0-『隼人』
どうぞ宜しくお願いします。
ある夏の出来事だった。午前中だけの授業が終わり、高校からの歩き慣れた帰宅の道を隼人は背筋を伸ばして歩く。
太陽の日差しがじりじりと肌を焦がす勢いで隼人に降り注ぎ、耐えきれずに首元のボタンを二つ外して汗に濡れた張り付くシャツの襟を崩した。体内の熱を少しでも逃がそうとしたが、効果が無い。
家までの歩道が狭く、直ぐ隣で車が大きな音を立てて走り去った。熱で苛立ちを隠せない隼人は足を止め、既に小さくなっている車へと振り返り舌打ちと共に睨む。
「こんな場所で、スピード出すんじゃねぇよ」
口に出した隼人は眉間に皺を寄せて、馬鹿な事をした自身へ呆れて息を吐き出し。再び、家に帰る為に足を動かそうとして。
「…此処…」
幼い頃、隼人が良く日が暮れるまで居場所にしていた古びた公園の入口が視界に入って、足の動きを隼人は止めた。
公園の中では二人の子供が夏の暑さを凌ぐ為にか、互いに声を上げて笑いながら水鉄砲を撃ち合っている。母親らしき女性は、中にあるベンチで話に夢中だった。
のどかな光景を見て、隼人はぼんやりと大きな印象があった光景が、こんなにも小さい公園だったのかと考える。昔は大きくて良くブランコを揺らしながら、彼女の帰りを今か今かと待っていた。日が暮れるにつれて、公園が世界から隼人ごと切り離された様な錯覚をしては。息を切らせて迎えに来た彼女に泣いて、慰められた。
脳裏に浮かんだ人物が口元に笑みを浮かべるけれど、隼人にはその人の顔が。まるで、この夏の日差しに遮られたかの如くはっきりと思い出せない。
「…くそったれ」
忘れはしない。幼い頃に誓った筈なのに、時は無情にも隼人から記憶を奪い取る。
今にも叫びたい衝動に隼人が唇を噛み締めて、今度こそ足を前へと踏み出した。
ダイジョブダイジョブ
耳元で囁かれた懐かしい声に、隼人の心臓が跳ねる。呼吸を忘れて、振り返る隼人の直ぐ横を。
子供の一人が水鉄砲の水撃から逃げる為に、きゃらきゃらと楽しそうに笑い声を上げて車道へと走り去ろうとし。
隼人の視界の端に赤い車のドライブ音が、彼の耳に膜を張ったかの如く濁って聞こえた。
「…ゆきねぇッ!」
振り返ったままの体勢で隼人が子供の腕を掴む。そして、歩道へと乱暴に腕を引き、隼人は不安定な体勢であった為にたたらを踏み。車道へと子供の身代わりになる様に背中から倒れ込んでしまった。
ほら…。
全てが幻の様にぼんやりとする中で、その声は暖かく。雲一つ無い青い空が綺麗だと、隼人は感じた。
ある男の話をしよう。
幼い頃に、両親に愛を与えられなかった子供の話だ。
幼い頃に、親以上の愛を与えてくれた人を失った子供の話だ。
これは、一つの想いを胸に刻んだ男の話。
後に英雄と讃えられる男の、語られざる始まりの一端。
その空間は白に染め上げられていた。壁は見えないが地面も周囲も穢れを知らぬ白い色で、透き通った透明な水が隼人の膝辺りまで存在している。
天井を見上げれば一面の美しい紫苑の小さな花が咲き誇る絵のステンドグラス。
そのステンドグラスから射し込む光が色を纏いて、水面に揺らめく光の絵を描いていた。
その空間に背中合わせに置かれた椅子の一つに、隼人は座っている。懐かしくも優しい空間に、隼人は心地の良い微睡みに身を委ねて瞳を閉ざしている。
「さぁ、創めよう」
隼人の背後から声がした。その声に目をゆるりと開くと、目の前の水面にぼちゃりと水飛沫を上げて【それ】が落ちた。
次々と落ちる【それ】の正体を見る為に、隼人が顔を天井へと上げると。美しいステンドグラスの隙間から滲む様に、艶の無い漆黒のヘドロが次第に量を増やして小さな紫の花を侵食していくのが見えた。
「 千の祈りは、千の呪いに
光は闇に堕ちて、希望は絶望へと
喜びは哀しみに、生は死に
呪え 呪え 呪え
世界の全てを憎んで永久に呪え 」
淡々と恐ろしい程に感情の無い声は、隼人には【それ】と同じモノに思えて吐き気がした。
透明で清らかだった水は黒く濁り、隼人を絡めとるかの如く滑りを帯びる。逃げようと椅子から立ち上がろうとしたが、隼人の足は自身の身体では無いと主張する様にぴくりとも動かなかった。
「 貴方の声が伝わる事は無い。
貴方の姿が見える事は無い。
貴方の手が触れる事は無い。
あぁ、創めよう 」
声は隼人の脳を直接手で掻き回していると錯覚してしまう程、精神をぐらぐらと揺らし。けれども、隼人の身体は微動する事も無く、光の無い黒く変わり果てた空間を見つめ続けていた。
「 どうか、これが終わりとなるように 」
その言葉を最後に、隼人は目が覚めた。
「ジル。ジルフォード!」
女性の大きな声に目をカッと見開いて、隼人は全身をバネの様にしならせて飛び起きる。
鼓動と息が荒く、全身から冷たい汗が吹き出し。先程の夢が脳裏に鮮明に浮かび上がる。
咄嗟にベットに這いつくばると、隼人はベットの縁から顔を突き出して。何も入っていない為に、胃液と体内に巡る【それ】への嫌悪を吐き出した。
「まったく、今日はお寝坊さんねぇ…ジル!?」
女性が吐いて苦しむ隼人を見つけて、慌てて部屋に駆け込むとそっと隼人の背中を撫でる。
「ジル、大丈夫?具合が悪いの?」
「…ダイジョブ」
未だに体内で蠢く吐き気を四回目の深呼吸で抑え込み、隼人は背中を撫で続ける女性へ弱々しい声を上げた。
上半身を起こそうとした隼人を女性が手伝い、さらりと若草色の女性の真っ直ぐな髪が揺れる。
「そう?我慢していない?」
隼人の言葉に尚も案じて、彼の頬を撫でる女性は顔を覗き込んで空色の瞳を不安げに揺らした。
「うん…ダイジョブダイジョブ」
女性の瞳に映った、同じ髪質と色を受け継ぎ赤茶の瞳の幼い子供。隼人の言葉に合わせて、その子供が口を動かし。
「ほら、元気」
前世の隼人に何度も安心を与えてくれた言葉を、現世のジルフォードの母親である女性に告げたのだった。