天界3
「こんにちわ」
「やあ、こんにちは」
「座ってもいい?」
「ああ、勿論」
女の子はミニスカートを両手でかばいながら、俺の横に、脚を伸ばして腰を下ろした。歩き疲れたのか、楽しげなカウントとともに前屈運動をしている。効き目あるのか? と思うような緩いストレッチをしている女の子だったが、純白のキャミソールから、控えめな胸の膨らみを持ち上げるシンプルな布製品(こちらも同色)が見え隠れしたので、慌てて快晴の空に視線を移した。
俺は婚約指輪がはまった薬指を握ったり離したりしつつ、口の中に残っているサンドイッチを飲みこんだ。
「あなたは一人で来たの?」
女の子が首を傾げて俺の目を覗きこむ。日の光を反射して輪っかを作っている黒髪が、サラサラと重力に引かれ、新鮮なフルーツみたいな香りがした。
「いや、三人で来たんだけど、カップルの邪魔しちゃ悪いと思って退散してきたんだ」
「へえ。カップルさんか。羨ましいな〜」
「君は?」
「あたしは一人。去年職場のパーティでこの辺りに来てからお気に入りで、たまに歩きに来るの」
「そうか、いいところだもんな。そうそう、俺は光希、君は?」
「あたしはミカって呼ばれてるわ、みんなからは」
「へえ、ミカちゃんか。そうだ、これ食べる? カップルの彼女の方が手作りしてくれたやつなんだけど、ちょっと多いからさ。なかなか美味いよ?」
「いいの? じゃあ一つちょうだい」
ミカちゃんにサンドイッチを手渡すと、
「いただきま〜す」
と、一口かじって、とても幸せそうな表情を浮かべた。
あまりにも美味そうに食べるので残りの全部を手渡すと、びっくりしたみたいに大きな瞳から、キラキラ星が聞こえてきそうな喜びの表情で礼を言う。
――ミカちゃんが最後の一切れを食べ終えようとした時だった。
「んん……」
「つっかえたの?」
必死に訴える目をするミカちゃんに飲みかけのペットボトルを渡してやると、一口飲んで落ち着いた。
「ありがとう、苦しかった〜」
サッちゃんみたいな気の強いわがまま姫もいいが、こういう飾らない女の子ちゃんも捨てがたいな、なんてことを考えながら他愛もない会話をしていると、ミカちゃんの視線が俺の左手、薬指辺りをロックオンした。
「光希君、さっきから気になってたんだけど、それって」
「ああ、婚約指輪なんだ。おっかない彼女から送られたね」
「そうじゃなくて、その紋章……」
「え?」
「あなた魔界人なの?」
「あ、いや、その」
俺はとっさに左手を隠した。
「隠すところが怪しいわ。そんなものを大事に着けているなんて、魔界人なんでしょ? 白状なさい!」
ミカちゃんは急に激昂し、冷たい怒りで血の気が失せたように、顔が青白くなってゆく。
さっきまでの愛らしさが嘘だったかのように、据わった目で俺を見つめるミカちゃん。か細い背中から、小柄なミカちゃんには大きすぎるくらいの白い翼が現れた。
「光希君、いい人だと思ったのに。あたしを騙したわね! この悪魔野郎!」
「ま、待ってくれ、ミカちゃん」
「気安く呼ばないで! 気持ち悪い。悪魔の口があたしの名前を発音するなんて許せない、寒気がするわ!」
ふと思い出したようにミカちゃんは目を伏せた。
「……いやだ、あたしってば悪魔の食べ物を……死んじゃう……あたし死ぬんだわ……」
ミカちゃんはひざまずき、息も絶え絶えに祈りのポーズで天を仰ぐ。
「……あたしが愚かでした。蛇の目をした男の仕掛けた罠に……こうも容易く(たやすく)引っ掛かるなんて……どうかこの者を呪ってください。そして、かつてエヴァになさったようにあたしを……覚悟はできております」
ポロポロと後悔の涙を流すミカちゃんを眺めていたくもあったが……。
「やっぱり怖いよ……お爺ちゃん……許して……」
魔族一人にここまで取り乱す子が、追放を甘んじて受け入れる覚悟などできるわけがなかった。
「あれは天使が作ったものだから、なんともないって。大体、サンドイッチの一つや二つで大げさな……」
「ほんと!? じゃあ、あたし死ななくていいのね! 追放されずにすむんだわ!」
俺の手を握り、無邪気に跳ね回るミカちゃん。だが、すぐに凶悪な表情を取り戻し、ポケットからハンカチを取り出して手を拭う。
「今回だけは見逃してあげるから、さっさと蛇の穴に逃げ帰るがいいわ。ところで、さっきのサンドイッチとお水はどこから盗んだの? あたしが弁償しておくから、正直に言いなさい」
「ちょっと待て、俺は盗みなんかやってない。お世話になってる天使のお姉さんからもらったんだよ」
「そっか……。そうやって嘘までつくのね。もう許せないわ」
「君も天使なら少しは人を信じたらどうなんだ? 魔界人も天界人も、それぞれの意思を持った同じ生き物じゃないか。君は差別主義者なのか?」
「だって、お爺ちゃんが言ってたもん! 魔界の汚らしい奴等と口をきいちゃだめだって! あたしも人なら信じるわ! あなたが悪魔じゃなくって人だったなら!」
「君はお爺ちゃんが言うことならなんでも正しいと思うのか? 自分の考えってものがないのか?」
「そうやって、あたしを誑かして(たぶらかして)魔界に堕とそうって魂胆なんでしょ? あたしを手込めにして、無理矢理ハーレムに連れていく気なんだわ。変態! 馬鹿! 悪魔!」
「君は何をそう、先走ってるんだ?」
「問答無用!」
ミカちゃんの膨らみ続ける妄想を具現化したような、恐ろしく巨大なオーラの塊が俺を襲う。
「危ないって! 当たったらどうなると思ってんだ!」
「消え去るのよ。だって、そのつもりだもん」
魔界人の俺からしたら、ミカちゃんは敵と言えなくもないが、父様やガブリエル様の仲間であるところの天使を攻撃する気にはなれない。それに、こんな可愛い女の子を冷酷に斬り付けるなんて、人でなしみたいな真似をできるはずがなかった。俺も一応、翼と剣で武装したが、これは防御のためだ。
「恐ろしいわ。なによ、その真っ黒な翼。それに、その剣の柄。乾燥した何かの骸みたい。ばっかじゃないの? ああああああ、きーもーちーわーるいいい!」
そう言ってミカちゃんは、自分の身体を抱き締め、地団駄を踏む。
ミカちゃんは喋っている間、少し手がお留守になる傾向があったが、その攻撃が一度始まると、威力、スピード、正確さの三拍子そろった凶悪な戦闘能力を発揮した。この子、いったい何者なんだ?
山が穴ぼこだらけになりそうな攻撃を辛うじてかわしつつ、挑発したりなだめたりしてミカちゃんを喋らせるよう仕向けていると、背後から声がした。
「ちょっと、光希君、ミカ! 何やってるのよ?」
振り返ると、熱々カップルが手をつなぎながらも慌てて走ってくるのが見えた。
ミカちゃんの凶悪な表情が、瞬時に可憐な少女のそれに戻る。
「あ、ガブちゃん、メッティも。デートしてるの? いいな〜」
ミカちゃんは、つながれたカップルの手を上から握って、ピョンピョン飛び跳ねた。
「それより、あなたどうして光希君を襲ってるわけ?」
「え? ガブちゃん、もしかしてこんな汚い奴と知り合いなの?」
「知り合いというか、うちに居候させてるのよ。わたしのお気に入り君」
「い、いや〜。不潔、不潔よ!」
ミカちゃんは軽蔑したような目をしてあとずさる。
そこへ父様が割って入った。
「ミカ、また君はそうやって人を人種で判断する。良くないですよ。大天使たるもの、常に公平な目をもって人に接しなければ」
「だって、お爺ちゃんがね、あたしに言うのよ? 魔族となんか口をきいちゃだめだって。怠惰な病気がうつるって」
ミカちゃんは長い睫毛を音がしそうなほど瞬かせ(しばたかせ)、父様に上目づかいする。
「嘘はいけませんよ、ミカ。あのかたがそんな差別主義者のようなことを言うものですか」
「そうよ、ミカ。嘘はだめ。お尻叩くわよ」
ガブリエル様が右手を上げて見せる。
「だって〜、言ったんだもん。ほんとだってば!」
華奢な白い脚をじたばたさせて、必死の抗議をするミカちゃんにガブリエル様が近付くと、ミカちゃんは、
「ひっ!」
と、あとずさりし、ピューっと空を飛んで逃げ去った。その後をガブリエル様がおっかない顔で追いかけた。
「あの子の差別主義には困ったものですね。怪我はありませんか? 光希さん」
「ええ、なんとか。それにしても、あの子はいったい?」
「天使長ミカエル。彼女の名です。我々はミカと呼んでいます」
「天使長ってことは、天使の中で一番偉いってことですか?」
「そのとおりです。将来は神の右腕となって天界を背負って立つべき者なのですが、精神的に未熟で、危ういところが多々あるのです。同じ大天使として、我々は彼女の保護者兼、教育係といったところでしょうか」
「じゃあミカちゃんの言う、お爺ちゃんって」
「神です。今は眠りについていて、彼女が言ったようなことはおろか、意思の疎通も一切できないはずなのに」
「父様は娘に手を焼く運命にあるようですね」
「まあ、育っていく娘達を見届けることのやり甲斐に比べれば安いものですよ。父親の苦労なんて」
「それにしても、今日はビシっといきましたね。見違えましたよ」
「わたしも閻魔大王に言われてから少し反省したのですよ。やはり娘達に甘い顔ばかりしていると、結局娘達のためにならないってね」
なんてことを話していると、ガブリエル様がミカちゃんの耳を引っ張りながら戻ってきた。
「ガブちゃん、痛いってば〜。耳取れちゃう〜」
「さあ、光希君に謝るのよ、ミカ」
「やだ〜。こいつ悪魔だもん」
「明日座れなくなっても知らないわよ?」
ミカちゃんは小さなお尻を両手でかばう。既にたっぷり打たれて(ぶたれて)きたのだろう。
「ご、ごめんね。光希君。気持ち悪いとか言って」
「いや、いいんだよ。気にすんなって」
ガブリエル様がミカちゃんの右手をとって、俺と握手するよう促すと、一瞬あとずさりしたものの、俺の手をおずおずと握ってくる。俺が手を握り返すと、ミカちゃんの腕がプツプツと粟立って(あわだって)きた。
「……いいやああ! 今、あたしの手を握っていやらしいこと考えたでしょ? そういえば、そのペットボトル……。あたしを想像しながら舐めまわす気だったのね? 変態! 馬鹿! スケベ!」
ミカちゃんは転がっていたペットボトルを拾い、小さい舌をべーっと出して見せると、矢のような速度で飛び去っていった。二人の教育係は、やれやれと両手を上げて、顔を見合わせている。
ゴキブリ同然に毛嫌いされた俺だが、なんだか愉快な気持ちでサイドカーに揺られ、家路についた。