幸福論
『件名:【たのほわ便り】大切なお知らせ
社員のみなさん、おはようございます!
「楽しい職場でホワイト企業に!」委員会、略して「たのほわ」の桃島です。
今日も元気にお仕事を開始されていますか?
今日はみなさんに、大切なお知らせがあります。
「たのほわ」では、これまでも、社員のみなさんが楽しくやりがいをもってお仕事ができるよう、職場環境の整備に努めてきました。
その一環として、このたび、大手総合電機メーカーZ社さんと共同開発中のAI(人工知能)を駆使した「MoNシステム」の導入を決定しました!
このシステムは、社員のみなさんが効率よく、楽しくお仕事をしていただくためのサポートシステムです。
本日から順次、みなさんのお手元に端末アプリを配布します。詳細は、付属の説明書を読んでくださいね。
それでは、短い時間でハイパフォーマンスな仕事を! 今日も楽しくお仕事しましょう!
お気づきの点がございましたら「たのほわ」の桃島まで、なんなりとご連絡くださいね。
内線:461 桃島』
朝出社して最初の日課であるメールチェックをしていた白田一郎の目に飛び込んできたのは、そんな文面だった。
――MoNシステム? なんじゃそら?
そういえば、机の上に見慣れない十センチ四方くらいの箱が置かれている。箱の上にはバクのイラストが描かれたピンクの付せんメモに、『白田さんへ MoNシステムです。ご活用ください。桃島』と、桃島さんの美しい手書き文字が走っている。
――また「たのほわ」が面白いことをやりだしたのか?
「たのほわ」は、各部から選ばれたメンバーからなる、普通の企業でいうところの安全衛生委員会のような組織である。といっても、白田の会社はウェブアプリ開発を生業にしている。工場がある訳でもない。もっぱら社員の労働時間管理やメンタルヘルスなんかの職場環境改善が主目的で、総じてブラックになりやすいこの業界で、ホワイト企業をめざして日々趣向を凝らしている。
これまでにも、労働時間を深夜から朝方に移行するために福利厚生として選べる朝食セットを提供したり、長時間労働を減らすために残業する社員には「私は残業中です」と背中に書かれたゼッケンを強制的に着用させたりするなど、各種さまざまなアイデアを取り入れて一定の成果を上げてきた。
今度はいったい何をたくらんでいることやら?
箱を開けてみると、中には腕時計状のものが入っていた。文字盤の部分は真っ黒。どうやら腕時計タイプのウェアラブル端末のようだ。
小さく折りたたまれた説明書を広げてみると、「この端末は左手に装着して使用するものです。個人の脈拍、体温、体動などを検知して、ストレス度をチェック。心身の状態に応じて、業務効率を高めるための最適なアドバイスを行います。まずは端末のサイドにある起動ボタンをプッシュして、端末の指示に従って初期設定をしてください」と小さな新ゴシック体で記載されている。
横に出っ張っているボタンを押すと、すでに充電は完了しているらしくディスプレイが点灯した。
ぴこーんと電子音とともに、「MoN」というロゴマークが瞬き、いったん画面が暗転すると今度は「初期設定をお願いします」と人工音声が流れた。
なるほど、まずは名前と社員番号を入力、っと。
音声認識もできるようだが、さすがに他の社員が周りにいる中で端末に話しかける姿はシュールすぎる。ディスプレイ上で手書き文字認識もできるようなので、名前と番号を入力した。
「あなたのアドバイスサポーターを選んで、お好きな名前を入力してください」
続けて電子音声が要求する。どうやら「サポーター」のアバターを選べるようだ。ディスプレイ画面をフリックしていくと、性別、年齢、髪型、ファッション、いろんなタイプのキャラクターが表れる。そこでふと手が止まったのが、ツインテールの女の子。
今年の総選挙もセンターになれなかったんだよなぁ、みゆゆ。悔し涙をこらえながらそれでも笑顔でみんなに手を振っていた姿がかわゆかったなぁ。僕はずっと君を応援しているよ。
画面をダブルタップして、サポーターの名前に「みゆ」と入力すると、ディスプレイ上で「みゆ」がにっこり微笑んだ。
「これで初期設定は終了です。白田さん、これからよろしくね」
人工音声は落ち着いた女性の声から若い女の子の高音ボイスに代わり、口調もなんだかフレンドリーになった。アバターによって音声まで変わるのか、なかなか凝ったつくりだな。
初期設定が終わったせいか、ディスプレイは暗転し、デジタル時計が表示された。九時二十三分を示している。これがデフォルト画面のようだ。これまで左手首につけていた、学生時代に購入した安物のデジタル時計をはずして、ウェアラブル端末を装着した。
と思ったとたん、ぴらぴらりん、と電子音が響いた。
「9時半からはA社のカタログアプリの企画チェックで~す」
みゆちゃんの声が続いた。なんと、この端末は社内のスケジューラーと連動しているのか。なんて便利な。これは仕事に役立ちそうだ。
「黒谷さんは、自席にいらっしゃいますよ~」
みゆちゃんのロリ声が、地獄の言葉を吐いた。そうだ、黒谷さんに企画のチェックを受けないといけない。これまでうきうきしていた気持ちが、一気に急降下した。
黒谷さんは半年前に他部署からの異動で上司になった人だ。
黒谷さんは仕事ができる。ほかの社員の十倍くらい仕事をしている。そしてほかの人の百倍くらい厳しい。なんでそんな人が上司になってしまったんだろう。でも黒谷さんのチェックを受けないと、制作部門に案件の依頼ができない。
この間、アート・ディレクターの黄澤さんに言われた言葉がよみがえる。
「白田くん、お客の要望だからって、そのままこっちに持ってこられちゃ困るんだよね。お客ったってプロじゃないんだからさぁ。実現不可能な要望を何でもかんでも受けてこられたら、君がディレクターとして存在する意味がないじゃん。君ももうこの会社に入って長いんだから、それくらいわかってるよね? これってちゃんと黒谷さんのチェック受けてるの? 受けてないでしょ? 受けてたら、こんな企画になるはずないもんね? もっかいそっちで揉んでから持ってきてよ。ボクも忙しいんだから」
しょんぼりしながら企画書を手にふらりと席を立つ。黒谷さんの席はフロアの反対側の窓際にある。同じ企画七部だが、急な異動で席がそこしか空いていなかった。近くにいないだけまだましだが、黒谷さんの席までの道のりは、修羅道のように果てしなく長い。
「白田さ~ん」
ふんわりとよい香りとともに、みゆちゃんの声にも負けない甘い声音に呼びかけられた。この声の主は、もしや桃島さん。
白いうっすら透けたブラウスとひざ丈の上品なスカートを身にまとい、ほのかな甘い香りを漂わせながらさっそうとオフィスを横切る姿は、男性社員の垂涎の的。そのうえ「たのほわ」委員会のメンバーで、いつも社員のみんなにやさしい言葉をかけてくれる会社のマドンナ。
「あっ、さっそくMoN端末を使ってくださってるんですね~。ありがとうございま~す。また使い心地を教えてくださいね~」
左手首のウェアラブル端末に目を止めて、桃島さんの声がワントーン上がった。もちろん使っちゃってますよ~。みゆちゃんとも楽しく仕事ができそうですよ~。
「もしかして今から黒谷さんのところに行くんですか~?」
天国に登りかけた意識が現実に引き戻される。そうでした、黒谷さんのところに地獄の企画チェック。
「……あの、もしできたらでいいんですけど、黒谷さんのところに行くんでしたら、お願いがあるんですけど……」
物腰は柔らかいがハキハキものを言ういつもの桃島さんとは思えない言いよどんだ口調。なになに? 桃島さんの頼みなら何でも聞いちゃうよ。
「黒谷さんにこれを渡してほしいんです……」
桃島さんの手にあるのは、まさしく今日机の上に置いてあったものと同じMoNシステムの四角い箱。申し訳なさそうに、おずおずと差し出す桃島さんのしぐさ。桃島さんでも黒谷さんが苦手なんだね。わかるよ、その気持ち。これを渡すくらいならお安い御用だ。
そういえば、黒谷さんが企画七部に来る前の部署って、桃島さんと同じエンドレスノート事業部だったような。もしかしたら、異動前に黒谷さんと何かあったのかもしれない……。エンドレスノートとは、五千万ダウンロードを突破したわが社の人気アプリ。もともと単なるメモ帳アプリだったのを、利用者にビジネスマンが多かったことから、オンとオフを区別しながら一括管理できるスケジュール機能や、携帯カメラで撮影するだけで名刺の整理ができる機能など、ビジネスに使える機能を追加したことで、人気がうなぎ上りに急上昇した。いまや、わが社になくてはならない看板商品だ。そのあとも新聞社と提携してニュースのクリッピング機能やら、メモの使用内容に応じて関心のあるトピックスを自動配信するサービスなども好評だ。高級文具メーカーとコラボした、トレードマークのバクのイラストをあしらったビジネスマン向け文房具も人気を博している。そういえば桃島さんもエンドレスノートのオリジナル付せんをいつも使っているよなぁ。
ただしエンドレスノートは基本、無料アプリ。オリジナルアプリの開発には、膨大な投資が必要になる。わが社には、エンドレスノートをはじめとするオリジナルアプリの企画開発部隊と、そのほか企業顧客から依頼されたアプリを開発して安定した収益を確保する部門があり、後者は企画一部から七部までが存在していた。
桃島さんからMoN端末の箱を受け取って、いざ黒谷さんのもとへ向かう。すみませ~ん。黒谷さ~ん。
「ああ!? 何の用だ?」
黒谷さんはパソコンのディスプレイから目を離さずに、威圧感のある低音ボイスで返答する。なんだかご機嫌斜めそう……。あの~、桃島さんから預かり物があるんですが……。
「はぁ!? 預かり物だと?」
はい、今日社内メールにもあった新システムの端末なんですが……。
「はっ、くだらねえ。なんでお前が桃島の代わりにそんなもん持ってきてるんだ。お前は桃島の下僕か!? 自立しやがれ! そんな暇があるなら、ちゃっちゃと仕事をしろ、仕事を!!」
はいっ!! すんません!! 仕事します!!
端末の箱を書類が積み重ねられた黒谷さんの机の脇に置いて、一目散に鬼が島から逃げ出した。
今日は一段と機嫌が悪い。こんな目に遭うなんて今日は厄日に違いない。
バクバク激しく鼓動する心臓をなだめながら、どよーんとした気分でとぼとぼと自席に戻ろうとすると、ぴろぴろりーんと場違いな電子音が鳴った。
左手の端末ディスプレイには、みゆちゃんの愛らしいツインテールが揺れている。
「ドンマイ、白田さん。コーヒーでも飲んでちょっと休憩しましょ?」
みゆゆ、みゆたん。僕の天使。
自席に戻る前に給湯室に寄って、コーヒーを入れる。かぐわしい香りを嗅いでいると、落ち込んでいた気持ちが少し浮上してきた。
一口、コーヒーカップに口をつけようとした瞬間に、ぴらぴらりん。
「黒谷さんは、午後二時ごろはスケジュールに比較的余裕があるから、企画チェックはそのころがいいかも? それなら午後四時の制作部への入稿打ち合わせにも間に合うよ~」
うっかりさっぱり忘れていた企画チェック。そのために黒谷さんのところに行こうと思っていたのに。
それにしても、みゆたんは気が利くなあ。
◆
「今日の予定は、十時から営業会議が一時間。そのあとB社さんの商品情報アプリの検証とC社さんとの打ち合わせアポの調整がありま~す」
それからというもの、毎朝出社したときに、みゆたんのスケジュール確認という日課が追加された。
「でも来週いっぱいまで黄澤さんの予定が詰まっているから、納期から考えたら、まずB社さんのアプリの修正スケジュールのスタッフ調整が優先順位が高いかも。お客様にすぐに確認してね~」
みゆたんのアドバイスはとにかく的確。優秀な秘書がついたような感じだ。これまではスケジュール確認を怠っては、アート・ディレクターの黄澤さんに「あのさぁ、急に修正してくれって頼まれても、ボクもう今週の予定埋まってるの。みんながみんな、キミみたいに暇なわけじゃないの。普通に仕事してる人間はそんなもんなの。お客に言われたからって、修正して明日提出って、冗談きついんだけど。その自己中な考え方ホントやめてくれる!?」と嫌味混じりにため息を吐かれたものだが、みゆたんが来てくれてからはその回数が激減した。なんてったって社内スケジューラーと連動したみゆたんは、全社員の予定を熟知している。
「あら、白田さん。最近調子はいかがですか?」
通りかかった桃島さんが、フリフリの袖をひらひらさせながら声をかけてくれた。ばっちぐ~ですよ~。仕事をしていてこんなに怒られないですんでるなんて、何年振りだろう。
「今度たのほわで社員満足度調査を実施するんです~。MoNシステムはどうですか? またアンケートにご協力くださいね~」
もちろん協力しちゃうよ~。たのほわのおかげで、仕事をするのが楽しくなってきたよ~ こんなの、入社一週目のとき以来かもしれない。
「あっそうだ。MoNシステムに新機能が追加されたんですよ。社内の制作実績システムと他社アプリのデータベースと連動できるようになったんです~。きっともっとお仕事が効率化できるようになると思いますので、ぜひぜひご活用くださいね」
桃島さんは働き者だねぇ~。今でもみゆたんは大活躍なのに、もっと便利にしてくれちゃうんだぁ。楽しみにしてるよ~。
今日は桃島さんとお話もできたし、ホントにいい日だなぁとムフムフしていると、ぱらりらりんとみゆたんアラームが鳴った。
「D社さんの顧客会員向けアプリのプレゼンは来週の木曜日だよ。ヤバいよ、シロくん。今週末には黒谷さんの初回チェックを受けないと間に合わないよ。プレゼン資料の作成は進んでる!?」
……ヤバいね、すっかりさっぱりやってないよ……。だって、けっこうD社さんの要望がややこしいんだもん。どうしよう~みゆたん!!
すると、ぷろりらん、と聞きなれないメロディとともにみゆたんが答えた。
「会員顧客向けアプリなら、二カ月前に黒谷さんがX社さん向けに提案してるよ。仕様もD社さんの要望に似通っているから、システムが流用できるかもしれないね。黒谷さんの提案書をPCメールに転送するね。あと、他社の類似アプリの口コミデータも一緒に送るよ~」
おおっ。もしやこれがさっき桃島さんが言っていた新機能なのか? さっそくメール受信中。どれどれ。……さすが黒谷さんだ……、なんてわかりやすい提案書なんだ。これはそのままコピペして……。それと、これが他社アプリの口コミか……なるほど、なるほど、種類別に分類されているから、そのまま提案書に使えるぞ……これもコピペしてっと……。
「おいっ! 白田!!」
夢中で提案書を作成していて気づかなかったが、PC画面から顔を上げると、目の前に黒谷さんのいかめしい顔。
「D社のプレゼン、来週だろ? どうなってんだ!?」
それはただいま提案書を作成中でございます~。
「確か会員顧客向けのアプリだったろ? それなら、お前は知らんだろうが、ちょっと前に俺が提案した……」
X社の提案ですね。もちろん知ってますよ! 黒谷さんの提案書も参考にさせていただいています!!
「なんだ、知ってたのか……。それならいいが……」
黒谷さんはちょっと拍子抜けしたような表情を浮かべたが、すぐに顔を引き締めて、
「だが、俺の提案をまんまパクっても仕方がないぞ。もちろんD社オリジナルの提案を考えているんだろうな!!」
はいっ! D社の同業他社の類似アプリの口コミでは、インターフェースの不満が多数投稿されていましたので、X社のプログラムを流用することで開発費を抑えて、インターフェース・デザインにコストをかけた提案を考えておりまして……。
みゆたんが送ってくれた類似アプリの口コミ一覧の出力を見せながら説明すると、黒谷さんはこれまでに見たこともないぽかーんとした間抜けな顔をさらして、
「なんだ、お前もやればできるじゃないか!」と破顔した。
「いつまでたっても自立できねぇヤツだと思っていたが。そうやって自分で考えてこそ仕事のやりがいもあるってもんだ。週末の企画チェック、楽しみにしているぞ!」とどっかどっかと足音鳴らして去っていった。
あれ、あの黒谷さんに褒められた? ……もしかして初めてじゃない??
「良かったね、シロくん! 類似アプリのインターフェース・デザインの傾向リスト、今から送るからね」
みゆたんの声も心なしか弾んで聞こえた。
それからますますみゆたんの存在は欠かすことのできないものとなった。
「明日は十時からA社さんと新商品のショッピングアプリの打ち合わせがありま~す。シロくん、資料の準備はできてる?」
明日はA社さんかぁ……。A社さんは、長年仕事を発注してくれる良いお客だが、あんまりシステムのことを理解せずに、無茶な要求ばかりしてくるんだよなぁ。アプリでなんでもできると思っているところあるし。それで黒谷さんと黄澤さんにどれだけ怒鳴られたことか。憂鬱な気分で、明日の資料を作成していたら、ぴろぴろりーんと電子音が鳴った。
「明日の打ち合わせは、みゆもお手伝いするよ」
ん? みゆたんがお手伝い? 今も明日持っていく資料の準備用にいろいろデータを教えてくれているけど、それ以外に何を手伝ってくれるっていうの?
「だから、明日は必ずタブレットも持って行ってね」
疑問に思いながらも翌日、会社のタブレットPCを持参してA社を訪れた。
「いやぁ~白田くん。今回お願いしたいのは、この新商品なんだけどね……」
A社の担当であるご年配の営業部長が、福々しいえびす顔をニコニコさせながら、手書きで「やりたいこと」を羅列した紙を打ち合わせ机の上に広げた。
「新商品だからやっぱり新しい顧客を開拓したいからさぁ。キャンペーンとかも商品ウェブとリンクして告知できたりなんかしてね。でも既存顧客もやっぱり大事だし、これまでの会員サイトとも連動したいんだよね。かんたんにできるよね? ……あっそれで新商品の特徴っていうのが、ええっとどの資料だったかな……、あっこれこれ、ターゲットは年齢層をやや低めに設定していてちょっと親しみやすさは訴求したいんだけど、でもうちのほかの商品が持つ落ち着いた雰囲気はほのかに感じられるようにしてさぁ。それとね……」
ヱビスさまは立て板に水の如く要望を思いつくままに喋り出す。話が左の耳から右の耳へと素通りしていく。ヤバい、何言ってるかわからなくなってきたぞ。それでいつも、とりあえずわかったことだけまとめて企画して失敗するんだよなぁ。
「ええっと、すんません、まずどんなアプリが作りたいんでしたっけ……」
ヱビスさまの機嫌を損ねないように下手に出ながらおずおずと申し出ようとしたところ、ぷるるんという音とともにみゆたんが「シロくん。タブレットを立ち上げて」と小声でささやいた。
「ちょっとお待ちください」とヱビスさまに断りを入れてタブレット端末を起動させる。ホーム画面が表示されるやいなや、勝手にアプリが立ち上がり、ぷるるという音ともに、画面の中央にみゆたんの上半身が表示された。しかもいつものかわゆいツインテールではなく、髪を下したおとななスーツ姿だ。
みゆたんは「お客様の要望書を撮影して」とお願いするので、カメラ機能を立ち上げて、ミミズがのたくったような手書きの資料を撮影する。数秒後、ふたたびみゆたんが登場し「みゆに任せて!」とウインクするので、タブレットスタンドになるケースを立てて、ヱビスさまに差し向けた。
「わたくし、白鳥みゆと申します。白田に代わってご説明いたします」
話し方もいつもと違う。さすがみゆたん、TPOをわきまえている。
目を真ん丸にしてきょとんとみゆたんを見つめていたヱビスさまだったが、みゆたんが流れるようにアプリの説明をし出すと、画面に食い入るように身を乗り出した。
「今回の新商品アプリでしたら、当社がすでに開発している既存アプリのプログラムが活用いただけます。これをベースに、今回の御社のご要望であるキャンペーンウェブサイトとの連動を図れる追加プログラムを構築いたします。すでに御社の競合他社では右下に表示されているアプリが開発されておりまして、とくにY社の商品アプリは親しみやすいデザインが若い世代のユーザーを中心に高い評判を得ていますが、御社の他の商品との統一感を考慮して今回はクール&キュートの爽やかかつ躍動感のあるデザイン・コンセプトを設定いたします。デザインの方向性ですが、この左側の画面に表示されておりますのが当社の実績となりますが、まず一番左のデザイン・コンセプトは二十代女性をメインターゲットにした……」
画面にはみゆたんの説明とあわせて、実績のアプリ画面やデザイン見本、他社アプリ画面などが次々と表示されては消えていく。ヱビスさまはみゆたんの説明の合間に「デザインはこんなのがいいなぁ」とか「このアプリのボタンを押すとどうなるの?」などと話しかける。みゆたんは「それでしたらこのデザイン系統でいったん新商品アプリのトップ画面のシミュレーションを表示いたします」とか「そのままタブレット画面をタッチいただけましたら、動作をご確認いただけます」などと寸分の隙のない回答をしてみせる。
あっという間に約束の打ち合わせ時間が過ぎていき、ヱビスさまはいつもの福々しい顔をさらに破顔一笑させた。
「いやぁ、今日は実に有意義な打ち合わせだったよ! 新しいアプリの出来が今から楽しみだ。期待しているよ!!」
「本日の打ち合わせの内容を踏まえた仕様書とお見積書、デザイン見本は、後日改めてご提出させていただきます。また御社からご提供をいただきたい商品写真と詳細情報につきましては、まとめて一覧をお送りいたしますので、ご確認のほどなにとぞよろしくお願いいたします。本日は貴重なお時間を頂戴し、誠にありがとうございました。ご期待に沿えるよう、ご評価いただけるアプリを開発させていただきますので、今後ともなにとぞよろしくお願いいたします」
画面上で頭を下げるみゆたんをまねて、ガタガタと音を立てて椅子から立ち上がって深々とお辞儀をする白田の姿を、ヱビスさまは目じりが垂れ下がったニコニコ顔で眺めるのだった。
◆
「桃島さ~ん、人事部の方から内線です~」
エンドレスノート事業部のオフィスに、桃島を呼ぶ声が響き渡る。
「はい、お電話かわりました、桃島です。えぇ、社員幸福度アンケートの集計が終わったんですね。お疲れさまです~。あっいまメール受信してま~す。ちょっとお待ちくださいね。……やっぱりかなり幸福度は向上していますね~。これで、MoNシステムに一定の効果があることを証明することができます。えぇ、いま提携先企業でも同様のテスト運用をしているんですけど、同じような効果が出てますね~。もちろん業種や職種にもよってくるんですけど。もう少しAIのパターン分析は必要かもしれませんね。えぇ、もうかなり大手のクライアントからも引き合いが来ているんですよ~。実用化もそう遠くはないでしょうね。……あっ、あと、来期の採用方針ですか~? えぇ、えぇ、そうですね~。基本的には今期と同じようにホワイト企業を全面に押し出してください、えぇ、公開採用は基本的に企画部所属なので、看板に流される自己主張の少ないフツウの人材を採用してほしいんです。独自アプリのテスト人員ですから~。それと並行してエンドレ部のほうは、有名大学の研究室回りを続けてくださいね。優秀な人材は足で稼がないと。夏にはまた裏インターンシップするんですよね。えぇ、早めに青田買いをしとかないと、他社に流れてしまったあとでは遅いですからね。これは公開せずにあくまでクローズドで進めてくださいね~。えぇ、ありがとうございま~す。それではまた……」
桃島が受話器を置いてふと顔を上げると、エンドレスノート事業部には珍しい人物がオフィスを足早に横切るのが目に入った。
「黒谷さんじゃないですか~」
黒谷は桃島の声に反射的に振り向いたが、声の主の姿を認めて、不愉快気にいかめしい顔をさらにしかめた。
「こちらに来られるなんて珍しいですね~。どなたかにご用ですか?」
桃島の声を無視して去ろうとする黒谷の背中に、これまでのきゃいきゃいした声音とは異なる皮肉めいた口調で桃島は言った。
「少し前まで同じ部署で働いていた同志なのに、無視することはないじゃないですか」
「何の用だ」
黒谷は眉をひそめた渋面をして冷たい声で言い放った。
「用がないと声をかけてはいけないんですか? いつもそんなんだから他の社員から怖がられるんですよ」
「ほっときやがれ」
「……黒谷さんはMoNシステムは使ってくださってないんですね?」
黒谷の左手首に視線を遣って桃島は尋ねる。
「あんなもん、俺には必要ない」
「ふふふ、黒谷さんならそう言うと思っていました。そんなこと言わずに使ってくださればよいのに。このシステムを導入してから、労働時間は八%削減したにもかかわらず、売り上げは十二%増加してるんですよ。MoNシステムのおかげで仕事にやりがいを感じているという声も多く挙がっていますし……」
「人間がAI(機械)に踊らされるなんてゾッとしねぇぜ。それで喜んでるヤツの気がしれねぇ」
桃島の話を遮り、黒谷は吐き捨てるように言った。
「人間は自立が大切だ。機械に使われるようなくだらん人間を量産して、何が楽しいんだ!?」
「自立、ふふ、黒谷さんの口癖ですね。でも、それが本当に人の幸せにつながるのでしょうか。社員幸福度アンケートの集計結果も出てきましたけど、MoNシステム導入前より幸福度は二十三ポイントも増加してるんですよ。黒谷さんが言う機械に使われて、みんな幸せを感じてるんです」
「今回のことだけじゃない。近ごろのエンドレのやり口が気に入らねぇ。AIやらビッグデータやら人間が使ってなんぼのモノを」
「でも黒谷さん、人間には二種類いるんです。使う人間と使われる人間。使われる人間は、使われることが幸せなんです。自覚があるかどうかは、別問題ですけど」
「……」
「エンドレスノートとMoN構想の立ち上げ初期メンバーである黒谷さんならよくわかっているでしょう。ふふふ、でも黒谷さんがうちの部から異動になったのも、部の方針に立てついたせいですもんね。MoN――Mind of Networking構想が実現すれば、世の中の常識を一変させられるというのに。まだ現在ではマインドのうちでも、仕事における幸福度コントロールだけですけど、応用範囲の広さは黒谷さんに言うまでもないですよね」
「……人間が同じ人間の情動をコントロールしようなんて、反吐が出る」
「わかりあえなくて本当に残念です、黒谷さん。……企画部の仕事は楽しいですか? あなたほどの人が窓際に追いやられて、数百万円レベルの小さな仕事で毎日忙殺されているなんて、才能の持ち腐れとしか思えません。こんな状況でまだうちの会社に居残っているなんて、ご自分が惨めにならないんですか?」
「……悪かったな、辞めもせずに居残っていて。……社長にはむかし世話になったからな」
黒谷は桃島のふさふさのまつ毛に囲まれた瞳を睨みつけ、桃島はそれを平然と見つめ返した。
「黒谷さん、義理や人情に囚われていては幸せになれませんよ」
「……」
黒谷は何も返さずに、話は終わったとばかりにぷいと顔をそむけて歩き出した。その背に向かって、桃島は問いかけた。
「黒谷さん、いま幸せですか?」