら、服を脱いで裸になってるみたいな感じです」
ガイリスがそっと言い、ユーラは慌てた。
「あ、あの、ごめんなさい」
『よろしいのですよ。姫君にはご存知ない事でしたから。それより、その場所から動かれませんように。姫君のお住まいにも結界を張っております』
その時ユーラの耳にも、何かがかすかに聞こえた。人々の声のようだ。声を合わせて何か歌っている。
「不遜もはなはだしいッ」
アルシナが歯噛みした。彼女にははっきりと聞こえているらしい。その唇から尖った牙がのぞき、彼女の髪がざわざわと逆立つのをユーラは驚いて見つめた。
『牙が見えているわよ、アルシナ。姫君が驚いておられるじゃない』
アルシナは牙を収めた。髪が元に戻る。
「失礼を。つい、我を忘れました」
「彼らは何を言っているの」
ユーラの言葉にアルシナは困った顔になり、口をつぐんだ。少女は重ねて問うた。
「わたしに関した事でしょう。教えて。村人たちと言ったわね。エニ村の人もいるの」
そう言うと、ため息が聞こえた。イリリアのものらしい。
『アルシナ。送るから受けてちょうだい』
そういう声がし、唐突に多くの人々の姿が少女の目の前に現れた。
彼らは声をそろえて歌っていた。土をふみしめて歩く足音。ぱちぱちと、松明が炎を上げる音がする。
荷車が押され、積まれた薪や藁が見える。
ごく当たり前の服装の、ごく当たり前の農民たちが、炎に照らされ、目をぎらぎらとさせつつ足並みをそろえて歩き、声をそろえて歌っていた。ほとんどが男だが、女や子どももいる。
その内の何人かには、見覚えがあった。ユーラが怪我や病を癒し、時には笑って冗談を言い合い、親しくつきあった事もある人々だ。しかし彼らは今、多くの人々と共に憑かれたような顔で歌っていた。
歌は、この辺りの者なら誰でも知っている民謡だった。少なくとも旋律は。しかし歌詞は違っていた。『魔女をつかまえろ』『ひきずりだせ』『火あぶりにしろ』『燃やせ』という言葉を彼らはくり返している。
「魔女をつかまえろ!」
しわがれた男の声がした。先頭に立つ老人が叫んだのだ。破れた衣をまとう彼は、蛙のような異相をしていた。異様に大きく迫り出した目に、とがった口。その目はいずれも、ぎょろぎょろと動いて別の方を向いている。枯れ木のようにやせ細った腕を振ると、全員が「オオ!」と声をそろえ、拳を突き上げた。
「穢れを焼き尽くせ!」
「あの女は闇魔族に関わった、世の穢れ! 正義は下されなければならん!」
「災いは全て、あの女のせいだ!」
「火あぶりにしろ!」
「火あぶりだ!」
人々の声は興奮で割れ、正しい事を行うのだと信じきった愉悦に満ちていた。
そうして唐突に、その光景は消える。暖炉で薪の爆ぜる音がした。
「今のは」
少女が呆然としてつぶやくと、『姿と声をそちらに届けました』というイリリアの声がした。彼女の魔術だったらしい。
「魔女って……わたしのこと?」
「不埒者らの造言です」
吐き捨てるようにアルシナが言い、気づかわしげにユーラを見た。
「火の側へ。震えておいでだ」
「ご主人さま、こちらへ」
ガイリスが少女をうながし、暖炉の側へ連れて行く。ユーラは自分の体が冷たくなっているのに気づいた。少年は彼女を椅子に座らせると、ショールで体を包んだ。自分は衝撃を受けているらしい。そう彼女は思った。
「わたし……、あの人たちに何かした?」
「ご主人さまがなさった事は、いつも善きわざばかりでした」
つぶやくように言った少女に、ガイリスが答える。外から人々の声が聞こえた。さっきより近い。村の中に入ったのだ。
「ジムがいたわ。マイラやケリも。三巡月前に来たばかりだったのに。ケイもいた。破傷風を治してあげた事があるわ。アディは、子どもの熱が出た時に薬草を渡して……」
先ほど見た光景を思い起こし、ユーラはつぶやいた。無意識のしぐさでショールをかきよせる。手が震えていた。
「わたし火あぶりにされるほど、あの人たちに悪い事をしたの……?」
ガイリスは少女の前にひざまずいた。
「ご主人さまは彼らの為に力を尽くしておいででした。傷を手当てし、病を癒した。感謝されこそすれ、侮辱を受けるいわれはどこにもありません」
外で怒鳴り声が上がった。何か怒りに満ちた言葉が叫ばれている。人々が走り回る気配がし、うろたえたような叫びが上がる。
「何の騒ぎ?」
少女がつぶやくと、『ここを探しているようです』とイリリアの声がした。
『見つからないのでいらだっています。確かに家があったはずだと言っている』
「イリリアの術は確かです。ここにいる限り、あの愚か者どもに姫を見つける事はできません。では、そろそろ行って参ります」
アルシナが言い、少女はそちらを見た。
「何をするの」
「あの不遜な輩を蹴散らして参ります」
「蹴散らす? 傷つけるの? 駄目よ」
驚いてそう言った少女に、アルシナは眉をひそめた。
「御身に逆らう者どもですぞ。受けた恩すら仇にする、見下げ果てた輩」
「それでも駄目よ。人族は弱いの。傷つけばすぐに死んでしまう。殺さないで」
「見せしめを一人二人見せねば、つけあがって同じ事をくり返します」
「あれは、村の人たちなのよ。親しく話した事もあるわ。今は確かに、わたしを殺そうとしているけれど……、困っていた時に古着やチーズを持って来てくれたのも、同じあの人たちなのよ。傷つけては駄目。殺さないで」
外で歓声が上がった。笑い声も聞こえる。
「人族め」
アルシナが怒ったように言う。
「何があったの?」
『手当たり次第に家を打ち壊し、火を放っています。ここが見つからない腹いせでしょう。村を完全に廃墟にするつもりでしょうか』
イリリアの声が静かに言った。
『花を踏みにじり、姫君の畑を荒しています。倉庫から、食料を運び出している者も……』
また歓声が上がる。がらがらと何かが崩れる音がした。どこかで家が崩れたのだろうか。村人たちは本気で自分を殺そうとしているのだと、少女は改めて思った。彼女が守り、平和であれと願い、愛してきた村の人々が。
「あなたは良くして下さっているわ、イリリア。食料は欲しい人にあげましょう。燃えてしまうよりは良いもの」
体の芯が冷えている感じはなくならない。自分が傷ついているのがわかったが、少女は震えを必死でこらえた。無様は見せられない。見せたくない。
「起きている事を教えて。薬草畑は無事?」
『まだ無事ですが、わたくしの能力ではそこまで覆えません。動物の小屋を離れれば』
「いいえ、動物たちの方を守って。あの子たちは大丈夫? 怯えているのではない?」
『今の所は大丈夫です。不安は感じているようですが、おとなしくしています』
「では、そのまま守って。薬草は惜しいけれど……あきらめましょう」
「わたしがおります。姫のお心を傷つけるような輩、八つ裂きにしても飽き足らぬ」
そこでアルシナがもう一度言った。ユーラは強い口調で言った。
「駄目よ」
アルシナはいらだった顔になった。
「略奪されるに任せるという事ですか。一言お命じ下されば、わたしはいかようにも動ける。あれらを何百人と殺すに足る力を持っている。なぜお命じ下さらない!」
「命は失われれば、取り戻せないからよ。わたしにも、誰にもできない。あの人たちは、自分が何をしているのかわかっていないの。お願い、アルシナ。殺さないで」
アルシナは困惑した顔つきになった。
「わたしにはわかりません」
『わたくしにもわからないわ。でも命令は下ったのよ、アルシナ。姫君が殺すなと仰せなら、わたくしたち、従わねばならないわ』
イリリアの声が言った。アルシナがいらだったように言う。
「しかしそれでは、ここに籠もっているだけか。人族ごときに良いようにされるなど!」
「わたしも人族よ」
ユーラの言葉にアルシナは、少女の方を向いた。少女はうなだれていた。
「ごめんなさい」
「姫君は違います。あのような輩とはまるで違う」
「同じよ。どこも変わらないわ」
外で大きく歓声が上がった。『柱を立てろ』『火あぶりに』という声が聞こえた。
「何があったの、イリリア?」
『女を一人、焼き殺すようです』
ユーラは顔色を変えた。
「どういう事?」
『ご覧になりますか』
「お願い」
ユーラがそう言った途端、目の前の風景が変わった。人々が歌いながら杭を立てる。柴や薪が積まれ、そこへやつれた女が引きずられてゆく。
見覚えがある、と少女は思った。アディ。夫をなくして子どもと暮らす、エニ村の女性だ。子どもは側にいない。まだ小さいので置いてきたのだろう。
「この女は、裏切り者だ!」
蛙のような風体の老人が叫んだ。
「闇魔族と通じた女の治療を受け、穢れたのだ! 穢れは焼かれねばならん!」
「そうだ! 焼いてしまえ」
「火あぶりだ!」
狂気めいて人々が叫ぶ。老人は言った。
「この女は魔女を逃がした。その罪をつぐなわせるのだ! くくりつけろ!」
女は悲鳴を上げて逃げようとするが、誰もそれを許さなかった。男たちは髪を振り乱して足を踏ん張ろうとする女を殴ると、腕をつかみ、乱暴に引きずり始めた。
その光景はまた、不意に消えた。
イリリアの声がした。
『あの男、呪い師です。群衆を煽動しているのはあの男……権威を保とうとしているのでしょう。姫が見つからなかったので、代わりの者を殺す。良くある策略です』
「わたしの代わりに、アディが?」
少女は立ち上がった。青ざめていたが、その目には強い光があった。
「させたりしないわ、そんな事は……」
「ご主人さま、いけません!」
扉に向かって歩きだしたユーラに気づき、ガイリスが慌てて言った。アルシナはわけがわからないという顔をした。
「姫君。一体どう、」
「結界を解いて、イリリア。外に出ます」
ユーラの言葉にアルシナは絶句し、イリリアが息を飲む気配がした。ガイリスは扉に向かって走ると、腕を広げてその前に立った。
「いけません。ご自分でも言われたではありませんか。あいつらは、何をしているのか自分でもわかっていない。危険すぎます!」
「このままでは、身代わりにされた人が死ぬわ」
「自業自得です。ここへ来た時点であの女は、ご主人さまを殺す事に同意していたんですから。放っておけばいいんだ」
「そこをどきなさい、ガイリス!」
そう命じたユーラに少年は、はっと身をすくませた。少年だけではない。アルシナもびくりと身を震わせた。おそらくは、イリリアも。厳しい顔をして立つ少女には威厳があった。その細い体の奥から、何かの力が光のようにあふれ出ている。それは闇魔族の圧倒的な存在感とはまるで違っていたが、それでも彼らはひざまずき、その言葉に従いたいという衝動にかられた。
しかし少年は、その言葉に歯向かった。何年も共に暮らしていた彼には、少女の気質がわかっていた。誰かが自分の身代わりに死のうとしているのなら、危険を承知でこの少女は身を晒す。あの暴徒の前に。そんな真似をさせるわけにはいかない。
「いやです……、動きません……」
「ガイリス」
「嫌です!」
彼は青ざめ、震えながらも首を振った。
「追放されてもかまいません。おれをどこへでもやって下さい。でもここは譲れません。
あなたは、自分がどれだけ傷ついてもかまわないと思っておられる。でもおれは嫌です。
あの女には、あなたにかばってもらえるだけの価値なんてない。あそこにいるやつらの誰一人、あなたにかばわれる価値のある奴なんていない! あんなやつらに、好きにさせたりなんかさせるものか。あなたを見せるのだって嫌だ。ここは動きません!」
真っ青になりつつそう言った少年を、ユーラは不思議なものを見る目で見た。
「わたしにも、あなたがたにかばわれる価値はないわ。外にいる人たちとわたしは、どこも何も変わらないのよ」
静かにそう言うと、「ついていらっしゃい」と言った。
「ご主人さま……」
「無茶はしないわ。側にいて。アルシナ。イリリアも。あなたたちはわたしを助ける為に来ているのね?」
「はい」
『ええ、姫君』
二人の言葉を聞いて、ユーラは言った。
「では、二人に頼みます。この家の結界を解いて、わたしと一緒に来て」
「仰せの通りに」
『お供を仰せつかり、光栄にございます』
外から驚きの声が上がった。群衆に、この家が見えるようになったようだ。
「さっきも言ったように、人は傷つけないで。二人には不本意な事を頼む事になるわ。彼らの前で、半獣の民としてのあなたがたの姿を現して欲しいの。あの人たちを脅かして。そうすれば彼らも頭が冷えるわ。あなたがたには……申し訳ないけれど」
先ほどの会話から、半獣族としての本性を見せる事は、彼女たちにとっては恥ずかしい事なのだとユーラは理解していた。それでもあえてそう頼んだ。それが一番、この状況を乗り切るのに良い方法に思えたから。
アルシナが酢を飲んだような顔になる。イリリアの笑い声が響いた。
『存分に脅してやりますわ。きっと人族の間で、何代にも渡って語り継がれる事になりますわね。ほほほ!』
アルシナは、さらに嫌そうな顔になった。
「人を傷つけてはならないのですね?」
「ええ」
「わかりました。開けろ、小僧」
八つ当たり気味の口調で彼女は、ガイリスを睨むと言った。少年は扉に手をかけ、ユーラの方を見た。少女はうなずいて見せた。
蝶番がきしんだ音を立てる。夜の闇と炎、そして狂気に満ちた群衆に向かい、扉が開かれた。