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廻る僕らとみなそこの石

馬酔木(あせび)

作者: 逸取 生

 二〇二七年五月三十日(日) 午後

「見つけた──あれだわ」


 書店の二階、文庫本コーナーの隅──本棚の一番上の段に一冊だけ。

 需要は少ないのだろう。左右を見渡しても脚立は見当たらないし、店員も近くにいない。

 

 ──しょうがないわね。

 

 私は背伸びをして本に手を伸ばした。同年代の中では身長は高い方だ、何とか届くだろう。

 指の先で隙間をつくって本を引き出そうとするが、きっちり詰まっているようで……なかなか抜けない。


「あら、これでいいのかしら?」


 私の手に白くて細長い腕が被さった。

 ひんやりとした感触が触れる。

 横を見上げると、私よりも背の高い女性が──恐らく一七〇センチは余裕で越えている背で、私よりも長い髪をかき上げて微笑んでいる。まるで美術館のギリシャ彫刻のような、美しい人。


「はいどうぞ」

「すみません、わざわざ」


 ふわりと、ほのかに香るのは──雨上がりの鈴蘭の匂いだ。

 白いワンピースは胸が強調されているデザインなのに、決して下品にはならずに女性の身体を着飾っている。

 私も今日はワンピースだけど……彼女が彫刻なら、私は案山子(かかし)なんじゃないかと、思わず自分の胸と見比べてしまいそうになる。


「ありがとうございます」

 

 軽く頭を下げて、レジに向かった。



 会計を済ませたので友人に連絡するべく、私は前方の空いたスペースに立った。ガラス張りの空間で、ここからだとビルの一階ロビーがよく見える。

 ショルダーバッグから携帯を取り出したとき、ガラス越しに誰かと視線が合った──先ほどの女性だ。

 彼女はモデルか何かなのだろうか。

 私は普段テレビを見ないし、最近は電車の広告も見る機会がないから、例えが古いのだけど──三十年前の、好きなフランス映画の女優に彼女はよく似ている。母が本棚に遺した古い映画だ。

 女性はまっすぐ私の方へと向かってきた。


 ──いけない、少し見過ぎてしまったかしら。


「あ、すみません私ったら。本を取っていただいたのに、きちんとお礼もせずに」


 実際のところは別に簡単な会釈で構わないと思っているので、これは方便だ。


 女性は(つや)やかな、赤い唇を動かす。


「ねえあなた……高校生?」


「はい、二年生です」


「お名前、聞いてもいい? 私はアセビというの」


 アセビ……馬酔木(あせび)だ。苗字だとしても、本名か偽名か微妙なところだ。

 私は映子(えいこ)という自分の名を言いかけたが、「ええと、ハナダハナコです」と適当に思いついた偽名を告げた。

 幾ら相手が美人でも、見知らぬ人間に名を教えるということを本能が拒否したからだ。


「──ハナコさんね、ねえ、ちょっと聞きたいのだけど……今時の高校生ってそういうのを読むのが流行っているの?」


 本の入った袋を見てアセビさんが問いかけてくる。


「え、ああ、これですか? 流行っているかは分かりませんけど──私は好きです」


 今日買ったのは明治中期、女流作家の作品集だ。

 私が気に入っている作者はこれといった作品がないままに夭折してしまったが──それでも、現状から脱却したくてもできない、当時の若い女性の心情を上手く描いていた。


「そう……。私、こういう本を読む高校生を知ってるからてっきり──男の子だけどね」


「そうなんですか、私もたまたま、クラスメイトが同じ趣味なんです。やっぱり男子ですけど──貴重な仲間です」


「そうよねえ、確かに貴重だわ。同じ趣向の人間を見つけるのって……苦労するもの」そう言って優雅に笑う。


「あの、どんな本がお好きなんですか?」


 私も彼女に話題を振ってみた。


「あら、私はこれといって特にないの。でも強いて言えば……思考は現実化するとか、よくある成功本かしらね」


 思考の現実化、そういった類いの書籍は非常に多い。

 幾人もの作家が、それぞれの切り口で書いているテーマ──でも結局行き着くところは「覚悟を決めろ」だと、クラスメイトが言っていたのを思い出した。


「思考が現実化するって言ったら、やっぱり──」


 私はよく知られている作家の名前を挙げた。


「そうねそれがメジャーよね、まあ大体そんなところよ」


 アセビさんは色っぽく唇を動かす。

 先ほどからチラチラと男性の視線を感じる。やはりこの女性、異性から見ても魅力的なのだろう。

 しかし……年齢が読めない女性だと思う。

 外見や肌の感じから二十歳過ぎぐらいにも見えるし、少し若い三十代に見えなくもない。でもこの滲み出る色気──実は四十を過ぎているのかもしれない。


「ねえ……あなた」


「はい」


 ──今の私の考え、見透かされたかしら。

 

 少しドキリとするが、素知らぬ様子でやり過ごすことにした。

 アセビさんは一階のロビーに視線をやったあと、私の頭からつま先までをじっくりと眺めてくる。


「あの……何か?」

「フフッ、知らない女性からいきなりこんなこと言われると驚くでしょうけど……」

「はい……」


「今夜良かったら、私と──遊ばない?」


「え?」


 何を言われたのかよく理解できなかった私は、思わず聞き返した。


「遊ぶって、それってどういう意味でしょうか……?」


「だから、そのままの意味よ」


 アセビさんが私に向かって一歩踏み出す。


「そ、そのままって?」


「あなた可愛らしい顔、してるじゃない」


「可愛い? そんなこと、言われたことなんてない、で、す」


 にじり寄ってくる彼女の──さっきまで美しいと思っていた唇が、いまは酷く斜めに歪んで見える。


「可愛いわよあなた……その意志の強そうな瞳がとっても──私、あなたみたいな子って泣かせてみたくなるのよ」 


 後ずさる私に、彼女が一歩一歩近づく。


「あ──」背中が、ガラスの窓にぶつかった。


「最初は大人しそうなお嬢様かと思ったんだけど、ちょっと違うみたいよね……」


 舌なめずりをした女が素早く両腕をついて、私の逃げ場をなくしていく。


 周囲は私たちのことを女性同士のカップルだとでも思っているのだろうか、足早に通り過ぎていくばかりだ。


「じょ、冗談じゃないわよ……」


「あら私冗談でこんなこと、しないわよ」


 何とか逃れようとするが、捕らえられた両腕は全く力が入らない。私も並の女子よりは腕力がある方なのに──この女の方が圧倒的に強い……!


「ちょっと、公衆の面前じゃない……!」


「じゃあホテルに行きましょ」

 

 いますぐ近くで泊まってるの、そこ、と濡れた瞳で女がささやく。この辺りには高級ホテルしかないはずだ。 

 シティホテルを連れ込み宿にしてるのかこの女は……! 

 湿った唇が私の首筋に近づいてきて、軽く吸い、次に強く吸った。


「ちょっと……! あっやだ……ンッ」


 女の髪が視界のすぐ傍に広がる。鈴蘭と……女自体の毒々しい甘い香りが混じって、濃い蜜の香りにむせかえる。


「ほんと可愛い子……ねえ、続きは私の部屋でしましょうよ──ハナコさん」


「ンッ……!」


 首から背中に伝わる感覚にのけぞりながらも(かかと)に力を込め、女の足の甲を潰そうとしたとき──。 


 プルルルルルルルル……。


 突然、右手の携帯から大きな呼び出し音が鳴って、女の注意がそれた。私を押さえ付けている腕が緩む。


「さ、さよならッ!」


 束縛から抜け出し、鳴ったままの携帯を鞄に入れて──私は一気にエスカレーターを駆け下りた。


「待って、ちょっとお待ちなさいッ!」


 追いすがる声に振り返ることなく、私はビルを飛び出した。


 

 ****



「ハァッ……」


 書店を出て、私は表通りを駆け抜けた。

 ビルとビルの隙間に入って、壁にもたれかかる。時折来る強い風が、私の火照りを冷ましてくれた。 


 ──またか……。


 実のところ変質者に遭うのはこれが初めてではなかった。小さい頃から何度も、あの(たぐい)の輩には遭遇してきた。

 道を歩けば毎回、なんてそこまでの頻度ではない。

 けど段々季節が暖かくなると──例えば今日みたいに暑い日は──大抵、変な人間と遭遇する。

 高校に入った当初は電車通学をしていたけれど、ちょうど夏服に衣替えした時期からだろうか──二駅でも痴漢に遭い、制服を汚されることも度重なった。以来、基本自転車通学だ。


 性的なちょっかいをかける人間は、小さい頃は兄が追い払ってくれていた。母は早くに亡くなり、父も家を空けることが多く、家の中で頼れるのは兄だけだった。だがその兄も転勤で遠くへ行き──結局私は自分で自分を護るしかなくなった。

 

 兄が痴漢撃退にと教えてくれた護身術は、既に私独自の型になっている。兄の流れるような型は見る影もないが、私は目つぶしでも急所蹴りでも、公共の目の届かない場所でならとにかく何でもやって抵抗してきた。

 (くだん)のクラスメイトいわく、私のやり方は過剰防衛らしいけど。


 ──それにしても、まさか痴女に遭遇するなんて……女性は初めてだわ。


 こんな目に遭ったと伯母たちに知れたら、また祟りだの何だの言われるだろう。

 私は目を強くつむって息を吐いた。変質者に遭遇するのも憑かれているからではなく、偶然が重なったにすぎない。


「おい──」


 急に掴まれた左腕の感触に驚き、腹を蹴り上げようとしたが──。


「違う、俺だよ」

 

 至近距離に入ってくる太い眉に茶色い瞳。塩素焼けした短い髪が揺れた。


「──貫二(かんじ)君」


 クラスメイトの男子だった。



 ****



 曇りの日の夕方は薄墨を流したような空だ。時間がたつにつれ、そこに更に暗い鉛色が混ざっていく。


映子(えいこ)、ちゃんと携帯見たか?」


「いいえ、余裕がなくて──さっき鳴らしたの、貫二君だったのね」


 私の言葉に貫二君が頷く。


「良かったよ、映子のこと見つけられて」


 貫二君も走ってきたのだろうか、半袖のシャツが少しよれている。


「今日はどうしたの?」


(まもる)と本屋で待ち合わせてたんだよ、夕飯一緒に食おうって」


「え、あのビルの中の書店?」


「そう、一階のロビーにいた。そしたら二階にいるお前が見えてさ」


「うそ、じゃあアレ……見てたの」


 急に恥ずかしくなった。痴女に迫られていたところを、よりによって彼に見られていたなんて──。


「あ、ああ、全部見てた……というか見えた」


「ちょっと……見ていたなら助けてくれればいいのに、私大変だったのよ」


 私は顔の火照りを感じながら抗議した。


「助けただろ」


 携帯鳴らしてさ、と貫二君は向こうを向いて答える。


「携帯よりも、直接声を掛けてくれた方がよかったわよ」


「いや、それは……すまない」


 やけに歯切れが悪い。

 まあでも、終わったことに文句を言ってもどうにもならないだろう。


 それに、先ほどから何か忘れている気がする──。



「あの、ちょっとすいませんお嬢さん」


 全く気がつかなかった──。私たちが隠れている路地の奥には先客がいた。

 くたびれたジャケットに趣味の悪い指輪──見るからに怪しい雰囲気の男だ。


「あの、何か……?」


「はぁいや、ヘヘヘ……あーいや、お嬢さん、いや何その……さっきからここにいるから」


「え?」


「駄目だ、映子行くぞ」


 男の言葉を聞き終わる前に貫二君に手を引かれ、私はその場を離れた。 






「お前、ああいう建物の隙間はもう行くなよ」


 貫二君の歩調に合わせて、私も時々小走りになりながら通りを歩く。


「怪しい男がいるから?」


「とにかくあそこにはもう行くな」繋ぐ手に力がかかる。


「あ、ひょっとして──」


 娼婦と勘違いされたのだろうか。


「……でも私、今更そんなことくらいじゃへこたれないから大丈夫よ」


 私の言葉には答えず、彼は黙って歩き続けた。


 

 ****



 気がつくと、公園の傍まで来ていた。

 書店のあるビルからこの公園までは五分も離れていないが、随分遠回りした感がある。

 手を離して振り返る彼は──その目が若干、怒っているように思える。


「お前、頼むからもっと警戒してくれ」


 隙があると言いたいのだろうか。


「私は十分、気をつけて生活してるつもりよ」


 大体変質者は向こうからやって来るのであって、私が呼んでいるわけではない。断じて。


「今日みたいなことがあったらどうするんだよ」


「そのときは正当防衛権を行使するから」


 それに書店で痴女に遭遇するなんて事は、金輪際ないと思いたい。


「映子のは過剰防衛だって言ってるだろ、いつも」


 彼は眉をつり上げているが──私だって同じ表情をしていると思う。

 ああもう……!


「気を付けろと言ったり、やり過ぎだと言ったり、貫二君は私にどうしろというのよ」


「あのさ映子」


「何よ」


 彼は息を吐いてから、私の目を見て言った。


「俺のこと、もっと頼ってくれていいよ」貫二君は静かに、でもはっきりと言った。「なるべく、駆けつけるようにするからさ」


 彼に頼るのは申し訳ないという気持ちが、きっと心の片隅にあったのだろう。

 何だか肩に入っていた力が一気に抜けたような気がして、私の心が少しだけ温かくなった。


「そうね、じゃあ今度襲われそうになったら──ちゃんと助けてよね」


「ああ、それは約束する」珍しく優しい笑顔。


「そうしないと私が過剰防衛にはし──あ」


 そうだすっかり忘れていた。


「どうした」


加南(かな)に連絡取らないと」


 貫二君も同じようだった。「俺も守に電話しないとな」





 すっかりと暗くなった公園の入り口で、私たちは二人を待った。

 実はさっきから、ひとつ気になっていることがある。私は言うか言うまいか迷ったが、思い切って彼に尋ねてみることにした。


「ねえ貫二君」


「ん?」


「貫二君、香水使ってる?」


「いや、何でだ?」


「鈴蘭の香りがするから」


 貫二君はしばらく凍った表情のまま宙を見つめて、それから何かを言いかけてはやめる、ということを続けていた。

 私は彼の言葉を待ちながら、月の見えない空を見上げる。


「……………………ないからな」


 何が、とは聞かない。なけなしのプライドがそれを許さなかった。


「うん、多分そうね──」


 私たちは──少なくとも私は、今は進むことも戻ることもせず、もう少しこのままでいたかった。

 車止めに寄りかかって手を伸ばすと、彼の骨張った指先が私の指の根元を広げて、ゆっくりゆっくりと撫ぜてくれた。 


 公園の灯にたかっていた蛾が、花の香りに引き寄せられたように私たちの周りをせわしなく飛ぶ。

 私は追い払うこともせず、ただ黙ってその舞う様を見つめていた。

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