春来りなば
その人は桜の樹の下で待ち合わせることが多かった。危険だからもう少し目立たない屋内にしたらどうかと言っても、わしはこん桜を好いちょるきに、と取り合わなかった。
「わしの待っちゅうがは日本の春ぜよ。桜の咲き誇る春ぜよ」
たんたんと桜の幹を叩いて彼は笑った。
「まっことくだらん。何でおんなし日本の国ん中でいがみおうちょる」
彼は酔うと決まってそう管を巻いた。
「ええがか、世界にはこんなちっさな国なんぞ一瞬でお釈迦にできる大きな国がわっさわさおる。エゲレスの武器、知っちゅうがか」
ぴすとーるちゅうんよ、と彼は懐を叩いた。
「刀なんぞ太刀打ちできん。黒船も来ちゅう。何で解らん」
私は頷いて見せた。彼は寂しげにくいと酒を呑み干した。
「春が来ちゅうたらな、わしゃあエゲレスに行く」
彼は自慢気に口の端を上げた。
「エゲレスに行って、たくさん見てきて、こん国をもっと良くする」
それがわしの夢じゃ、と彼は晴れ晴れと笑った。
「こじゃんとええ花をつけるのう」
毎年春が来ると彼はそう言って目を細めた。
「可憐で儚くて、いさぎよい。こんくらいええおなごは滅多におらんき」
私はその度に鼓動を速くした。
「なんでも大島と江戸小彼岸の間の子ち聞いた。わしゃあ吉野の花を見たことはないが、京を吉野に染める様じゃなあ」
そこまでの褒め言葉を聞いたのは初めてだった。江戸駒込の植木屋で作られ始めた品種であるこの桜はまだ世間には知られておらず、ぽつりぽつりと依頼を受けて売られていくだけだった。花の色も薄く、やや華やかさに欠けるとも言われた。しかし彼は雪の様な至上の美しさだと手放しで褒めた。
「どんな事でも始めのうちは巧くいかん。辛抱、辛抱」
そう言って細い目を更に糸の様に細め、またたんたんと幹を叩いた。
「染井吉野、ち言う名、どうじゃろう」
彼は懐手しながら私を見上げた。この桜の品種にはまだ名がない。
「一本植えておくだけで吉野に来た気分が味わえる、そんな可能性を秘めちょるき」
よい名だ。私はさわりと頷いた。
ある木枯らしの吹く日、彼は寂しげに笑った。
「これが最後かもしれん。そんな気がしちょる。おまん、達者でな」
葉を落としきった私は応えることもできずにその後ろ姿を見送った。
その報は次の朝私の許へも届いた。坂本龍馬が暗殺されたのだという。こん日本をわっしゃわしゃ洗濯したいんぜよ。彼の笑い声が霜月の寒空に響いていた。
今年も春が巡ってきた。私の枝には溢れんばかりの花が咲き誇っている。しかしその木陰には今はただ柔らかな風が吹き過ぎるばかりである。
(了)