傾き百八十度
六月の日差しがじりじりと差す日のことでした。小学校の校庭にそびえたっているケヤキの葉が風でなびき葉に当たった日光が照りかえっています。総介のいる教室から見ると葉が、崖下から見た砕け波のように、光ってみえました。教室の蛍光灯は目に痛いので総介は日光のほうが好きでした。
総介は極端な恥ずかしがりやでした。何をするにしても顔がまっかになり、口からは熱い息ばかりでて言葉はちっとも出ずに、腕や体を回して伝えようとするばかりですから皆にしょっちゅう笑われていました。
その日総介は授業でいっそう皆に笑われると抑え切れず泪が目にたまってしまって、思わず教室から抜け出し、廊下の突き当たりでわんわん泣いてしまういました。突き当たりにはモップや箒が無造作に置いてあって掃除当番はゴミを捨てにいくのが面倒だったのでゴミは隅に放っておいていました。そのせいで埃が溜まってすっかり煤けてしまって総介はそこに行くと埃にまみれて汚くなってしまうのでした。埃が目に入ると真っ赤な目がより痛んで目もあけていられずつむってしまうのですがとめどなく溢れる涙がすきまからこじあけるようにして出て行くのでした。
先生はそれを見とがめて総介をそこから連れ出すのですが総介は離れるどころか、かえってモップにしがみついている有様で先生は呆れ果てていました。先生はピシっとスーツを決めていて総介はいつも見下ろされている気がしました。
「宮野君、宮野君。いつまでもそこにいてどうするんですか。みんな、もう、笑いませんから早く教室に戻りなさい」
「だって、先生。僕は。悪くないのに。何か言おうとしても、つっかえるんだい」
「わかりました、わかりました。事情は分かりますから。早くそこから出てきなさい、ばっちいですよ」
先生に腕をつかまれてひきずられるように廊下を大またに歩いているとき総介はけっきょくなんにもわかっちゃいないんだと何度も、何度も、頭の中で繰り返して、口を一文字に閉じて強く歯をかみしめていました。
がやがやとした教室の前につきますと先生はクリーム色をした戸をがらがら開けて、
「こら、静かに。君らが喋っていると他のクラスの人に迷惑がかかりますよ。君たちはもう四年生なんだから自覚を持ちなさい。ほら宮野君、席に戻って、早く」
総介は背中を軽く押されてしぶしぶ席に戻ることにしました。空いている自分の席はどこか浮いているように見えました。席に戻る途中にクラスメイトの好奇心に輝いた猫のような瞳に見つめられると嫌気がさして、またどこかで聞こえるひそひそ声は全部悪口に聞こえて居づらかったのです。そして床をぎしぎしと音をたてて席に戻り、椅子をひとりがたがた引きずるのもまた恥ずかしいのでした。
「宮野君は席にもどりましたね。君はかっとなるのがいけない、もっと落ち着いてください。大事なことですよ。いいですね。では授業に戻りますよ、さあ教科書を開いてください」
授業が再開すると皆は静まって先生の話を聞きます。その時間は国語で先生が生徒の誰かをあてて朗読させていたのですが、たまたま総介にあたってしまったのでさっきのようになったのでした。先生はもう一度生徒をあてて朗読させました。その生徒はつっかえつっかえではありましたが何とか読んでいました。総介は教科書の文を目で縦に縦に追いかけて、涙で赤くなった目をじっと向けていました。ふてくされたように腕をだらしなく伸ばして教科書を立てていたのですが先生は注意もしません。
朗読ぐらい僕にだってできらあ、だって頭じゃすらすら読めてんだもん。そんなことをずっと授業の間は考えていました。
授業が終わって休み時間に入ると総介は机でじっと座っていました。周りの皆は色んな机に集まって騒ぎ立てています。総介が足を椅子のひんやりとしたスチールにぴったりつけて背もたれにだらしなくかけていますとクラスメイトの和人が総介に見かねたように声をかけました。
「どうしたんだい、うまくいかなかったからってすねるなよ」
「すねてなんかないや、僕は、周りに腹を立ててるのさ」
「みんなが君を笑ったのはしかたないよ、だって君、あんなに面白いんだからさ。はは」
総介は和人の言い草に苛立って言いました。
「面白くなんかないやい、お前らが笑うから面白いんだろ!」
「何言ってんだあ、わけわかんないこというなよお」
そう言い返すと和人はそそくさとそこから去っていきました。
総介は怒る気にもなれませんでしたがふつふつとした気持ちだけは募ってきました。理科の実験でフラスコに水を入れて沸騰させたことがありまして、その前段階の小さい気泡が浮上したことが強く印象に残っていました。実験の最中、総介はあんなふうに泡立っているのを見ているといつ爆発するか不安でなりませんでしたが、実際のところ爆発は起こらずただ泡が激しくなるだけだったのです。しかしそのとき総介はむしろますます不安になっていました。
やり場のない怒りをこらえていますとチャイムが鳴りました、授業が始まります。先生が年季の入った群青色の机から立ち上がりました。
「起立、礼、おねがいしまーす」
委員長が間延びした声で号令をかけますと皆それにならってお辞儀をしてがたんがたんと椅子に座りました。
次の授業が始まりました。
「ありがとーございましたー」
最後の授業が終わると眠そうな声で委員長が号令をかけました。皆はそろって一斉に鞄を取り出して机の荷物を入れました。机の中はぐちゃぐちゃな子が多く中にはお道具箱の中身まで一緒に取り出した子までもいました。
総介はやっと終わったんだと心底疲れきった様子で思いました。泣いた疲れや怒った疲れがたまりにたまってやけになってもいました。
教室の喧騒の中で先生が声を張って言います。
「今日の授業はこれで終わりです。連絡事項はありませんが気をつけて帰ってください。寄り道してはいけませんよ、遊ぶのは帰ってからです」
生徒はつぎつぎ立ち上がって風のように教室から飛び出していきました。
せんせーさよならー、はいさようなら――
総介がそよ風のような声をつぎつぎ聞き流していましたらいつのまにか一人になってしまい、夕陽がカーテンにこもって、ぼんやりと教室を照らし机にちらちら橙の光点が写るのを見ると取り残された感じがしました。
「宮野君は帰らないんですか」
「いえ、少ししたら、帰ります」
「今日は大変だったでしょうが、いえ、その落ち着いてから帰ってください。電気は消しときますね」
先生は総介にそう言うとあっさり教室を出て行ってしまって総介はほんとうに一人になりました。廊下だけが騒がしくこの教室はがらんとしているのは胸にくるものがあって何となくその場を動かずいました。人っこひとり居ない教室には総介を笑う人はいませんでした。
総介は十分もするともう充分だと思ったのか、のそのそと鞄を持ち上げて席を立つと、椅子を直さずに、さっさと教室から出て行きました。
下足箱に来ますとクラスメイトの女の子が居ました。彼女は愛沢悠里といって物怖じせずはっきりしゃべる利発な子でした。髪を短めに切っていて不思議なことに総介は自然と日ごろそこから見えるうなじに目をとどめずにはいられませんでした。総介は悠里さんがいたことに驚きました。
「愛沢さん、どうしたってここにいるの」
「あ、その。私たちが笑っちゃったのを謝りにきて」
「謝るたって。僕は怒ってなんかないし、君らに悪気はなかったんだろう。なにも謝ることなんかないさ」
「そんな拗ねなくたっていいのに。とにかくごめんね。ほんとうに気を悪くさせちゃって」
総介は何度も言われる謝罪の言葉にひっかかりました。すぐに泣いてしまう自分が悪いのは分かってんだ、謝られたりしちゃあどうするってんだ、そもそもどうして教室の中で謝らないんだい。
総介は何も言えずにもごもごと口を動かすと、途端に恥ずかしくなって、慌ててげた箱からスニーカーを出すやいなやかかとを踏んだまま履いて走ってでていき、振り返りもせず校門を出ました。
校門の外に出ると正面には公民館がありました。そこの前に公園があり子供たちが遊んでいました。公園の遊具は砂にまみれがさがさしていてどことなく色あせて見えます。公園の端のほうに小さなトンネルがあって夕陽の明るさと相まってよりいっそう暗くみえ、その中に子供たちがわいわい遊んでいるのをみるとどうも胸の奥が痛くなるのです。総介に気づいたある子供は遠くから甲高く叫びました。
「おーい泣き虫。いじけてないでこっちこいよ」
総介はその言い草にむっとしてむきになって言い返しました。
「こっちこそお断りだい。そっちで勝手にやってな」
「そういうなら仕方ねえな。好きにしろよ。まあ何時来たっていいんだぜいじけ虫」
「誰がいくか、ばーか」
言い終わるとその子供は他の子供たちの遊びに紛れてしまいもうさっき言ったのは誰だったかわからなくなってしまいました。総介は生来やっかいな性格で、生まれてこのかたずっと頑固でした。引きどきも分からずつっぱねるだけしか知らないのです。
そして歩幅を気持ち短くして家に帰っているとお姉さんに出会いました。このお姉さんは総介がもっと小さかったころからの知り合いでずいぶん長い付き合いでした。名前は雲間彩加というのですが年上の人に何て言えばいいのかもわからず雲間さん、彩加さんというのもとても呼べずただお姉さんとよんでいたのですが不思議とそれがちょうどいい具合に思えたので、会ってからずっとそう呼んでいました。彼女は中学三年生で総介よりもよっぽど大人で、羞恥心の強い彼を根気よくみててくれた人でもありました。髪を一本にくくって清潔な感じがする人でした。
お姉さんも家に帰る途中のようでしたから一緒に帰ることにしたのです。
「目え腫らしてどうしたの。また学校でなにかあったの」
「そんなことない」
総介は隠すように目を下に向けながら言いました。
「嘘言って。そんなこと言ってなになんの」
「嘘じゃないもん、違うんだから」
「そうやって意地はってもしかたないわよ」
「意地なんか、僕は、うう」
総介は今までの気がすぼんでどんどん声が小さくなりました。彼は急に泣きたくなったのです。分かってくれる人が居るというのはなによりも安心できるものなのでしょうか。風船がぱんぱんになっているところに針を刺すとみるみるしぼんでいくのとまるっきり同じ状態でした。
総介は張ってきた虚勢をかなぐり捨ててぐすんぐすんと涙ぐみ終いには咽をしゃくりあげて全身で泣いていました。あの埃まみれの隅っことは違い、路上とはいえ、包んでくれるような暖かさに触れると我慢なんて消しとんでしまうのです。泣きわめく総介を見ると、お姉さんはかがんで濃い青色のスカートを地面につけ手を大きく伸ばして総介を抱きしめてあげるのでした。指先がわずかに食い込んで総介の服越しにか細い力がくいっと伝わります。総介の銅のような腕とは違いお姉さんの肌は暖かくしっとりとしてまるでシルクのようでした。まるで布団の中で泣く子のようで少し恥ずかしかったのですがそれでも落ちる涙は止まらずまたひっくひっくと咽喉をしゃくりあげるのもやはり止まらないのです。そして総介の顔が肩にくっつきセーラーの白い生地がほのかに香り、お姉さんの顔が僕のすぐ横にあると思うとなんだか照れくさい気がします。ブリキのおもちゃのように突っ立ってるしかない彼をお姉さんは温かく抱擁してくれるのです。
そして総介が静まったころにお姉さんはゆっくりと腕を放してくれてひらりと立ち上がりました。かすかに残る余韻で頭がもうろうとします。お姉さんは笑顔で言いました。
「どう、総介君。落ち着いた」
「ん。うん」
「だけどいつまでもあたしに頼ってたら駄目だよ。自分で何とかしないと」
「うん。それはわかってる、でも、それでも」
「だーめ、自分からやらんといけないことだってたくさんあるんだから。甘やかされちゃだめ」
総介は少ししょぼくれて服の胸のあたりを引っ張ったりしてました。あの温もりは唯一総介をなだめてくれるものでしたから素直には頷きづらかったのです。それを見たお姉さんは少し口を釣り上げて言いました。
「まあ、それでも。総介君がしんどかったりしたらあたしがなんとかしてあげるから。だって君、なんだか放っておけないんだもん」
それを聞いた総介はつい嬉しくなってお姉さんの白いセーラーに包まれた細い腰に抱きついてしまいました。お姉さんは仕方ないなあといった風にため息をついてあやすように頭をひっそりと何度も撫でていました。お姉さんはアジサイの甘い香りがしました。
お姉さんと総介が並んで帰っていると、お姉さんが総介に声をかけました。
「学校はどう。楽しいの」
うつむいたまま総介は黙って首を横に振って、さっきのことを思い出すとやはり顔が赤くなるのですがこれはいつもと違う気がしました。
そんな様子にお姉さんは何も不思議がらずただ「そっか」と言いますと微笑んで総介を見つめていました。
夕陽の下で彼らが道を歩く度に道沿いの電灯が彼らの影を四方に引き伸ばしたり縮めたりして変幻自在に形を変えていました。
川に架かっている小さな橋を渡るときに総介はカワセミが枝に止まっているのが見えました。こぶし位の大きさにヒスイみたいな色をしていて川によく映えていました。見る角度を変えると羽が光沢のある青色に変わり周囲の色よりずっと目立ち目を引き止めて止みません。
「ねえお姉さん、あそこ見てよ」
「え。どこ」
「ほらあそこ」
総介が勢いよく指差した先をお姉さんが見ると
「あ。ほんとだ。あたし初めて見た」
「そうでしょ、きれいだよね」
「ほんと綺麗ね」
カワセミは真っ赤に流れる川にクチバシをかたむけて枝の揺れにあわせてゆっくり揺れていました。ほんの一瞬のあいだに、カワセミは垂直に水に飛び込み勢いよく飛び上がって羽をはばたかせました。それを総介は目でおいかけカワセミが飛んでいったであろう草むらのあたりを見てもカワセミはいませんでした。目をきょろきょろ動かすと、見当違いもはなはだしく、カワセミは対岸にある岩に移っていました。あまりの早業に何を捕まえたのかもよく見えませんでしたので
「何をとったか見えた」
「ううん見えなかった」
「そうなの」
そして少し留まるとそのまま川の向こうに飛んでいってしまって姿も見えなくなってしまいました。あっというまの出来事で惜しむことすらできず、置いてけぼりをされたかのようでした。
ぼうっとさっきまでカワセミのいた岩を見ていますと
「何してるの早くいこ」
と声をかけられたのでうんと答えお姉さんについていきました。総介は歩いている途中何回も川を振り返っていました。
お姉さんの家の前につくとお姉さんは手を後ろに組み前にかがんでお姉さんはこう言いました。
「今日はここでお別れだけどいつでも頼ってくれて、いいんだよ」
「余計なお世話だい。僕はいつでも一人でやっているんだ」
目を細めてお姉さんを見返すと目があって意固地に見つめました。総介の目はぱちくりと瞬きを繰り返していて、お姉さんはこらえきれずにふいっと目をそらして
「ああ、もう、君は強いねえ。何だかずるいよ」
そんなことを言ったあとにすくっと立ち上がるとバイバイと手を振ってそのまま玄関に入っていきました。総介はなにが強いのかさっぱりでしたがそれでもお姉さんにそう言われたら悪い気はせずむしろ嬉しい気さえもしたのでした。
一人で帰っていると総介はとても落ち着いていろんなことを考えることができるようになりました。
例えば今日、皆が僕を笑ったこと、先生の言い回し、皆のそれとない心遣い、悠里さんが待っていてくれたこと。中には自分を励ましてくれたものがあることに気づきました。しかしその励ましも総介を笑っていたり総介の他に誰もいないところで謝罪する気持ちの裏にあると思うと、なにも言えませんでした。
赤い陽がさんさんと降りそそいで汗が服に染みこむのが分かりました。ふと、もし空から世界を見るともっと落ち着いてものが考えられるんじゃないかと思いました。自分を傷つける言葉や行為もきっと悪気があって言っているんじゃないんだろうな。たぶん自分の知らないうちにやってんだ。総介はそうも思いました。
爽やかな初夏の風が吹きつけ総介の髪が逆立つように立ちました。総介は頭を押さえて風の吹いた方を見ますとやっぱり、何もありません。ですが総介はその奥に大きな何かがいると半ば確信をもって考えていました。意地悪で奇妙な、それでいて心地よく、包み込んでくれるものが。夕暮れの温かさが人肌のように感じました。
雲が鉢を囲むようにして総介のずっと上を巻いていまして、
――夕陽が斜めに僕を照らして、合わせて世界が傾いた、そんな気が、する。
総介はぽつんとそんなことが心に思い浮かんだのです。
やっと家につくと、門の前には、大きな鉢に黄色いコスモスが咲いていてバラ色の土と合わさってとても綺麗でした。総介は行くとき帰るときこれを見るのが楽しみでした。門をぎいっと開けてとんとんと駆け上がって玄関に行きました。ドアを開けるときに金色の縁に青でスミレの意匠が施されたステンドグラスが扉にはめこんであるのが目に入り、見飽きたはずなのに綺麗だなあと見ほれてしまうのでした。身体をドアの間に滑りこませるように入れ、玄関で靴を脱ぎ、フローリング敷きの床をぱたぱた走ってリビングに入りました。
リビングには黒い一人用のソファがあってそこに総介のお母さんが座っていました。お母さんはまぶたをうっすらと閉じていて、まどろんでるようでしたが、総介はそれに構わず話しかけました。
「お母さん、お母さん。今日はいいことがあったんだ、ねえ、聞いてよ」
お母さんは目をぱちっと開けて顎を軽くあげると総介を見て言いました。
「あらそうなの総介。どんなことがあったのかしら」
「あのねえお母さん、帰りにお姉さんに会ったの」
総介は横のてすりに両腕をつけてその上に顔を乗せて言いました。
「へえ彩加ちゃんに会ったの、それでどうしたの」
「うん、それでね。お姉さんに抱きしめてもらったんだ。お姉さんって不思議で甘い匂いがするんだ、香水でもつけてるのかなあ」
「香水ねえ、多分それは違うと思うけれど」
「なんで」
「だってときどき話すけど普段彩加ちゃん香水なんかつけてないわ。いい匂いがするっていうなら、そうねえ。服の匂いじゃないかしら」
「なんで服に匂いがつくの。服なんて汗しかつかないよ」
「いいえ、服が清潔だったら何か匂いがするの。総介だって雨の匂い、わかるでしょ。あれと同じ。ないようにみえてある、かすかな匂いだってあるのよ」
「そうかなあ。僕は雨の匂いは分からないけど。でもそうなら僕はその服の匂いが好きだな」
きっとあのまっ白なセーラーの匂いなんだ、甘い甘いあの匂いは。
総介はそう考えるとしっくりきました。
「そういや総介、さっきあなた抱きしめてもらったとか言ったけど何かあったの。もしかしてまた学校で泣いたの」
「えっ、それは、違う」
「また嘘ついて。目が少し腫れてるわよ」
「うそ」
するとお母さんは手を総介の目元にやり、なぞるように触りました。総介はくすぐったく思って顎を後ろに引きました。
そしてお母さんはふんわりと笑うと総介の頭をゆったりと撫でました。風でごわごわした髪の毛はゆっくりと押さえられて、離されて、また押さえられて。総介はお母さんに学校のことを見透かされたことを考えて、そんなに僕はわかりやすいかなあ、と思いました。お母さんの大きい手はお姉さんのすっきりした手と違い肌が角ばってざらざらしていましたけれど心地よかったのです。
「まったくこの子は、世話ばかり焼けて」
お母さんはそう言うと手を離しました。総介は首をわずかに傾けて
「迷惑ばかりかけてごめんねえ」
「なに謝ってるのよ。迷惑をかけるのがあなたの仕事なんだから、気にしないの」
仕事っていうけれど僕はいつのまにそんなことを受けてたんだろう。と総介は思いました。
しばらく頭の中が霞がかったような状態で部屋でのんびりしていますとお母さんが
「ご飯にするから食事の準備をしてちょうだい」
と言いました。のんびりと過ごしていた時間が終わってしまったので総介は片頬をほんの少し膨らませて残った空気を味わうのでした。
食事が終わるとお母さんはお風呂に入りなさいとか歯を磨きなさいとかいろいろ総介に言いつけると総介はその通りに従いました。お母さんの言うことには自分が面倒だと思ってもその通りにしようと心がけていました。家のあれこれがうっとうしく思ったことはありましたがそれでもお母さんは好きであったのでそれで構いませんでした。
「寝る準備は出来たの。そう、出来たのならカバンを持って上に行きなさいね、それと明日の準備も忘れないようにね」
「うん、もちろん。わかってるよ。いつものことだもん」
鞄を手ですくい上げてリビングを出てそのまま階段を登っていきました。階段は登るたびにがたがた鳴って調子よく踏みつけるのが総介は好きでした。階段を登ると窓がありまして、窓からはさっきまでの夕暮れは影にも見えずただ暗闇だけがありました。それを見ると物悲しくなって、逃げるように自分の部屋に入っていきました。
スイッチを入れて電気をつけますと、スイッチの周りが黒ずんでいるのが見えます、これはいったいなんなんだろう、と総介はいつも考えるのですが結局調べるのは忘れてしまうのです。
部屋の外を窓ガラス越しに見ると、白っぽい蛍光灯の光がガラスに反射され自分の顔がくっきりと薄く写ってしまい、外の暗闇にほんのり自分が浮かんでるみたいでいやでしたからカーテンを両手で乱暴にしめました。
時間割表と見比べて明日の授業の用意をすますとベッドにごろんと横になりました。心地よい疲れのせいで意識は段々と遠ざかっていきました。
がたん、とドアが開く音がしました。お母さんのお帰りなさいという声が聞こえてきました。起きてみると意識がおぼろで気分が悪く、変な感じがしました。天井の明かりがつけっぱなしだったせいでした。そのあとダンダンダンと階段を踏む音がするとすぐにバンとドアを閉じる音がして総介は怯えました。お父さんはいつも遅くに帰ってきて僕の知らない間に出ていってしまうのです。毎晩、音だけが聞こえて、お父さんはほんとにいるのかなと疑っていました。家族とかいうんじゃなくてまるで単に家にいる人のような印象がいつもあって総介には不気味に思えました。
もう一度バンとドアを閉める音が聞こえ、ドタドタという音は次第に遠くなっていきました。たぶんお風呂に入りにいくんだろうなと総介は思いました。耳だけが冴えていて目線はずっと暗闇が写る緑のカーテンに注いでいました。
総介は眠気がすっかり取れたのでどうしようかなと思って部屋を見回しても教科書や分厚い辞典ぐらいしかなくつまらないと思ったので、一階に降りることにしました。
総介が一階に降りるとお母さんが冷蔵庫からビールを取りだしてグラスにうつしていました。金色の水は不思議なほど泡立っていてジュースとも違う大人の飲み物という感じがしましたが別に憧れるなんてことはなくむしろ何だか奇妙で気持ち悪く思いました。
「あら、総介。こんな時間に起きてどうしたの」
「うん、電気をつけっぱなしにしちゃって胸がざわざわする」
「ダメよ消さなきゃ、体によくないわ。もう一回寝れないの」
「ううん。ぜんぜん眠くない」
「そう仕方ないわね。なら部屋に戻る」
「いや。戻りたくない」
「ほんとに仕方ないわねえ、ならここに居なさい」
「わかった」
総介はそう言うとさっきお母さんが座っていたソファにどすんと座りました。黒革は硬いのですが中にあるクッションは柔らかくて上下にぽんと弾みました。気がひけるのでひじ掛けにひじは置かず膝の上に手を乗せました。かかとは擦るぐらいについて宙に浮いた気分でした。
洗面所のドアが開くとお父さんがそこから出てきました。お父さんは青い寝巻きを着ていてくたびれたしわが顔によっていました。見た目は普通なのですがお腹はでっぷりと出てて、久しぶりに見るとずいぶん変わったなあと思いました。
お父さんはソファにちょこんと座っている総介を見ると珍しいものを見たと言わんばかりに一瞬目を大きく開きました。
「小僧起きてたのか」
「あ、うん。寝付けなくて」
「そうか」
二言三言、話を交わすと興味のなくなったようにテーブルの傍にある長椅子に座ってビールを飲み始めました。ぐびぐびと飲んでいる姿を見ていると、お父さんの咽の出っ張りが上に下に酷く滑らかに動いていて本当に自分とは違う人なんだなあと思いました。
あっというまにビールを飲み干すと立ち上がってゆらゆら歩き冷蔵庫から二三本取り出すとそのまま長椅子に戻ってビールを注ぎ始めました。
「学校はどうだ」
突然話しかけられたもんですから慌てて何を言ったらいいかわかりませんでしたが、それでも声を振り絞って言いました。
「優しい友達が居て楽しいよ」
「ふん。そうか」
そう言うとまたビールを飲み始めました。お父さんが結局何を聞きたいのかはさっぱりで予想もできないのですが、まあこれはこういうものなんだろう、と総介は思いました。
「あなた何かつまみはいる」
「いやいい。このままで」
「そう。わかったわ」
お母さんはお父さんにそう言うとお父さんのすぐ横に座りお父さんの肩に手をかけこそこそと総介には聞こえないように話をしはじめました。今日は、とか寝た後でとか、、まったく分かんない。お母さんがお父さんにつきっきりといのも面白くない。そう思い始めると頭がごちゃごちゃして、わけがわかんなくなってしまいました。
総介はソファに座るのも飽きたので肘掛けに手をつけて飛び出すようにソファから立ち上がると
「ぼく、もう寝るね」
「ええ、お休み」
お母さんにこう言うとお母さんはにっこり笑って僕に手を振ってくれました。何だか今日は色々あったせいでもう何も考えたくない。
ですがリビングを出ると突然思い出したことがありました。それは総介が今よりもっと小さかったときのことでした。一時期お父さんに本を読んでもらったことがありまして、お父さんは僕の読んでほしいような絵本は読んでくれず、いつもお父さんは二階にある自室のずっしりとした黒い木の本棚からお父さんが選んだ本をもってきて読んでくれます。ですが総介はそういった本はあまりよく分からなくてお父さんは意地悪だなあと思っていました。
試しにお父さんに尋ねてみたことがありました。
「なんでぼくの好きな本は読んでくれないの。なんでいつもお父さんの好きな本ばかり読むの」
「その方が都合がいいからだ」
と取りつく島もないのでした。
その日の本は何処とも知れない枯れた大地が舞台でした。
「この旅人を、この馬を見てみなさい。彼らは真っ暗闇の背後からやってくる獣の群からずっと逃げている。心は緊張で縮まり振り返って震える両手で銃を構え獣を狙い一匹、一匹を撃ち抜いていく。紅い閃きが夜にきらめく。旅人はずっと新天地を目指してこの荒野を駆け抜けて、まだ見ぬ光明のために、生きる限り走り続ける」
総介はわからない単語は交っているけれども話に釘付けになってを黙って聞いていました。ふと上を見上げるとお父さんの顔はリンゴみたいに赤くなって目の焦点があってないことに気づきました。
話しが一段落つきましたので分からない単語をお父さんに聞きました。
「ねえお父さん、こうみょうってなに」
「夢見た場所のことだ」
「夢って毎日みるあの。それと本当に場所のことなの」
「夢はそうじゃなくて何と言うか憧れで、それでもうひとつは場所じゃないか。光だな」
「憧れの光ってこと」
「間違ってはいない」
「じゃああってるの」
「そうとも言えない」
「変なの」
「いずれわかる」
他にも分からない単語はあったけれども、聞いてもさっきのようにはぐらかされてしまうだろうと思ったので質問しませんでした。
出し抜けにお父さんは唸るように、悪夢にうなされるようにいいました。
「旅人は住んでいた街にいつづけられなかった、そこで腐ることにたえられなかったんだ。だから無限の世界に飛び出した。だが楽じゃなかった、迫りくる後悔、不幸、障害なんかを叩き潰して前に進むことは。止まれば死ぬ、後悔に身を食い尽くされる、止まれない。ただただ前に進むしかなかったんだ。一度走りだしたら、もう止まれない。止まっていたときには戻れない」
お父さんは総介のはるか後ろを見つめて言いました。
「それで疲れきった身体でようやく街についたら出る前の街と寸分違わぬ錆び切った街だった。あきれたよ。あまつさえ余計な荷まで背負い込んだ。俺はもう走りたくない、しかしこんなもののために走らなくてはいけない。それでもそれでも」
本の話をしていた筈なのにとつぜんお父さんの話しになって困惑しました。それじゃあお父さんは旅人なの、お父さんはお仕事に行って夜遅くになっても帰る家がある、この本の旅人とは全然違うんじゃない。と総介は思ったのですが凄みのあるお父さんが怖くて口には出しませんでした。
「走りつづけたら周りが変わってしまった、俺は何にも変わっちゃいないっていうのに。挙句にはわけのわからない責任を取らされこんなものを持つはめになった。慰めに蜜を貪ればこの様だ。蛇が、不幸が足を咬みやがった。ああこいつが」
こうなってしまうと全く意味が分からず総介には見つめることしかできませんでした。
しばらくぶつぶつ何かを言うと、総介と目があって、お父さんはばつが悪いといった風に、目が泳いで
「そうだ、今日はもう遅い。早く寝ろ」
「わかった」
おそるおそる立ち上がってリビングを出て振り返るとお父さんは本を一心に見ててなぜかは分からないのですが胸に寂しい思いがよぎりました。
もしお父さんが旅人で余計な荷物というのが僕だとしたら、僕は価値のないものなのかな。そう思うと総介は恥ずかしくてなりませんでした。
そんなことがありました。
リビングを出たそこで、かつて振り返ったときを思い出しました。
ぐちゃぐちゃの頭でそのことを何度も思い出しながら総介は二階にあがって、電気をつけず、自分の部屋に入って思いっきり窓をあけて空を眺めると月に雲がかかっていて星の図鑑で見た星雲のさざ波みたいに見えました。
月がぎらぎらと銀河のように輝いて、その得体のしれないまぶしさに総介はずっとみとれていました。