六文銭
「お客さん、無賃乗船はやめてくれねえかい」
水夫が眉を寄せる。
「でも、あそこの係員さんがこれに乗れって言ったんですよ」
男はゆらゆら揺れる小舟に足をかけながら粘った。なぜそう指示されたのかは解らないが、ともかくこの舟に乗らなければいけないのだ。
「本当に何も持たねえで来たんですかい?」
胡散臭げに水夫は問う。男は自分の全身を叩いてみて確認し、頷く。
「ちぇっ。一人分ただ働きかよ。しようがねえな」
水夫は舌打ちしながら不承不承舟へ促した。
「何だってここへ来たんですかい? 自分探しとやらかい」
櫂を握りながら水夫は男に話し掛けてきた。ぐい、と力強く舟が動き始める。
「自分なんざ探して見つかるもんじゃあねえ。何かに打ち込んで脇目もふらずやってみて、そんでようやっと見つかるもんでい」
嫌がっていた割に水夫は饒舌だ。東京下町の生まれなのだろうか、伝法な口調がさばさばと気持ちいい。
「自分探しという年齢ではないですね」
男は苦笑する。
「まだ社会に出たての若造ですけどね、仕事のことやらこれからの生活やら、そんなこんなを考えていたら他のことを考える余裕なんてありませんよ」
「そうけえ」
水夫は尋ねたくせに興味なさそうな返事を寄越した。
「おーい! 戻れ」
もうあとほんの僅かで対岸という時、もとの岸から係員が大声で怒鳴った。
「手違いで乗せた人がいるんだ、戻してくれ」
「ああ? この兄ちゃんかぁ!」
男を指差して怒鳴り返した水夫に係員は腕で大きく丸を作る。
「引き返せってのか。乗客は兄ちゃんだけじゃねえんだぜ」
水夫は苛立たしげに足を踏み鳴らす。
「構いませんよ。急ぐ旅でもないからねえ」
同乗していたおばあさんがしわくちゃな顔をもっとしわくちゃにして笑う。隣のおじいさんもにこにこと笑顔で男を見ている。
「ったくもう。本来なら往復十二文貰うんだけどな、ご祝儀だからちゃらにしてやらあ」
迷惑そうに言いながら水夫は片頬を上げてみせた。
「……という夢を見たんだよ」
規則的に鳴り響く電子音と消毒薬の匂いの中で、男の家族は何度も頷いて涙を流した。
(了)