先生の金魚
「これが先生の飼ってらした金魚です」
ひらひらと泳ぐ朱色の琉金を指差して店主は言った。
どうしてこんな雑多な水槽に、と言った私に店主は淡々と答えた。
「金魚にはどんな素晴らしい人に飼われていたかなんて分かりませんでしょう。仲間と一緒に暮らした方が楽しいに決まっています」
金魚屋の店主は、売りはしませんがね、と背を向けた。釈然としない気分と納得と、入り交じった心持ちで私は金魚を眺めた。
先生は気難しい人だった。むっつり押し黙って必要最低限しか口を利かなかった。私たち弟子に対しても同じだった。技術は盗め、とだけ指導した。
先生は金魚なら俺が死んでも誰か世話してやれるだろう、と専ら金魚だけを飼った。そしてどれも見事な金魚に育て上げた。
先生はカッパが好きだった。飄々とした風体なくせに平気で人を殺す、そんな人間のご都合主義に染まらない野蛮さが好きだと言った。
先生はカッパばかり描いた。一生涯カッパだけをひたすら描いた。俺もカッパになるんだと胡瓜ばかり齧っていた。
先生は画家だった。カッパしか描かない偏屈な日本画家だった。偏屈な先生の描くカッパの絵は偏屈だった。恐ろしい表情なのにどこかひょうきんだった。偏屈な先生の描く偏屈な絵は人気だった。その偏屈さが人気だった。
先生には綺麗な奥さんがいた。綺麗でよく気の付く、物静かな人だった。
ある春の日、奥さんは亡くなった。葬式で先生は無言で酒ばかり煽った。先生の盃の中に桜の花びらが入ると、先生はじっと見つめ、ぐい、と飲み干した。
先生は死んだ。誰にも看取られずに、死んだ。ただ桜の花の舞う中を歩く二匹の仲睦まじいカッパの絵が畳の上に佇んでいた。大往生だった。
先生の死に顔は満足げだった。残されたその絵は素晴らしい出来栄えだった。
先生の金魚はとても色つやが良かった。美しいひれはどこも傷まず、うろこは輝いて、周囲の魚よりひときわ大きかった。
むすっとした顔でぱらぱらと餌をやる先生の作務衣姿が目に浮かんだ。
私は水槽に小さな声で、先生、と呼びかけた。金魚は素知らぬ顔でゆったりと泳いでいた。
(了)