地上13
俺は通常どおり学校に通う生活に戻った。
サッちゃんの夢を見なくなってからは、羽が生えたように身体が軽かった。思っていたよりも力を吸われていたらしい。
砂を噛むような日常を過ごしていると、サッちゃんと過ごした日々そのものが夢だったのかもしれないという気さえしてくる。
モテナイ定例会議で俺が
「超可愛い女の子とキスまでいったけど、その子はもう外国にいっちゃった」
と、報告したところ、
「モテないからって嘘に走るなよ。哀しい奴め」
なんてあっさりスルーされてしまった。逆の立場だったら俺もそうしていただろう。
学校では、あいかわらずユリの脚なんぞチラ見して、女子達の罵詈雑言を浴びている。とはいえ、前ほどユリの脚が美味しそうには見えなくなっていた。
残りの三学期を毎日居残りし、春休みを半分返上して補講に参加することで、留年はなんとか勘弁してもらえることになった。
明日からは春休み、気の早い桜がもう咲いている。いや、あれは梅なのかな? それとも、桃? まぁ、花のことはよくわからんし、そんなのどうでもいいや。どちらにしても、ポカポカ陽気の中を下校する俺の足取りは、ちょっとだけ軽かった。明日からは補講まみれとはいえ、春休みだ。
――自宅に帰り、ドアの鍵を開けようとして、異変に気付いた。鍵が開いている。
「母さん? いつ帰ったの?」
玄関とリビングの間にあるドアが少し空いている。隙間から、テーブルの上に置かれた梅屋の手提げ紙袋が見えた。
「まさか」
ドアを開けると、そのまさかがそこにいらっしゃった。
「やぁ、光希さん。いなかったので待たせてもらいましたよ。勝手に入ったりしてごめんなさい」
湯呑みを手にして、くつろいでいた父様が俺にペコリと頭を下げた。
「いえ、いいんです。でも、こちらのかたは?」
父様の隣に尋常じゃない姿の化け物が!
じゃなくて、黒山羊のようなお顔で、上半身裸のムキムキマッチョな姿のおかたが鎮座されていた。座っていてこれだから、身長二メートル以上はありそうだ。
「いよぅ、俺がサッちゃんのパパだ。よろしくな、小僧」
「はぁ、よろしくお願いします」
それにしても凄い迫力だ。このパパが魔王だと言われても普通の人間なら納得して、それが気の弱い人なら泣きながら粗相してしまうことだろう。
「高貴なお二人が俺なんかに何かご用でしょうか?」
「物怖じしないというのは本当のようだな。俺様を見てひっくり返ったり、逃げ出したりしない地上人は滅多にいない。気に入ったぞ、小僧!」
ニコニコ顔の父様が、神妙な顔を作って言った。
「実は光希さんにお話ししておかなくてはならないことがありましてね」
「俺にですか? ところで、サッちゃんは? 一緒じゃないんですか?」
「小僧! サッちゃんにわざわざ地上まで出てこいとでも言いたいのか? あの子は天使の野郎に追われて心底傷ついたっていうのに! おまえはよくもそんなひどいことが言えるな? おまえサッちゃんをどう思ってるんだ! 好きなんだろ? 好きな女を危ない目に遭わせても平気なのか? 人間ってのはそんな薄情者に成り下がったのか?」
パパの拳が怒りにワナワナと震え、コタツテーブルはバラバラに砕け散った。
「いえ、そういうわけでは。ただ、会いたかったなと思っただけでして」
「……そうか、わりぃわりぃ」
パパの手が紫色に光った気がしたのと同時に、コタツテーブルが復活していた。むしろ、素材が豪華になっているようにも見える。ためしに布団をめくって脚の部分を確認すると、マホガニーか何かの立派な木製に生まれ変わっていた。ちなみに元々はプラスチック製である。
「ところで、お話ってなんでしょう?」
「光希さん。人間のあなたにこんなことを言うべきかどうか迷ったのですが、一緒に魔界に来ませんか?」
「なんですって?」
「もちろん、人間のあなたがそのまま魔界に入ることなどできません。十分にお考えになった上で」
「旦那、あんたは話が遅えよ。ちょっと引っこんでな」
パパが身を乗り出す。復活したばかりのテーブルがミシミシと悲鳴を上げる。
「おい、小僧! サッちゃんに会いてえだろ? 魔界の俺達の家でみんなそろって暮らしたら楽しいに決まってるじゃねえか。だから来いよ。なっ、文句ねぇよな? サッちゃんもきっと喜ぶぜ?」
「はあ……」
「おいおい、俺達と一緒が不満か? それともまさかおまえ……サッちゃんに不満でもあるのか? 魔界一のいい女だぞ! 不満なのか? おい! 返事によってはただじゃおかねえぞ、小僧!」
「まあまあ、パパさん。それでは光希さんもわけがわかりませんよ」
父様は白い光でコタツを保護しつつ、パパをなだめる。
「じゃあ、やっぱ旦那から話してやってくれ」
「わかりました。……いいですか? 光希さんがショックを受けるといけないので、魔界にいきたいと言ったら黙っているつもりだったのですが、あなたは近いうちに亡くなることになっているんですよ」
「なんですって?」
「天界の友人に、冥府から送られた名簿を密かに調べてもらったので間違いありません。サッちゃんの件で我々は派手に動きすぎました。直接の手出しはされなくても、何者かが冥府に根回しして寿命を書き換えたのでしょう。だからわたし達はあなたが生きているうちにこの話を伝える必要があったのです」
「そんな……。でも、それで魔界にいけば助かるんですか?」
「徴を持たない者は魔界に入れませんから、徴がない者からは身を守れます。それに、地上人以外は歳をとらず、殺されない限り死ぬことがありませんから、寿命を書き換えられる心配もなくなります。もし、この件が徴を持つ者、つまり魔界人の仕業なら危険ですが、もしもの時は私達三人もいますので」
「他に選択肢は……?」
「もちろん人間として死んでゆくという選択肢がないわけではありません。しかし、あなたの生き死にに関して作為的なものを感じる以上、あなた一人きりで冥府の審判を受けさせるのは気が引けますし、サッちゃんもそれを望まないはずです」
「どうせ死ぬんだから来いよ。魔界はいいところだぜ、小僧」
わけのわからない事態になってきたが、退屈を抜け出せるのなら……。魔界には幸せってやつがあるかもしれないしな。
「……仕方ない。じゃあ、お願いします。死んだあとで恐ろしげなゴタゴタに巻きこまれるのはさすがにいやですから」
「それでは、ご両親に電話をかけてわたしに代わってください」
「え?」
「記憶を消していきましょう。ご両親を悲しませてはかわいそうです。記憶を消す前にお別れの言葉を言ってもいいですよ」
俺は東京にいる母と、父の勤め先に電話をかけた。
「春休みだからちょっと旅に出るけど心配しないでくれ。いつもありがとう」
と言っただけなのに、早まっちゃだめだとか、つらかったら東京に来ていいんだよとか、言葉を尽くして心配してくれた。早まった真似を予感させるようなこと、してきたのかな、俺。
父様がそれぞれの電話口で意味不明の言葉をつぶやいて、受話器を置いた。
「……いつもつまらないってばかり言ってごめん。さようなら。父さん、母さん」
父様は俺の肩に手を置いてうなずき、パパが大きな手で頭をなでてくれた。
「よし、じゃあおまえに徴をやろう」
「え?……ちょっと待って! どうせならサッちゃんの可愛い指からもらいたいです!」
「徴がなきゃ魔界に入れないってのに、どうやって魔界にいるサッちゃんから徴をもらおうってんだ! それとも何か? サッちゃんにわざわざ出迎えろとでも言いたいのか? 贅沢言うな!」
パパにヘッドロックされてゴスっとげんこつをもらった。パパからすれば冗談のつもりなんだろうが、危うく気を失うところだった。なおもヘッドロックは続き、絞められている腕だけで頭蓋骨がメリメリと音を立てそうだ。
「うぁ。ちょっと待って!」
「つべこべうるせぇぞ、小僧!」
パパの指先が紫色の光線を放った。
シャツを引っぱって覗いてみると、胸の真ん中に五百円玉くらいの逆五芒星が刻まれていた。受け入れる気持ちがあれば苦しまないはずなのに、胸に強烈な違和感を感じて嘔吐寸前とばかりに咳きこんだ。
「あ、てめぇ、俺から徴をもらったのを本気でいやがってやがるな。さっさと受け入れないと身体に良くねえぞ。まったく愉快な奴だ」
パパが、ガハハと楽しそうに笑っているのにつられて、父様も笑っている。
とんだ災難だったが、まあ仕方ないと思った途端に違和感がピタリと止まったから不思議なものだ。次に何かの儀式でもあったとしたら、その時は断固として、サッちゃんにやってもらうとしよう。
――そのあと、俺を覚えていない両親に問い合わせや督促などいかないよう、できる限りの手続きを済ませ、二人に家財道具一式すべてを消滅させてもらった。俺達の宝の山、パソコンも含めて。
「さようなら、人間界」
こうしてささやかな俺の『人生』は終わりを告げ、俺は魔族の一員になった。