魔界16
「坊主、おまえはなかなか骨のある野郎のようだ。この俺様にチラッとでも攻撃を当てるとはな。この傷、高くつくぜ?」
閻魔が自らの白いポロシャツを引きちぎると、意外と筋肉質な上半身が露わになった。ポロシャツの袖で隠れていた肩の辺りに、一筋の切り傷がついていた。
「おまえの考えてることだってわかるぜ。格好よく俺を倒して、サッちゃんのところに帰りたいんだよな? だが、そりゃ無理だ。なぜなら、おまえにやられるほど俺は弱くないし、その望みを叶えてやるほどお人良しでもない」
「それは残念だな。で、俺を殺すのか? それとも別の好条件でも提示するか?」
「おまえ、俺が怖くないのか? 地上のおまえの国で言われてたように、舌引っこ抜いてやろうか?」
「やりたければやればいい。あんたに勝てるとも思えないが、惨めに逃げる気はない」
「命が惜しくないのか?」
「敵のあんたに心配されるほど、俺は卑怯な奴じゃない」
「そういえばおまえ、地上では随分と命を粗末にしてたな? それは今もあまり変わってねえようだ。そのいきがった口をきけないようにしてやる!」
手に大きな太刀を発生させた閻魔が俺に斬りかかってくる。
俺はとっさに剣で受け止めた。
「おまえは今、何故受け止めた? 生きたいからじゃないのか? さあ、みっともなくサッちゃんのところに逃げ帰ってみろよ?」
「黙れ」
押し合う刃が火花を散らす。必死で食い止めようとする俺をせせら笑うかのように閻魔は言う。
「おまえの寿命をいじったのは俺だぜ? 命がいらないなら、さっさと回収してやろうと思ってな」
辛うじて一旦距離をとった俺に、閻魔が迫ってくる。
迎え撃つ俺は、閻魔に斬りつける。
が、虚しく空を斬ってかわされた。
空いた俺の脇腹を、閻魔は太刀の柄で突いた。
呼吸困難に陥った俺は、その場に座りこんだ。
「命を軽んじた罰はみっちり受けてもらうぜ」
俺の顔面を蹴り倒した閻魔は、馬乗りになって俺の顔を殴打する。
「どうだ? 痛いか? それはおまえの身体が生きたいって叫ぶ声だ。魂に刻みこんでおけ」
「……殺る(やる)ならさっさとやれ」
「てめえ、まだ言うか?」
殴打の激しさが増し、気が遠くなってきた。
気絶しかけたところで冷たい水を浴びせられる。
「起きろ。お仕置きはまだ終わってねえぞ」
目を覚ました俺を再び閻魔が殴打し続けた。
――気を失っていたようだ。
目の前に地面の玉砂利が見える。
痛みを感じて足を見ると、俺の置かれた状況がわかった。
社の庭の木に、足の親指で逆さ吊りにされていた。吊られている縄をオーラで焼き切ってやろうと思ったが、無駄だった。父様を縛ったのと同じく、オーラを封じる特殊な縄のようだ。頭に血が上って、心臓が脈打つ度に破裂しそうな痛みが襲う。目玉が割れて飛び出しそうだ。殴られ続けた顔も、おそらく原型をとどめていないだろう。身体中がずっと痙攣し続けている。
「目が覚めたか。おまえは殴ったぐらいじゃ懲りねえようだから、そこで千日もぶら下がって反省しとけ。俺はしばらく出かけるからな。あばよ」
「さっさと殺せ、この野郎!」
閻魔は首を振って去っていった。
――何度気を失っただろう。
目覚める度に猛烈な頭痛に吐き気を催し、嘔吐き(えずき)続けた喉は痛みを通り越して麻痺している。魔族の身体からは吐き出すものなどなくて、嘔吐感だけが延々と続いた。足の指も、ずっと続く痙攣で疲労骨折したのか、感覚がなくなっていた。視覚は、だいぶ前に失った。目玉が破裂したのかもしれなかった。俺の嘔吐く音だけが、広い庭にひたすら響いていた。
――あいかわらず嘔吐きながらも、考えが浮かぶようになってきた。人はどんな状況にも慣れるものらしかった。
俺は、どうなるんだろう?
死ぬ?
この状態が終わるなら、死は喜びだ。
死ぬのは怖くない。
奴もいずれは俺を殺すだろう。
でも会いたいな。
もう一度だけでも。
サッちゃん。
――玉砂利を踏む足音が聞こえてきた。
「坊主、サッちゃんに会いたいか?」
穏やかな口調だった。
「……会い……たい」
「会いたい人がいるってのはいいことだと思わねえか? おまえの場合はスケベ心か?」
閻魔が大声で笑う。
「おまえは死に急ぐが、サッちゃんに会えなくなってもいいのか?」
「それは……いやだ」
「おまえみたいな生意気なガキには、幾ら言っても命のありがたみなんてわからねえのかもな。とりあえず女の尻でも追っかけて、楽しく生きてみろ。そのうちきっとわかる」
太刀を抜く音がして、身体が落下する感覚があった。
グシャっという音がした。
首の骨が折れたようだ。
「お、悪い」
閻魔が俺に触れると、視覚が戻り、身体じゅうが元どおりになった。
「これが最後だ。もう一度だけ聞く。まだ死んでもかまわないか?」
「……生きたい」
「それでいい」
「殺さないのか?」
「お灸を据えてやっただけだ。とにかく、何があっても命を放り出すような真似は二度とするな、約束だぞ?」
「舌を抜かれたら、サッちゃんとキスできなくなるからな」
「その調子だ」
閻魔が大声で笑うのにつられて、俺も笑った。閻魔の笑顔に不思議な懐かしさを感じたのは何故だったのか。
「ところで、おまえには特別コースの注文が入ってるぜ。行き先は行ってのお楽しみにしといてやる」
特別コース。注文。結局閻魔は誰も殺さなかった。この作戦の目的はいったい……。
「そこに行く前に訊きたいことがある。ここに俺達が来た時、『あいつが送りこんだ』と言ったな? それは特別コースとやらを注文したのと同じ奴か?」
「そうだ」
「サタンだな? で、その目的は? これだけ実力差が明白なあんたを、本気で倒そうと立てた作戦とは思えない」
「おまえにわかる資格があれば、いずれわかる。また会うかもな、坊主」
閻魔に指差された俺は気が遠くなって、眠りに落ちた。