再開への山登り
機能停止
初夏の夕暮れ、町の商店街を歩いていた泉は今日の夕食を何にするか悩んでいた。
「今日は、手抜きして冷ややっこと酢豚にしようかなぁ…パイナップル入れたら優也は怒るだろうし」
ぶつぶつと言いながら買い物袋を提げて横断歩道を渡ろうとした時、一台の車が猛スピードで目の前を走り抜けた。
「ったく、危ないわねえ」
走り去った方向を見ながら歩き始めると、更にもう一台の車が迫っている事に気付かなかった。
ドンッと大きな音がしたかと思うと、泉は夕焼け空を一瞬見たが、その後は周囲で悲鳴と人が駆け寄ってくる足音だけが聞こえた。
事故の知らせを聞いて病院に駆け付けた優也。近くの看護師を捉まえて、
「こちらに岩下泉が交通事故で運ばれてきたと聞きましたが、どこかわかりますかっ?」
「ああ、さっきの女性ね、ご主人ですか?まだ、あちらの救急救命室にいますよ」
と、すぐに奥に案内してくれた。
優也が部屋に入ると、人工呼吸器をつけた泉の姿が見えた。しかし、顔は腫れあがり見るのも痛々しい。
数人の看護婦が医師と忙しそうに動いている。医師が入ってきた優也に気付くと近寄ってきて、
「ご主人ですか?奥さんは非常に危険な状態です、覚悟しておいてください」
「そんな…!」
「今、全力を尽くしています。後程きちんと説明をしますので、外の待合室でお待ちください」
と、廊下に追い出された。
1時間後、泉は集中治療室に移され、医師が別の部屋に優也を招き入れた。
「ご主人、大変お気の毒ですが、奥さんの意識は回復しない可能性が高いです」
「え…?」
事故の状況、頭部の損傷により一命は取り留めたものの、意識の回復の見込みがないという説明が丁寧にされた。
「今すぐには無理でしょうが、数カ月様子を見て、臓器移植の方針も考慮にいれておいた方が良いと思います」
優也は医師の言葉を理解するのに時間がかかった。愛する妻は今後、話をすることも一緒に出歩くことも、何より食べることが大好きだったのに食事をすることもできないのだ。
「で、でも、回復する可能性は0ではないんでしょう?」
「可能性はわずか数パーセントですね、半年間脳波の状態をみてみましょう」
治験?
優也は仕事を休み、泉の意識回復のためにできることを何でも試した。眠っている彼女に話しかけたり、音楽をかけたり、手や足をさすったり、思い出話を覚えている限り話した。
しかし、泉は指1本動かすことはなかった。事故直後の顔の腫れも引き、元の綺麗な顔に戻っていた。
自分には勿体ないと思うほどの美しさだが、2年前、会社の取引相手の事務所にいた彼女を見かけ、一目惚れをした。そして何度か声をかけた末、ようやく食事に呼び出すことができた。
泉は舌が肥えていて、美味いものには目がなかった。そこで、有名レストランの賄い飯を食べさせたところ、何度も美味しいと言ってペロリとたいらげた。
それからしばらくの間、グルメデートを続けた。泉は美味しいものを食べている時が一番幸せだと言った。何でもたいらげてしまうのにあのスラリとした体形が保てるのが不思議でならなかった。お陰で細かった優也の方が10kgほど太った。
それでも泉はそのぐらいふっくらしている優也が好きだと言ってくれた。
初めてのデートから半年、泉の誕生日にプロポーズをした。彼女は喜んで受けてくれた。
泉が意識のないまま過ごし、半年経った今は優也もすっかり出会った頃と同じ体重に戻っていた。
今日は脳波検査の結果を聞く予定だ。脳の機能が停止していれば、臓器提供の説明を受けることになる。面談室の前に立った優也は深く息を吸い込んだ。
「失礼します」
ノックして中に入る。
部屋の中には6人掛けのテーブルが置いてある。一番奥に主治医の田中が深刻そうな顔をして待っていた。そして、その横には2人のスーツを着込んだ中年男性が座っている。一人は初老、もう一人は優也より若そうだ。医療関係者にしては堅苦しい、臓器提供の関係者だろうか?
「やあ、岩下さん、こちらへかけてください」
田中はやさしく自分の前の椅子を勧めた。
優也は言われるままに静かに座る。
「早速、検査の結果を言わせてもらうよ」
「はい」
田中はしばらく優也の顔を見たあと、手元のカルテに目を落とした。
「泉さんの脳波ですが、やはり事故当時からあまり変化はありませんでした。本当に残念です。今後の方針ですが、このまま一生を過ごすと経済的にもあなたの精神的にも…」
「これ以上精神的に悪くなることはありません」
優也は言葉を遮った。希望がないことは予想していた。
「まぁ、岩下さん、話を最後まで聞いてもらえませんか?」
「…すみません」
だが、俺が惚れたあの顔も体も無くなり、臓器だけが生きていくなんて…、もう二度と彼女の肌に触れることができないなんて、受け入れなくてはならないけど、今の俺には無理だ。
「それで、提案なんですが…」
田中は横のスーツの男に顔を向けて頷くと、初老の白髪交じりの男が名刺を出してきた。
「私、株式会社オデュッセウスの部長、白崎と申します。隣は李と申します」
「株式会社?」
「はい、この度は奥様の事、本当に残念でした」
と、若者と二人で立ち上がって頭を下げた。そして続けて、
「ですが、岩下さん、もう一度希望をお持ちになってください。私共は脳死の患者さんとお話が出来る手段を持っています」
「え?」
「ですが、まだ治験の段階でして、公にはなっていませんし、これから説明する事も理解し難いかと存じます。岩下さんはさぞかし奥様ともう一度お話をしたいでしょうね」
「それはもちろんです」
優也は姿勢を正した。不信には思うが、どんな手段を使ってでも、もう一度元気な彼女と会って話をしたい。
「そこで、奥さんの体をうちの会社に預けてほしいのです」
「はぁ」
「もちろん臓器を出したり、体をひどく傷つけるようなことは致しません。きちんと生命維持の管理もさせて頂きます」
「そこで何を…?」
「ただ、頭蓋骨に少し穴を開けさせていただき、奥さんの脳を微量の電気と脳波などで刺激を与え、独自でコントロールできるように致します」
優也はごくりと喉をならした。
白崎は続ける。
「それを行うことによってある条件下で奥さんは頭の中で会話や行動ができるようになります。要するに夢を見ているような状態です」
「夢を見ている人と話をする、とでも?」
「そうですね、その夢の舞台を私共が奥さんに提供します。それを我が社の開発したソフトで映像化するんです」
バーチャルリアリティーのようなものか?
「映像の世界はゲームになっています。現実の世界と区別がつかなくなってしまうと現実の事も忘れてしまうかもしれませんので、RPGの設定になっています」
ゲームなんて携帯ゲームしかやったことがない。しかもパズルばかり。泉だってもちろん経験がないはずだ。
「では俺もそのゲームに参加できるのですか?」
「はい、そこでお二人は出会い、会話をすることができます。ご主人は現実の世界で仕事をなさったり、家の家事などの生活をなさったりしないといけないでしょうから、それを維持しながら、PCで我が社のソフトをダウンロードして頂き、ゲームの世界で会話をしていただけます」
「やります、是非やらせてください!」
RPGは苦手だ。だが、背に腹は代えられない。優也は身を乗り出した。
「岩下さん、焦らないでください、あくまでも治験ですので当社でも万全を期しておりますが、万が一という事もございます。そのため、きちんと契約と承諾の手続きをしていただきます」
それでも、希望があるなら。早く泉と話をしたい!
イズミ
長い眠りから覚めたようで、泉は頭痛で目が覚めた。
「いたた…」
起き上がると、大きな木の下で下着姿の自分に驚く。
「はっ?何?、なんで?」
周囲を見回すが、人の姿はなさそうだ。草原の中の1本の木、空は青く風が心地よく吹いている。遠くを見ると、町らしき建物、風車小屋のようなものも見える。
「ここは…どこ?」
「イズミさん、おはようございます。ご気分はいかがですか?」
頭の中に直接声が響いてくる、耳鳴りにも近い。
泉は首をすくめて、
「最悪よ、あなた、誰?」
と、頭をなでながら訊いた。
「私は李と言います。はじめまして。これからあなたをある程度のところまで誘導しますので信じて従ってください」
「なに?どうして?服はどこにいったの?」
とりあえず着るものが欲しかった。挨拶どころではない。
「左手に腕時計が付いていますので、押してみてください」
左手を見ると時計に赤い楕円のボタンがついている。そこを押してみる。
自分の目の前に45インチぐらいの透き通ったモニターが現れた。
「その中に”コスチューム”とありますので好きなものを選んでください」
開いてみると、ワンピースや迷彩服のようなものがいくつかあった。靴もスニーカーからハイヒールまである。
ワンピースを選択してみると、自分が着るまでもなくすぐに身につけられた。
「びっくりした…」
「まず、南に見える町まで行ってください。その間、あなたがここに来た訳を説明します」
泉は口をへの字に曲げて、ハイヒールからローファーに変更した。時計を見ると方位磁石もついているようだ。
「南、ね」
泉は目覚める前の出来事が思い出せなかった。
李の説明を聞きながら、南へと草原を歩いていく。どうやら自分は現実の世界では植物状態になっているようだ。こうして歩いているのも、頭の中を働かせているだけのようだ。
実感がわかないが、この見たことのない世界を見ると信じざるを得ない。確実に日本ではない(といっても日本をすべて知っているわけではないが)。
夫の優也はさぞかし悲しんでいるだろう。ここでいずれ会えると聞いて安心したためか、冷静に考えていられる。
早く会いたい。まだ結婚して2年も経っていないのに…。
エイレネという町
どのぐらい歩いただろうか、李の落ち着いた話と私の質問だけで30分は超えているだろう。お陰で遠いという感覚もなく、泉も頭痛以外は疲れてはいなかった。あまり大きな町ではなさそうだが、町の入り口についたようだ。森の奥にテレビで観たような巨大なUFOが宙に浮いているように見える。
「ようこそ、エイレネへ」
李の声が近くなった気がした。その方角を見ると、細い体に髪が腰まで長く、セーラー服を着た女子高生がにこやかに立っていた。そして、近づいてきて一礼すると、
「私が李です、よろしくね」
とほほ笑む。童顔で愛嬌のある顔立ちだ。
「えっ?」
一瞬思考が停止した。声は男なのに…女子高生!?
「そうですよ、バーチャルの世界ですから、どんな格好もできるんです」
「でも、声が…」
「ああ、声も変えられます。今のはリアルな声なので、現実では男性です」
「ネカマってやつですか?」
あまりPCに詳しくない割には耳年増の泉は妙な雑学を持っていた。
「…コホン。ま、そういう人もいます。一応バーチャルリアリティーであるということを証明するためにわざとやっているんです」
体裁の悪そうな顔をするが、すぐに声色をアニメ声に変更して、
「今からこの町を拠点にある活動をしていただきますね。まずは町の中をご案内しまーす!」
と、ひらりと身をひるがえして歩き出した。
「私は男性になれますか?」
「”眠り姫”の皆さんは変更できないんですよぉ、ごめんなさいね。だって、現実の世界の人から見つけてもらえないと困りますから~」
「”眠り姫”ね、よく考えたわね」
そうだ、私は植物状態だったんだっけ。
「イズミさん、元気だしてください!すぐにご主人に会えますよ~!私も全力でお手伝いしますからね~!」
李は振り返り、1本指を立ててウインクした。
「李さん、今後はそのキャラなんですね」
泉は吹き出しそうになりながら後に続いた。
「ほっといてくださいでーす!」
酒場と住み家
李は簡単に町の中を案内した。洋風の建物が所狭しと並んでいる。道も石畳が引いてあり、南欧風といった感じの風景だ。
「この酒場はクエストの受けたり、その結果を報告する場所よ。ゲームでは町を出ると、フィールドという様々な場所があって、そこに現れるモンスターを倒したり、武器や防具を拾ってきたりすることができて、ここで生活するためのお金も拾えるわ」
そうか、私は当分の間ここで生活するんだ。
「それから、あなたも当然ずっと起きているわけにいかないから、寝る場所を用意してあるのよ」
まるで西部劇にでてくるような簡素な酒場の向かいに、水色の四角い建物が建っていた。窓枠が白い縁取りで可愛らしい。
「あら、素敵」
「ここの2階よ、あなたの部屋」
部屋に着くと、李が扉を開けた。洋風の家具、カーテンなど必要なものはほとんど備えられている。
「夢の中って便利ねえ」
泉は驚いて言った。
「といっても、私たちの造った映像の中にいるわけですから、リアルに近いですよ」
李がクローゼットからベルトや服、ブーツのようなものを出してきて、
「フィールドに出る時は戦闘用の装備をしないといけないの、だからとりあえずこれに着替えて」
と、ベッドの上に乗せる。
一応バスルームに行って着替えた。李はリアルの世界では男だ。
動きやすい白の長袖シャツに茶色のレギンス、肩から左胸と腰回りを覆う皮のベルト、皮のブーツを着た。