吾輩の憂鬱
吾輩の憂鬱
吾輩も猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。……とくると、吾輩も酔っぱらって溺れ死ななければにゃらないのだろうか。現代猫たるもの、それはにゃんとしても避けたい。
およそ人間に飼われていて名前がないなどという猫はこのペットブームの時代、吾輩をおいて他にいるのであろうか。これは実に由々しき事態である。
ご主人、ご主人。猫より眠っているであろうぐうたらな飼い主の顔をちょいちょいつついて起こす。反応なし。次は肉球でふみふみする。少し反応あり。
最終手段、しゃきーんと自慢の爪を出して引っ掻く。よし、反応あり。ご主人、ぎゃっと叫んで飛び起きた。
ではさっそく要求を突き付けることにする。ご主人、可及的速やかに吾輩に名前をつけにゃさい。しかしご主人は、そんなに腹が減ってたのか、と言いながらキャットフードと水をボウルに入れると、またふらふらとベッドに戻って大いびきをかきはじめてしまった。
可愛いペットの一大事にゃのですぞ? そんな体たらくでいいとでも思ってるんですかにゃ? 吾輩はよだれを垂らしてぐうすか眠っている阿呆面を睨み付けた。
名前がないからご主人に呼び掛けられる時は、おい、とか、お前、とかである。何だか熟年の夫婦みたいだにゃあ、とも思うが、何でもいい、ともかく名前をつけてもらわねばにゃらぬ。
そうか。吾輩ははたと気付いた。賄賂が必要にゃのだ。まずは手近にいたクモを華麗に仕留め、網戸の隙間から侵入してきた間抜けなハエをはたき落とし、かりかりと網戸を開けてふわふわと高飛車なチョウも難なく捕獲。おっと、食べてはにゃらない。これは献上品だ。どれもよだれが出てくるほどの一級品ばかりだから、吾輩の願いも叶うはず。
さあこれでどうだ。吾輩はご主人のベッドに戦利品を並べて寝顔に爪を立てた。
にゃんだ、何が不満にゃのだ。ご主人は吾輩の引っ掻いた頬を押さえながら凍り付いている。声にならない声さえ上げている。喜んでいる様子では決してにゃい。吾輩の苦労を何だと思っているのだろう。ご主人は割り箸で献上品の数々をおびえながらつまむと、ベランダから放り出した。高級食材を無駄にするとはにゃんたる不届き。吾輩はもうひと引っ掻きをお見舞いした。
次の手を打たねばにゃらぬ。どうしたらいいだろう。吾輩は宝物入れを漁った。うむ、これがいい。極上の毛皮が付いた一番のお気に入りの猫じゃらし。ちともったいにゃいが、命には代えられない。吾輩は再びご主人の枕元に上納品を置いた。なんだ、遊びたいのか。ご主人は目を擦りながらそう言うと猫じゃらしを取り上げた。――これはこれで楽しいが、何か間違っている気がしてにゃらない。
危うく目的を忘れるところであった。ご主人! 遊んでいる場合ではにゃい! 名前を付けなければ吾輩、溺れ死ぬのですぞ?
こうなったら悩殺もふもふ攻撃だ。ご主人は吾輩の毛皮が大好きだ。それもそのはず、吾輩の毛並みは柔らかくてつややかで、ご主人に毎日グルーミングしてもらっている他に自分でも毎日手入れしている、自慢の毛にゃのだ。もふっとのし掛かるとご主人は目を細めて吾輩を撫で始めた。うむ、なかなか気持ちいいではにゃいか。ご主人、吾輩のつぼを心得ている。喉がごろごろ鳴る。極楽極楽。――何か忘れていると思うのだが、どうでもいい気分になってきた。つまらにゃいことは気にしないのがいい。吾輩はうっとり目を閉じた。
吾輩は酒をしこたま喰らって心地よくなっていた。ふらふらと縁側に出て寝そべる。庭には蛍なども飛んで風情がある。しかしこの蛍、吾輩を刺そうとしてくる。追っても追ってもまとわりつく蛍に、吾輩は退治しようと立ち上がった。その時だった。すぐ側に置いてあった甕の中に吾輩は落ちた。甕には水がなみなみと湛えられ、酔いどれの吾輩は巧く泳げず溺れて足掻いた。ご主人は気付く様子もない。
ああ、やはり名前を付けてもらえなかったからか。溺れ死ぬのか。吾輩は諦めて無駄な抵抗を止めた。目を閉じるとこれまでの楽しかった日々が駆け巡り、意識が遠のいていく。
「……おい……おい」
ご主人の声が聞こえて揺さぶられ、吾輩の意識は少しずつ戻ってきた。
「おい、起きろ」
吾輩はうっすらと目を開けた。ご主人に抱き上げられた吾輩の自慢の毛皮はずぶ濡れである。
「何やってるんだ、お前。俺の酒を盗み飲みして酔っぱらった上に湯船に落ちるなんて吾輩か。浅かったからよかった様なものの」
いかにも吾輩は吾輩だ。だいたいご主人が名前を付けてくれにゃいからこんな目に――ん? 生きているのか? 吾輩は。
「馬鹿をやるんじゃない」
そう言いながらご主人は吾輩をタオルでごしごし拭いていく。どうやら吾輩、まだ天国には来ていないらしい。
「お前の名前の『ない』は病気にならない、怪我をしない、事故に遭わない、の願掛けなんだぞ。裏切ってくれるな」
ご主人が怒鳴る。にゃんたること! 吾輩には既に名前があったのだ。
猫の名前は、と聞かれるとご主人はいつも、ないです、と答えていた。滅多に名前で呼んでもくれなかった。だから吾輩は勘違いしていたのだ。しかし断じて吾輩のせいではにゃい。全くもってご主人のせいである。でも、そんな願いが込められた名前、これからは大事にしていきたいと吾輩は思うのである。
吾輩は猫である。名前はない。ないという名前なのである。幸福な猫生を送っているのである。 (了)