地上2
――本日の会議も滞り(とどこおり)なく終了し、仲間達が帰っていくと、俺はたまらない眠気を感じてベッドに入った。
――例の夢だ。
女の子が俺にのしかかっている。俺は右手をのばし、豊満とまではいかないが形よく十分な大きさで手に収まる女の子の物体をつかんだ。
マシュマロ。マシュマロ。……あったか〜い水風船……やわらか〜いな……。
「ちょっと、お放しなさいな」
その声に目を覚まし、反対の手で目をこする。赤く光る瞳が俺をにらんでいる。
「……なんだって?」
胸に感じる重みと体温。シルエットを上から下まで、下から上まで眺めていると、再度迷惑そうな声を浴びせられる。
「さっさと手を放しなさい、無礼者」
俺の手は現実の女の子にも夢と同じことをしていた。
「ご、ごごごめん!」
柔らかな名残を惜しむ手に今生の別れを告げさせる。
「君はいったい……?」
「レディに名を訊ねたい(たずねたい)のなら、先に名乗ってはいかが?」
レディ?
「俺は光希。大沢光樹。で、君は?」
「わたしはサキュバス。若い精気を吸い取って力に変える『魔族』よ」
ヘッドボードに取り付けられた読書用のランプを点す(ともす)。やっぱり夢で見た女の子そのままだ。こんなに可愛らしい物体がこの部屋に訪れるとすれば、血迷ってアニメキャラの等身大フィギュアかリアルな空気嫁を購入した場合以外には有り得ないと考えていた。だがしかし、現実はどうだね? ああ、神様だかなんだか知らないが、とうとう俺に『彼女』をプレゼントしてくれたのですね。それもとびっきりの美少女を。アーメン。そう、これこそ真実ですよ。でなければ困りますよ。むしろ真実にしてくださいよ。ハレル〜ヤ。ナンマンダブ。臨・兵・闘・者・皆……と、これは悪魔祓い(あくまばらい)だったか……ん、ちょっと待てよ?
「……魔族とか言った? 魔族っていうのは、いわゆる悪魔と一緒?」
「そうよ。悪いかどうかは受け取りかた次第だけど」
「なんだそれ? 君はその、ちょっと可哀想な感じの子なのか?」
「人間の哀れみを受けるほど落ちぶれてはいないわ」
「じゃあ、寝てる男の一人住まいに侵入して、いったいどういうつもりだ? うちには盗るものなんてないぞ?」
「わたしを泥棒呼ばわりするとはいい度胸ね。気に入ったわ。とにかく、わたしはあなたに取り憑く(とりつく)ことで力をたくわえる悪魔だから。よしなに」
サキュバスちゃんはベッドからフワリと飛び降りると、ドーム状に膨らんだ黒いスカートをつまんで、貴婦人みたいなおじぎをした。
翌日。
俺は学校にもいかず、コタツに入ってサキュバスちゃんと話していた。テレビでは午後のワイドショーをやっている。
俺はあのあとすぐに眠ってしまったらしい。サキュバスちゃんに目を見つめられて、夢の続きのキスでもしてくれるのかと思ったところまでしか記憶がない。
「なあ、おまえここに居座るつもりか?」
「悪い?」
「女の子と二人暮らしってのも悪くないが、やっぱだめだろ」
「勘違いしてはいけないわ。あなたに選択肢はないのよ」
「気の強い女だな。俺だっておまえみたいな細っこい女一人くらいたたき出せるぞ」
目の前にいたはずのサキュバスちゃんが消えた。
「ふふふ。やってみる?」
背後から声がした。
「おまえ、いったい何者なんだ?」
「言ったじゃない。悪魔よ。あなたお馬鹿さんなの? ところで、『おまえ』って誰のことかしら? 無礼な口をきくと食べちゃうわよ?」
「おまえはおまえだろう」
「どの口がそういう無礼をはたらくのかしら?」
首にサキュバスちゃんの細い腕が巻きつけられ、もう片方の手が顎をつかんだ。要するにスリーパーホールド・ウィズ・ほっぺグリグリである。袖に満載されたフリルだかレースだかの装飾が、顔に当たってサワサワする。薔薇の花びらをシロップで煮詰めたような甘ったるくて心地よい香りが漂ってきた。夢で何度も味わった柔らかい膨らみが、体温を伴って背中に押しつけられている。
俺死ぬのか? 大して面白くもない人生だったが、こんなにもあっさりと。まあいいや。なんだかとっても気持ちがいいんだから……。父さん、母さん、先立つ不孝をお許しください。さようなら。
「間抜けな顔ね。まだ死なせてなんてあげないわよ?」
サキュバスちゃんはいつのまにかベッドに腰かけていた。
「なあ、おまえ人間を食うのか?」
「またおまえと言ったわね? 若いのに死にたいの?」
「なら、なんて呼べばいいんだよ? サキュバスちゃんなんて長い名前、呼びづらいじゃないか。呼び捨てもだめなんだろ? どうせ」
「そうね、あなたに呼び捨てにされる筋合いなどないもの」
「じゃあ、どうすんだよ?」
サキュバスちゃんは胸を張って誇らしげに言い放った。
「サッちゃんとお呼びなさい」
サチコっていうのか? ほんとはね?
「ふざけてるのか? 君みたいに恐ろしげな子がサッちゃんって……」
笑いを噛み殺すのに苦労した。
「おかしいかしら? 魔界のみんなはそう呼ぶわ」
誇らしげな顔がシュンとしおれた。
「い、いや、おかしくないよ。可愛くていいと思う」
しおれた花はすぐ満開になった。お世辞の一つぐらい言っても罰は当たらないだろう。まあ、命は大事だ。
「ありがとう。わたしも光希って呼ぶわね。そのほうがいいでしょう?」
俺を呼び捨てにする筋合いは……あるんだろうな、たぶん。
「ああ。なんか彼女みたいでいいな」
「百年早いわよ。そうそう、わたしは元はといえば光希を食べにきたのよ。若い男はエグい味がするから、しばらくは精気を吸い取るだけで我慢するけど」
「食べるって……サッちゃんは食人鬼なのか?」
「そう呼ばれたことはないわね。でも悪魔が人間を食べるのは珍しいことではないわ。せいぜい口のききかたに気をつけなさいな。三度目はないわよ」
「一度目はいつだよ?」
サッちゃんは手を胸の前で交差させ、咎める(とがめる)ような顔をした。意地悪そうな顔がまた魅力的である。
「昨夜何をしたか覚えてるでしょう?」
昨夜、昨夜……。母さんに乳をもらって以来、涙の再会を果たしたアレのことだよな、たぶん。そうだ、俺はとんでもない美少女の胸を触ったほどの男なのだ。もはやモテナイ軍団から半歩抜け出ている。半分大人になったと言っても過言ではなかろう。こうなったら「皆さん、わたくし大沢光樹はこんなに可愛い女の子のおっぱいを触ったことがあります!」と、街頭に立って大声で宣言してやりたいぐらいだが、捕まるからやめておこう。
「ちょっと、なにをニヤニヤしているの? おかしな子ね」
「い、いや。あれは事故だ。元はといえば、サッちゃんが誘惑したんじゃないか」
「なら、事故にも気をつけることね。変な気を起こしたら、エグくても我慢して食べちゃうんだから。あーあ、お腹が空いてきちゃったわ」
と、サッちゃんは人のよさそうな笑顔で言った。黙ってれば可愛いのにな、天使みたいに。なんて余計なことを言ったら食われるかもしれないので、口をつぐむとしよう。