天界5
俺はその日、課題の読書がはかどらないので、同じ室内のベンチで昼寝をしていた。念のために言っておくと、『無限なる英知との調和、そして一体感』を得るためには、闇雲に頑張っても駄目だという『合理的な思考法』によって、この昼寝は肯定されるのである。断じて、ガブリエル様が会議中で安全だからではない。
――アラーム付きの置き時計に会議終了十分前をセットしたものの、本格的に眠ってまでいなかった俺の耳に、ドアを開ける音が聞こえた。
「みーつき君、あ〜そぼ! ……あ、寝てる」
俺は悪戯心から、ミカちゃんが近付いたところで、
「ワッ!」
と、声を上げてやろうかと思っていた。待てども足音がしないので、目を開けようとした時だった。
柔らかい感触が俺の唇に触れた。
クスクス笑いとともに、イチゴ飴の香りが鼻先をくすぐった。イチゴ飴とは別の香り、脳に直接はたらきかける肌の香りが、俺を『悪魔』に変えた。ミカちゃんを乱暴に抱き締め、強引に唇を吸い、侵入してゆく。イチゴ飴が残る小さな口内は甘ったるかった。砂漠の遭難者さながらに、俺は夢中で甘い水を求め、さまよい続けた。ミカちゃんは目を見開いて体重の大半を俺の腕に預けていた。
「……ごめん」
ミカちゃんはヘナヘナと床に座りこんだ。
「ちょっとキスしたかっただけなのに……光希君の馬鹿……変態……悪魔」
ノロノロと立ち上がったミカちゃんは、部屋を出ていった。
翌日、仕事場に、何もなかったような顔をしてミカちゃんが遊びにきた。
「光希君、チューしようよ。ガブちゃんとメッティは、毎日あんな気持ちいいことしてるのよ? ずるいと思わない?」
「ごめん、昨日はどうかしてたんだ。許してくれ、ミカちゃん」
「ひどいよ光希君。……あんなこと教えておいて。みんなに言っちゃうんだから」
俺は、無邪気な脅迫に勝てなかった。
自分の過ちが原因とはいえ、天使長に背負わされた十字架は重かった。
その地位のためか、ミカちゃんは毎日のように自分のオフィスを離れて、堂々と俺の仕事場に遊びにきた。そして、もう一度だけと口付けをせがむ。個室を与えられていたことが、ミカちゃんを拒む理由すら奪っていた。抵抗虚しく、俺はミカちゃんに唇を奪われ続けた。
そのまま後ろめたい日々が続き、進めてきた俺のカリキュラムも、最後の一冊をもって終了した。
その本は大まかに言えば、自分の限界を超える方法というような内容だった。顕在意識を空っぽにすることで潜在意識に直結し、オーラの力を無限大まで高めるという雲をつかむような話だ。そんなことが俺にできるのだろうか? と疑問に思いつつ、他にやることもないので、自分なりに瞑想したりして自主トレの日々が過ぎていった。
そんな日々の中、ミカちゃんにキスされる度、俺は家に帰るとすぐに指輪を取り出して磨いた。取り出した指輪は、いつも磨いているのにどこかくすんで見えた。いっそ、指輪がすり減って無くなってしまえばいいとさえ思った。
ある日の自主トレ中、異変が起こった。暴力的なほどの揺れが身体に感じられた。ひょっとして、これが潜在意識との直結、すなわち無限大のオーラの爆発か? つまり、『無限なる英知との調和、そして一体感』なのか? と、喜び勇んで目を開けると、放ったらかしにしていた書類やら、マグカップやらが床に散らばっていた。どうやら内面の爆発ではなく、実際に何かあったらしい。ロケットか隕石でも衝突したのだろうか? 俺は一階ロビーのテレビで確かめることにした。
一階ロビーには既に天使達が大勢集まって画面に食い入っていた。役職付きの大天使達は、自分のオフィスにテレビやパソコンがあるので、そこで情報収集しているのだろう。
画面に映っているのは人間界の海で、大西洋のど真ん中ということだった。そこには、ヘリコプターか天使かの空撮によっても、全貌が画面に入りきらないほどの大穴が開いていた。
その円周からナイアガラの滝も裸足で逃げ出すような、巨大瀑布が流れこんでいた。海が滝になって流れこんでも埋まらないということは、その穴の奥行きが尋常な深さでないということだ。
もし、この穴が魔界につながっていたら……。
そう考えた俺は、サッちゃんの安否を確認するため、電話室へと急いだ。
電話室は混雑しているかもしれない。そう思いながら電話室に駆けこんだ俺だったが、大天使クラスでもないと魔界に電話などできないのだから、電話室が空っぽなのは当然といえば当然だった。人のいい父様も、魔界への直通番号まではさすがに教えてくれていなかった。
かけたくてもかけられない電話に苛々(いらいら)しながら、父様を捜しにいこうか迷っていると、父様が駆けこんできた。
「光希さん、もうかけましたか?」
「番号がわからなくて」
「ああ、そうでしたね。今かけます」
父様は何度もボタンを押し間違え、ようやく正しい番号を押し終えると、受話器を耳に当てて待った。
――幾ら待っても応答がないらしく、何度かけ直しても同じだった。
苦々しい表情で首を振りながら、父様は別のところへかけ直したようだ。
父様が魔界で知り合った友人から聞いた内容は、次のようなものだった。
穴は魔界まで続いているが、サタン様の力によって、被害の出ない荒野の低地に流入する海水を移動させている。かねてから魔界に海が欲しいと言っていたサタン様が、その予定地への海水供給路建設を命じたので問題ないだろう。被害者の報告も入っていない。
魔界に海が欲しいとは、気まぐれなサタンらしいが、地上の海が干上がったりしないんだろうか? なんて心配しつつも、被害者なしの報告に俺達は胸を撫で下ろしていた。きっとサッちゃんは出かけていただけだったのだろう。父様と俺はそれぞれの持ち場に戻った。
自分の持ち場に戻った俺は、何か忘れている気がして考えると、それは、さっきの地震そのものの原因を確かめていないということだった。俺がもう一度テレビを見にいこうと仕事場のドアを開けると、ミカちゃんが立っていた。
「うわっ! ……やあ、ミカちゃん。怪我はない?」
ミカちゃんは問いかけに答えず、顔面蒼白で立ち尽くしている。