魔界4
サッちゃんによく似た幽霊は俺と目が合うとニマーっと笑った。
「や、やあ。サッちゃん……だよな? お邪魔してま……」
幽霊は俺の足首をつかんだままピョコンと跳び上がったかと思うと、猛烈な勢いで地下の方向へと俺を引きずりこんでゆく。どういうわけか、床を次々にすり抜けた幽霊と俺は、地下牢を思わせるような薄暗く、積み上げられた石の壁がむき出しになった部屋にいた。
……なんか、白骨死体のような物体が、あちこちに転がってるんですけど、気のせいでしょうか?
俺の脚を解放した幽霊が、ひんやりと湿った空気の中を飛びまわる。
やがて飛ぶことに飽きたのか、クスクス笑いながら俺の目を見つめて、両目から怪しい光線を放った。俺の身体は硬直して身動き一つできなくなる。
「サッちゃん、冗談はやめてくれ! 俺が悪かった! 謝るから、な、な」
手を合わせて許しを乞おうにも、身体が言うことを聞かない。
幽霊は深いエコーをかけたような不気味な笑い声を時折上げながら、ゆっくりとにじり寄ってくる。その手には、いつのまにか死神が持っているような大鎌が握られていた。
「サッちゃん! 冗談になってないって! やめてくれ!」
幽霊は、大鎌をプロゴルファーのような美しいフォームでバックスイングして、間髪入れずに予想される最悪かつ唯一の行動をとった。俺の視界は目まぐるしく回転し、止まったところで目を上げると、そこには首のない俺の身体が立ち尽くしていた。
「うわああああ!」
俺が首を刈られた驚きと痛みを腹いっぱいの悲鳴に乗せて表現していると、いや、腹は今あっちか。それはともかく、軽快な着地音とともに厚底の黒いストラップシューズが見えた。
こっちのサッちゃんは、いつもどおり黒いロリータ(サッちゃんいわく、退廃の精神を伴わない場合は黒くてもゴスロリと呼ばないそうだ)を着ていて、スカートをフワフワさせながら俺に近付いてくる。
「騒々しいと思ったら何やってるのよ、光希。奥のお部屋で着替えしていたから念のためにゴーストを仕掛けておいたんだけど、本当に引っかかっちゃうなんて馬鹿ね。あーあ、首を刈られちゃって」
サッちゃんはしゃがみこんで、俺の額を突っついた。視界が一回転半して石の天井が見えた。
サッちゃんが俺を拾いに立ち上がる。
「あ、いいもの見えた」
サッちゃんは色の統一を重視するらしい。
「あ、ちょっと! ……馬鹿」
顔を赤らめたサッちゃんは、俺の首を石の床に伏せるように置き直す。
「わたしの言いつけを無視するなんて、折檻してあげなくちゃ。……ねえ、光希は何が怖い?」
「俺に怖い物なんてないさ! むわっはっはっは」
目の前の床に邪魔されて、モゴモゴと強がる俺。
「暗闇なんてどうかしら?」
「それはサッちゃんだろ?」
「ちょ、ちょっと、どうして……?」
一番最初に自分の苦手を言ってしまうとは……かわゆい。
「むっふっふ。図星だったようだな、サキュバス君!」
「ふ〜ん。そういう態度を取るのね」
クスクス笑いが石の壁に反射している。
サッちゃんの両手に包まれる感触があって、俺の頭部は正常な方向、つまり首の付け根を下にして置き直された。サッちゃんの足が視界から消える。浮かび上がったようだ。
「な、なにをするつもりなん……ですか?」
「わたしにはね、怖い物がた〜くさんあるの。女の子ですもの。例えば……」
周囲に無数の小さな気配を感じた。それらはやがてカサカサと音を立て……。
「やめてくれ〜!」
「口を開けると……入っちゃうわよ?」
無数の気配は蜘蛛やムカデ、ゴキブリなどの虫達だった。それらが俺の顔面にびっしりと……。切り離されているはずの背筋がゾクゾクと寒気を感じ、叫びたくなるが、口を開けるのは絶対に嫌だ。
ム〜ム〜唸り続けて気を失いかけたところでおぞましい感触が消える。恐る恐る目を開けると、サッちゃんの靴が見えた。
「あらあら、泣いちゃったの? お鼻チ〜ンしましょうね?」
レースに縁取られた可愛らしいハンカチを鼻に押し付けられ、情けなく鼻をかませてもらう俺。
「光希は虫が怖いのね。覚えておくわ」
「虫が怖いとか、そういう問題じゃないだろ!」
「あらいやだ、虫嫌いじゃないの?」
「あんなにごっちゃりいたら、誰でも嫌だろ」
サッちゃんは聞こえよがしにため息をつく。なんだか楽しんでいるようだ。
「わたしの弱点を知ったからには、光希の弱点も教えてほしいの。それが公平というものでしょう?」
――そのまま俺は、ライオンや空中を泳ぐ鮫にいたぶられ、雷に撃たれ、壁から湧き出てくる血の池で溺れた。妖怪、ゾンビ、ミイラ男などのありとあらゆる化け物に襲われ、火に焼かれたりもしたが『通常どおり』の恐怖しか感じなかった。
「もう、疲れるじゃないの!」
「だったら、やめてくれよ……」
通常どおりとはいえ、怖いものは怖いし、痛いものは痛い。精根尽き果てて、自分がどこにいるのかもわからなくなりそうだった。
「仕方がないわね。素直に言えば許してあげるわ。で、何が怖いの?」
俺が唯一生理的嫌悪感を感じる物。それは……
「……鳩だ」
「ハトって、鳥の鳩?」
「ああ。神社の前で豆をやったら、大量の鳩が押し寄せてきたことがあって……」
「鳩を怖がる人がいるなんて、意外だわ」
バラバラと音がして、俺の周りに煎った大豆のような豆が散らばる。
「約束と違うじゃないか! ずるいぞ、サッちゃん!」
「あなたはわたしとの約束を一つ破ったでしょう?」
前方の暗闇から、ホロッホ〜、バサバサという音が聞こえてくる。
「た、頼む! 本当に駄目なんだ!」
「その言葉を待っていたのよ。しばらく一緒に暮らしてもらおうかしら?」
奴等が豆をついばみながら近付いてくる。首の辺りの羽毛が虹色に輝く様子がグロテスクで、どうしようもない。
鳩ってこんなに大きかったっけ? と思うほどに近付いてきて取り囲まれた時、俺は声を上げ、涙を流して笑っていた。なぜ笑っているのか自分でもよくわからないままに。
「なるほど、鳩嫌いは本当だったようね。怖い思いをしたでしょうから今回は許してあげるわ」
サッちゃんがパチンと指を鳴らすと奴等は消え去った。
「……助かりますです、はい」
これで『許してあげる』なのだから、本当に怒らせたら……。先が思いやられる。
「それにしても、わたしのゴースト程度にあっさりやられちゃうなんて、パパにトレーニングしてもらったほうが良さそうね。魔界は楽しいところだけど、自分の身は自分で守らなくてはいけないわ。わたし達だって、いつもあなたを守ってあげられるとは限らないのよ?」
「トレーニングか。それをやれば俺もサッちゃんみたいに強くなれるのか?」
「まあね。わたしの戦闘スキルはすべてパパに仕込まれたものよ。苦しいとは思うけど、暇を持て余しているならやっておいたほうがいいわ」
サッちゃんは満足げに俺の頭を撫でている。
「ところで、俺、元に戻れる?」
「あ、忘れてたわ」
生首の俺は、サッちゃんの細くて形のいい指に包まれて、身体の上に据え付けられた。傷口がピッタリと合わさるように注意深く位置の微調整が行われたあと、切断された喉の辺りにサッちゃんの手が当てられ、赤い光を放つ。
「お、元に戻った。サンキュー、サッちゃん」
「これに懲りたらもう夜這い(よばい)なんてかけてはだめよ?」
「断じて夜這いなんかでは……。ちょっと寝顔を覗いてやろうかなと、その、悪戯心で」
「どちらでもいいわ。言い忘れていたけど、地上でしたキスは例外よ。おいたが過ぎると折檻だからね」
「は、はい……以後気をつけます。ところで、アレって人間の……?」
と、俺は転がっている白骨死体らしきものを指差して訊ねた。
「アレね。我が家では地上の極悪人をパパがさらってきて食べることになっていたけど、最近は父様のお友達が力に変換される食物を密かに送ってくれているの。だから、もう人間を殺める(あやめる)必要もないわ。安心した?」
「そうか、良かった。俺に食人は無理だ」
「わたしもよ。極悪人だって生きる権利はあるんだし、かわいそうなものはかわいそうだもの」
地上でしたキスは例外……。恋人じゃないと釘を刺されちまったようなもんだな。魔界のモテナイ軍団に転入届けでも提出するか。そんなことを考えながら上る階段は、ほの暗く、長く、もどかしかった。