魔界15
地獄の空は魔界の闇空よりも少しだけ明るく、赤い陽炎のようなものが立ちこめていた。まるで空全体が燃えているようだった。ここが魔界と同じく地底だという理由以外にも、強烈な閉塞感を感じさせるところだ。
漆喰の塗られた白い壁に瓦の載った塀。真ん中の頑丈そうな門扉は、俺達が来ることを予想していたかのように開け放たれている。警戒感のなさに、かえって不気味な何かを感じつつ、俺達は白い玉砂利の庭園をジリジリと進んでいった。
間近で見ると、見上げるほどの巨大な社は古い木造建築だった。
門からまっすぐ歩いてくると、時代劇で名奉行が桜吹雪を見せつける『お白州』によく似た場所に辿り着く。建物自体が巨大なわりに、そこは拍子抜けするほどに普通の人間用サイズだった。
板張りの縁側から続く畳敷きの部屋の奥から、中肉中背の平凡な地上人のような男が歩み出てくる。見た目の年齢なら五十歳ぐらいといったところか。ゴルフ帰りの部長みたいなポロシャツ、スラックス姿のそいつは言った。
「来たな。まあ、こっちに来て茶でも飲んでけよ」
パパが代表して訊ねる。
「おまえが地獄の長、閻魔大王か?」
「まあ、そう呼ぶ奴もいるね。茶が冷めるぞ」
閻魔は涼しい顔をして奥に引っこむと、親戚のおっちゃんみたいに気楽な様子で、手招きしている。俺達は短い作戦タイムを取ったが、突っ立っていても仕方ないという結果に至って、手招きに応じた。
社の内部に上がると、大きな卓袱台の上に熱いお茶が用意されていたが、さすがに敵地で出されたものを無防備に飲む者などいなかった。
「おまえらの中で、俺と組みたい奴はいないか? はたらきに応じて地獄の領土と地位をくれてやるぜ。それに、これから俺は魔界は勿論、地上も天界もいただいてやろうと計画中なんだ。絶対、魔界にいるより楽しいぜ?」
楽しいこと好きの魔界人だから、楽しいと聞いてつられる者が出るのでは? と少し冷や冷やしたが、さすがに誰も名乗り出ない。
「なんだ、つまんねえな。じゃあ、庭に出な。戦いにきたんだろ?」
言いなりになるのも癪だったが、俺達は閻魔を追って庭に出る。
「どっからでもかかってこいよ」
閻魔がそう言ったのを合図に、三十余名の精鋭達がオーラ武器や光弾で襲いかかる。
「あいつが送りこんできたからには、どれほどの奴等かと期待してたんだが、がっかりさせてくれるねい。あらよっと」
こちらの攻撃をものともせず、軽いかけ声とともに指差して、仲間の一人を消し去った。オーラすら見えなかった。
「心配するな。今の奴は魔界に送り返してやっただけだ」
そう言った閻魔が指差した仲間を次々に消してゆく。ただ、不思議なことに消えない者もいて、父親コンビと俺を含む十名ほどが残った。
「へー。おまえら帰りたくないのか? おまえらの中に、ちょっとでもここから逃げ出したいって気持ちがあれば、すぐ帰れたのにな。勇敢なばっかりに損したな」
仲間を誑かして(たぶらかして)魔界へ送り返したと聞かされ怒り心頭の俺達は、死力を尽くして閻魔に攻撃を浴びせた。
俺達の攻撃をヒラリヒラリとかわしながら、閻魔が仲間に話しかけている。
「おまえさ、ガキと嫁さん放ったらかして死ぬのがカッコイイとか思ってるのか?」
話しかけられた仲間が消えた。
「おまえ、本当は魔界より地上が好きなんだよな? 人間にしてやるから地上に帰れよ」
そう言われた仲間もまた消え去った。
どうやら閻魔は話しかけた者の欲望を揺さぶり、誘惑に負けた者を魔界やそれ以外の場所に送り返しているらしい。
――閻魔の絶妙な揺さぶりに、仲間達はそれぞれの希望の地に送り返され、残るは我が家の三人のみとなった。
「おまえは嬢ちゃんを拾うまで結構遊んでたようだな。あの頃に戻りたくないか? そのサッちゃんって娘を嫁に出すまで待ちきれないよな? そこの坊主がグズグズしてるもんだからさ」
「うるせえ、俺は確かにどうしようもねえ遊び人だったが、サッちゃんに出会って、いつまでもこんなことはしてられねえと改心したんだ。だから、サッちゃんを嫁に出してもあんな生活には戻らねえ!」
「サッちゃんに軽蔑されたくないもんな? おまえ本当はサッちゃんに惚れてんだろ。だが、惚れたばっかりに手出しもできず、サッちゃんの言いなりになってる。違うか?」
「野郎、言わせておけば!」
パパは閻魔に自慢の大斧を振り下ろしたが、あっさりとかわされてしまう。
大量の玉砂利が虚しく舞い上がった。
「サッちゃんに打ち明けて嫌われるような危険を冒すより、幸せを願ってやるほうが傷つかずに済むもんな? そこの坊主にサッちゃんをくれてやるって気持ちに嘘はないようだが、サッちゃんそっくりの女を集めたハーレムが欲しくねえか? 本物のサッちゃんよりも従順で、おまえの言うことをなんでも聞く娘をわんさか用意してやるぜ?」
パパが消えた。閻魔が言ったことが本当なら、いずれパパとは話し合う必要があるだろう。だが、今はそれどころではない。
閻魔は父様にニヤリと微笑みかける。父様は一瞬目を閉じ、冷徹なまでの無表情になった。
「さすがは大天使ってとこか。精神にそれだけ強固なバリアを張られたら、俺様も心を読み取ることはできねえ」
喋ってばかりだった閻魔が父様を殴りつける。一方的に殴られ続ける父様だが、身体の周りにもバリアを張っているのでダメージを受けてはいないようだ。
「防御だけは一丁前だな。なら、これでどうだ?」
閻魔は右手で父様を殴打しつつ、左手からハードなエロ本を物質化させた。それを父様の顔面にこれでもかとばかりに押し付ける。
「堕落に対する鍛錬は怠っていないつもりです。無駄ですよ」
「そうか? よく見てみろ? 誰かに似てないか?」
閻魔は殴打を止め、父様にエロ本を見せつける。が、父様は目をつむっているので効果がない。
「おい坊主、こっちこいよ。まだ嫁さんの身体を見たことねえんだろ? こりゃすげ〜ぞ。華奢なくせにこのムッチリ感……こりゃ、たまらん」
俺も父様を見習って目を閉じたが、逆効果だった。サッちゃんの夢を思い出してしまって胸が締め付けられる。慌てて目を開いた時には閻魔が両手にオーラをたくわえ、俺を狙っていた。
「あばよ、坊主」
閻魔の右手から放たれた光弾を剣で辛うじて受け止めたが、弾き返すことも受け流すこともできず、身動きがとれなくなってしまった。ズルズルと身体が後方に押され、一瞬でも気を抜けば光弾に飲み込まれそうだ。
閻魔が左手の光弾を振りかぶる。
「光希さん! 危ない!」
間一髪、父様が二発目を受け止めてくれたが、その隙に閻魔は父様の背後に回り込み、父様に縄をかけた。閻魔が指を鳴らすと、二つの光弾はあっさり消え失せた。
「やれやれ、手間かけさせやがって」
「オーラを封じても私の心に干渉などできませんよ」
父様を縛っている縄がオーラを無力化しているらしいが、父様は涼しげな無表情のままだ。閻魔はそれでも、ニヤリと口元を歪ませる。
「おまえは大天使から堕ちて魔界にいるってわけだな。魔界での怠惰な暮らしに飽き始めてるのか。天界の職務が恋しいとは、まったく酔狂な奴だぜ。だが、娘と一緒にいたいし、魔族の徴を消せない限り天界に帰ってもつらい目に遭う。天界では根強い魔族差別があるからな。その辺りで気持ちが板挟みになってるってわけだ」
父様が一瞬狼狽した様子を見せる。
「その縄はゆっくり話す時間を確保しているだけだ。残念だが、光弾を防いだ時に隙が出来ていたようだぜ?」
父様はそれでも無表情を保っている。
「ところで、随分昔のことのようだが『わたしは父様のお人形じゃないの!』なんて言われたのが相当こたえているらしいな? 厳しく叱ったこともなく、目の中に入れても痛くないほど溺愛して育ててきたんだろ? その娘が何故そんなことを言ったんだ? 魔族が誘惑したからか?」
「それは……」
その先が続かず、父様は黙り込んだ。
「甘い顔ばかりしていたくせに、過干渉で危険や不浄な物事には一切近寄らせない。言ってみれば、常に真綿の足枷をかけていたようなもんだ。娘からすれば、さぞ息が詰まっただろうよ」
「しかし、それは!」
「明るく正しい人間に育てたかったか。娘はそれを望んでいたのか?」
「……わかりません」
「いや、おまえはわかっているようだぜ? 娘には安定した家庭が必要だった。それを土台にのびのびと冒険させてやって、間違った時にはガッチリ叱ってやる。そんな育て方をするべきだったと気付いているんだ。過ちを認めるのが怖いだけなんだろ?」
父様が縄を解こうと闇雲にもがく。俺は手助けに入ろうとして、閻魔に殴り飛ばされた。
「娘は坊主にくれてやるんだろ? いい加減、父親から離れて自由になりたいんじゃないのか? 徴を消してやるから天界に帰れよ。いつまでも若いカップルにくっついてちゃ野暮ってもんだろ?」
「あなたは、いったい!」
閻魔が縄を解くと、父様は頭を抱えてうずくまり、やがて消え去った。
残るは俺一人。