1話
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十進法
分厚いファイルをスチールのデスクに置くと、思いのほか大きな音が鳴った。こちらに気付いた久我が、口元をニヤつかせながら寄ってくる。
「田辺、どうだった?桑原の子供は」
「そんな言い方するなよ。別に普通だ」
僕がそう答えると、僕の不機嫌を見透かしたのか、久我はやはり愉快そうに笑って、自分のデスクへ戻っていった。
僕は目を閉じて、近くのデスクから漂ってくるコーヒーの香りに意識を集中させる。手で目を覆うと、まぶたの裏、つまり視界は完全に暗闇になり、視覚で得る情報を遮断することができた。活字も、同僚の顔も、いつも密かに持ち歩いているカート・コバーンのステッカーも、今は見たくない。日々取り入れなければならない情報量の多さに、いよいよ精神が参ってきているのだ。その時、ついさっきまで対面していた子供の顔が思い浮かんだ。その表情は無関心と嘲笑に満ちている。
「良いことも悪いことも、僕が決めますよ」桑原の子供はそう言い、しかしその直後に、「それくらいの分別はつきます」と言い直した。それは、高校生らしからぬ言い直し方だった。全く自己中心的な視点から、あくまで規範のもとに成り立つ自己の能力の主張に言い換えたのだ。おそらく、本心は先に言ったほうだ。
「あの子は間違いなく、家事部から少年部に移動してくる。そうしたら、担当もお前から俺に代わる」気が付くと、久我が隣に立っていた。目の前にコーヒーの入ったカップが置かれる。久我は、時にはひどく薄っぺらに見えるほど軽快な話し方をするが、そのように気遣いに長けていた。そういうところは、少年部に訪れる子供と意気投合するにはちょうど良い資質だった。子供に心を開かせることができるのなら、家庭調査官としては申し分ない。
「不吉なことを言うなよ。本当にそうなったら…。いや、そんなことはない。そうはならない」それが僕の言える限界だった。実のところ、全く先が見えない。嫌な予感はしていた。
桑原佳乃は、二カ月ほど前に家庭裁判所を訪れた。原因は親の親権争いで、弁護士である父親のほうはこの辺りでは名士で、狡猾な男だった。そのせいで普通は母親に渡るはずの親権が、宙に浮いたまま右往左往している状態なのだ。そんな中で、女子高校生の佳乃を個別に担当することになったのも、父親の依頼があってのことだった。両親に対して暴力的だ、というのが父親の言い分だったが、「じゃあなんでそんな子を引き取りたいんですか」とは聞けず、それから僕は何度か佳乃との面談を繰り返した。話し方は落ち着いていて、暴力的な素振りは少しも見られなかったが、特徴的なのは、中性的な見た目で自らを「僕」と呼ぶことと、どこか老成した口ぶりだった。同年代の子供とは一線を隔てた、何かひどく陰鬱で恐ろしい考えを秘めている気がした。