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夢現の境界

作者: 橘悠馬

電撃大賞に応募して見事落選したつまらない作品です。

読んで頂ければ幸いです。

(仮題)夢現の境界

/橘悠馬



――これは、彼女がとても気に入っている詩だという。以前、教えてもらった。



『食べ物は買えるが、食欲は買えない。

薬は買えるが、健康は買えない。

寝心地の良いベッドは買えるが、安眠は買えない。

知識は買えるが、智恵は買えない。

華やかさは買えるが、美しさは買えない。

豪華さは買えるが、温かさは買えない。

楽しみは買えるが、喜びは変えない。

知人は得られるが、友情は買えない。

使用人は雇えるが、忠実さは買えない』

ノルウェーの詩人、アルネ・ガルボルグ



0 僕と彼女



――何かの話をしている時、その話になったことを覚えている。

その前後に何を話していたのかもう思い出せないが、その時の彼女の言葉だけは、いまでも鮮明に覚えている。

「夢現とは、はっきりしていることとそうでないことが交じり合った状態のこと。つまり混沌。カオス。わたしという人間が一番嫌っているもの。古い習慣が錆び付いて、新しいものが大量生産されるこの世界にぴったりの表現よね」

彼女はそう説明する。

「対して境界とは――これは仏教用語ね――五感と意識という六根の対象を意味するそうよ。つまり世界そのもののことだね、境界というのは。果報、という別の意味もあるらしいけど。わたしは後者より前者のほうが好きだな。わたしと世界はたった六つの手段でしかつながっていない。たったそれだけ。けれどそれが全部。ほかの人は世界とのつながりを何とも思わないだろうね……こんなつまらないことを考えている時点で、わたしはおかしくて、そしてつまらない人間ってこと」

彼女は人生のことを、世界のことを、夢現の境界と表現する。ずっと疑問に思っていたそのことを質問すると彼女はそう説明してくれた。夢現の境界。つまりはっきりしてはっきりしていない世界を五感と意識という六つの境界で見つめること。それが人生。それが世界。生きている限り、ずっとつながっていなくてはいけない世界。彼女はそれが嫌いなのだろうかと僕は不思議に思っている。けれど彼女が嫌っている素振りはない。彼女は今日も、椅子に腰掛けたまま本を開いている。

――やはり出会ったときの第一印象のままだ。彼女はどこか独特で、変わり者で、孤独で、そして、それに満足している奇妙な人。

安楽椅子の哲学者、と彼女は自分をそう評価したことがある。

彼女は椅子に腰掛けて世界を語るから、その表現はぴったりだと僕は思った。最近は僕が散歩に連れ出しているから、以前のような引きこもりではなくなったのだが、彼女は誰よりもいまの世界を嫌って見ないようにしているのに、誰よりもこの世界を深く理解しているのだ。

そして彼女は語る。独特な感性に染まった言葉によって。普通の人が意識も向けないことを題材にして。

単に彼女の観察眼が鋭いだけなのだろうけど、僕から見て平凡に満ちているこの世界で、彼女はほんとうに、特別で、独特に見えた。

単に頭脳明晰で博識、という訳ではない。

その目は僕たちが捉えきれないものを見て、その耳は僕たちには聞こえないものを聞いているだけのことだ。

……これは僕が記す僕の夢現の境界。つまりいまだに良く判らない彼女についての物語である。誰かが死ぬような物語ではないし、誰かを楽しませるような物語ではない。これは僕と彼女が語り合うだけの話だ。徒然なるままにタイピングした僕らの会話の記録。きっとこれから何年も経って僕が読み返し、やっぱり彼女は判らない人だと納得するために残しておこうと思ったのだ。そう、動機はただ――それだけだ。



1 学校



「――学校ほど窮屈で嫌なところはなかったね。狭い教室に何十人もの個性を押し込んで、あれでよく教師は病気にならないものだと思うよ」

ちょうど下校中の小学生の笑い声が聞こえてきたからだろう。彼女は唐突にそう言った。僕は顔をあげてへえ、学校が嫌いだったんだと相槌を打つ。

「そうだよ……あんなの、いい大人を生み出すだけの工場にしか見えなかったからね。あそこからたくさんのいい大人が社会に出荷されるんだ。社会の歯車にがっちりとかみ合うような部品を作るのが、工場の役割。日本の学校は天才を育まずに、全員を標準化しようとしているからね。わたしはそこに馴染めなかった。勉強も友だち付き合いもちっともうまくいかなかった。わたしは不良品よ。歪んでいるから、瑕がついているからゴミ箱直行コース。でもまあ、後悔はしていないね。わたしはわたしらしく生きられるし、あの時よりも伸び伸びとできるからね」

確かに彼女は伸び伸びとしている。たとえどれほど時代が進んでも、新しいものがどんどん生まれて、人々が古いものを次々に忘れていっても、きっと彼女が守ると決めたものは守られるのだろう。大半の人間がとうの昔に失ってきたものを、彼女は大事に抱えていそうだと僕は思った。

「ねえ。あなたは好きだったの、学校」

その問いに僕は好きだったと答える。彼女と違って僕は平凡極まりない人間で、学校に行くことが楽しくて仕方がなかった。彼女のように窮屈さを感じることもなかった。

そう答えると、やっぱりわたしは変人だと彼女は笑う。

けれどそれは自嘲するような笑いではなく。

自分がそうあることをまったく恥じない笑い方だった。

「鳥はね、鳥籠に入ったら鳥ではなくなるの。自分の空を広げないと鳥ではいられない。わたしは誰よりも先に羽ばたいて行きたかっただけなんだろうな。わたしはみんなと違うものばかりを見ていたから、きっと誰よりも学校で居心地が悪かったんだろうな。やっぱり変人だったんだ。わたしは」

最後に彼女はそう笑う。

まるで自分を再確認したように。



2 町



「――ねえ、町ってなんだと思う」

彼女はベランダに出て、柵から身を乗り出すように外を眺めていた。危ないよと注意しても聞く耳持たず。彼女は僕の答えを待っている。いったい何を見て彼女はそんな疑問を抱いたのだろうか。僕もベランダに出て夕焼けに染まる町並みを見つめる。これから冷え込んで、暗くなって、いまよりももっと静かになる町のどこにも、彼女に疑問を抱かせるような要素は見当たらなかった。

なんでそんなことを考えているのさ、と仕方なく僕は聞き返した。

「わたしはね、いつも思っているの。この町はなんなんだろうって。建物がびっしりと並んで、道路が細かく敷かれて、車がたくさん通っている。この町には誰かがいる筈なのにいつも誰もいないように見えるの。人の気配がない。まるで誰もいなくなったような町に見えるの……だってさ、目を凝らしてもさ、目に見える町を歩いている人はほんの一握りだよ。なんの理由もなく町を眺めていてね、ほとんど人の姿は見えないんだ」

ああ、確かにそうだと僕は納得する。僕たちが暮らす町というのはとても静かなものだ。時折聞こえる車のクラクションや大きなエンジン音のほかに、僕たちはどんな音を聞いているのだろうか。そういえば、近くの公園で遊んでいる子どもの笑い声はいつ聞いただろうか。彼女が疑問に思う町について、僕も不思議に思った。朝、子どもたちは学校に行く。その時だけ町は活気に溢れ、それからはとても空いている。人の気配が死んだようになくなった町がまた賑やかになるのは、夕暮れを待たなければいけないのだ。

朝、学校や会社に向かって人びとが通り過ぎて行き、ぱったりと足音が途絶える。家へと向かう足音が聞こえだすまで、この町はとても静かなのだろう。

「極端に人が多い場所と、人が少ない場所があるの。これがわたしたちの暮らす世界だよ。そもそもこんなに広い世界は必要なのかな、わたしたちは。学校や家や会社のビルや、ショッピングモールや図書館に引き篭もっているようなものだよ。わたしたちは町に暮らしているというより、建物のなかで暮らしているように見えない」

確かに、と僕は頷いて肯定する。

人びとが暮らす世界はなんて広く浅く、動物が暮らす世界はなんて狭く、そして深いのかと彼女は呟いた。確かに人は世界の広さを持て余している。大地にべっとりとアスファルトを塗って、海を埋め立ててでも自分の世界を広げている。確かにそれは無駄な行為だ。そんなことをしなくても、人は暮らしていけたのに。

いつからだろうか。人がそんな暮らし方を忘れたのは。

これは誰もが望んだ世界なのだろうか。

「きっと、いつか人びとは町なんてものを必要としなくなるんだろうね。完成した自分の世界に引き篭もるような時代が来るかもしれないね」

それは嫌な時代だね、と僕は相槌を打つ。けれどそれはもう遠くない未来なのだろうとも思った。僕たちの目から見て、朝も昼も夜も人気がないであろうこの町は、すでに僕と彼女が嫌がる世界の雛形なのだ。



3 命



それは町を歩いているときのことだった。彼女は不意に立ち止まった。僕はそれに気づかず数歩先に進んでしまい、隣に彼女がいないことに気づいて慌てて振り返る。

どうしたの、と尋ねて彼女が何か遠くのものを見ているのに気づく。その視線の先を追うと、車が行き交う道路の真ん中に、野良猫の死体が転がっているのが見えた。タイヤに押し潰されたのではなく、おそらく車に撥ねられたのだろう。野良猫は眠るようにそこに横たわっていた。いまだ烏に死肉を漁られないのはそこが大通りだからだろう。

可哀相に、と僕は呟く。

「――ねえ、命ってさ、いつからあんなに軽いものに成り下がっちゃったんだろうって思わない? 車の運転手はあれを見てなんとも思っていないよ。通行人もあれを見てなんとも思っていない。おかしいと思わない。テロで何人犠牲になったとか、登山家が行方不明とか、地震や雪崩や津波や土砂崩れで何人死んで何人怪我をしたとか、そういうニュースの時は誰もが痛ましいと思っているはずなのに。どうして身近にある命の喪失には痛ましいと思わないのかな」

静かな声だが、長年の付き合いでいま彼女が怒っているのは僕にも判った。その怒りは誰に向けられたものだろうか。野良猫を轢いて走り去った運転者だろうか。それとも野良猫の死体を見てもなんとも思わない他の運転者や通行人に向けられたものだろうか。それとも彼女が嫌うこの世界に向けられているのだろうか。

「この世界は、――嫌いだよ。行き交う人びとは何も喋らない。幼いときには挨拶していたのに、大人になった途端に挨拶しなくなる。それが不要なものだと勝手に決め付けて、行き交う人びとに無関心に道を進む。こんな世界の何が良いのかな。誰に対しても無関心で、誰に対しても不親切。こんな世界で生きていけば、きっとね、すぐ近くで誰かが死んでもみんな気にせずに通り過ぎていくんだよ」

それは極論じゃないかな、と僕は反論する。さすがに誰かが死にかければ、誰かが助けようとするだろう。周りの人だってきちんと心配するはずだ、と僕は言った。

けれどそれは、彼女にあっけなく論破される。

「そこがすでに問題なんだよ。人びとは命を差別している。すぐ近くで人が死ねばそれを悲しむというのに、野良猫や野良犬が死んでいても哀しまない。むしろ汚いものには手を出したくないと言うように放っているんだよ。この世全ての命はみな均一のはずだ。体が大きいから優遇されるとか、体が小さいから見下されるとか、命に関してそういうものは絶対に有り得ないんだ。それなのに、人間は命を差別している。同じ種族じゃないからという理由で人以外の命を軽んじているんだ。君もそうなんだよ」

彼女の言葉に僕は黙り込む。それは紛れもない正論だった。確かに人は命を差別していた。野良猫だから、野良犬だからという理由ですぐ近くにある命を見下しているのだ。人と何も変わらない命を無視している。隣人と変わらない距離にいる命に僕たちは目を向けていないのだ。

唐突に、彼女は道路に向かって歩き出す。車の運転手はクラクションを鳴らすが、彼女は無視して野良猫の死体に近づいていく。僕は慌ててその後に続く。危ないよ、と声をかけてもそうだろうさ、と彼女に冷たく返される。

彼女は野良猫の死体をそっと抱えて、向こうの歩道へと渡った。彼女はそのまま公園へと行って、茂みの陰に回り込む。野良猫を土に還すべく素手で土を掘り始める。僕は荷物を置いて彼女を手伝った。

「人間は身勝手だ。身勝手すぎる。たとえばニュースで、誰かの命が奪われればそれは恐ろしいことだ、許されないことだと人びとは心のなかで素直にそう思っている。けれどね、恐ろしいことと許されないことは常に、人間の世界で、あらゆる所で起こっているんだ。この世界は人間にとって住み易い町で、ほかの種族には住みにくい町だ。だから彼らは毎日、こうして……誰にも気づかれずに命を落としていく。かつて自然のなかで共存していた人間の生活スタイルは失われた。自分たちだけが幸福で裕福で、その他のことは何も知らないとばかりにいまの人びとは生活している。野良猫や野良犬は、わたしたちのせいで毎日死んでいるのよ。それなのに人びとは上を向いて歩いている」

人間のせいで死んでしまった野良猫の、小さな墓を見つめて彼女は語る。

「君だけではなく、もっと多くの人びとに気づいてもらいたいよ。肌の色で差別することは悪いことだと言っておきながら、人びとは自分以外の命をとことん差別しているんだ。体の大きさが違うから、違う種族だから、といった理由でね。誰かを救うことを立派だと褒め称える人がいるけど、わたしたち人類はね、こんな小さな命ですら救うことができずにこの手から取りこぼしているんだ。この手が同族の命を救っているのに、別の命を救えないなんておかしすぎる……わたしたちは、毎日、人間以外の動物を殺しているんだ。誰かを救って褒め称えられても、わたしたちはほかの命を救っていないからなにも偉くないんだよ。むしろ醜悪。同族を守って他の種族を否定し、排斥しているようなものだからね。人類は決して賞賛には値しない生き物だ……きっと世界から見たら人類は地球で一番大きな害虫でしょうね」

彼女は静かにそう言って、静かに両手を合わせた。人が死者に向ける礼儀正しい姿を、彼女は野良猫に向けている。それは、人間の世界で死んでしまった猫に冥福を祈るようにも、またごめんなさいと謝っているようにも見えた。


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